とある魔術の禁書目録6 鎌池和馬 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)薔薇のように見目|麗《うるわ》しい姫さま [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから○字下げ] ------------------------------------------------------- [#改ページ] 底本データ 一頁17行 一行42文字 段組1段 [#改ページ] とある魔術の禁書目録6  学園都市の新学期初日。  それは、|上条当麻《かみじようとうま》が通う学校に“謎の転校生”が現れた日で、インデックスにはじめて「ともだち」ができた日で、|御坂美琴《みさかみこと》がインデックスと初対面した日で、二人に板挟みになった上条があいかわらず不幸だった日で、その一部始終を傍観していた|白井黒子《しろいくろこ》が上条に嫉妬した日で……そして、学園都市にとある魔術師が襲来した日だった!  “謎の転校生”、「ともだち」、とある魔術師。  |特別警戒宣言《コードレッド》下の学園都市で科学と魔術が交差するとき、上条当麻の物語は始まる——! [#改ページ] 鎌池和馬 六巻目にして、当シリーズもようやく夏休みを突破、新学期スタートです。これまでは学園アクションというか夏休みアクションといった感じの当シリーズでしたが、これでやっと平日の学園っぽい描写を加える事が……できるんでしょうか……? イラスト:|灰村《はいむら》キヨタカ 1973年生まれ。念願の電子レンジを購入したのですが、さっそくブレーカーが落ちました。そろそろ、新しく部屋を探す時期なのかも……? [#改ページ]   とある魔術の禁書目録6 [#改ページ]    c o n t e n t s      序 章 舞台裏の表側    第一章 始業式 Baby_Queen.    第二章 放週除後 Break_Time.    第三章 閉鎖化 Battle_Cry.    第四章 終止符 Beast_Body,Human_Heart.    終 章 表舞台の裏側 [#改ページ]    序 章 舞台裏の表側  学園都市には窓のないビルがある。  ドアも窓も廊下も階段もない、建物として機能しないビル。、|大能力《レベル4》の一つである|空間移動《テレポート》を使わない限りは出入りもできない密室の中心に、巨大なガラスの円筒器は|鎮座《ちんざ》していた。  直径四メートル、全長一〇メートルを超す強化ガラスの円筒の中には赤い液体が満たされている。広大な部屋の四方の壁は|全《すべ》て機械類で埋め尽くされ、そこから伸びる数十万ものコードやチューブが床を|這《は》い、中央の円筒に接続されていた。  窓のないその部屋はいつも|闇《やみ》に包まれていた。ただし、円筒を遠巻きに取り囲む機械類のランプやモニタの光が、まるで夜空の星々のように|瞬《またた》いている。  赤い液体に満たされた円筒の中には、緑色の手術衣を着た人間が逆さで浮かんでいた。  学園都市統括理事長、『人間』アレイスター。  それは男にも女にも見え、大人にも子供にも見え、聖人にも囚人にも見える。その『人間』は自分の生命活動を全て機械に預ける事で、計算上では溢よそ一七〇〇年もの寿命を手に入れていた。脳を含め全身はほぼ仮死状態に近く、思考の大半も機械によって補助している。 (……、さて。そろそろか)  アレイスターがそう思った|瞬間《しゆんかん》、タイミングを合わせたように円筒の正面に、唐突に二つの人影が現れた。一人は小柄な|空間移動《テレポート》能力者の少女、そしてもう一人は彼女にエスコートされるように手を|繋《つな》いだ大男だ。  空間移動能力者は一言も言葉を発しないまま|会釈《えしやく》すると、再び虚空へ消える。  闇の中には大男だけが取り残された。  その大男は短い金髪をツンツンに|尖《とが》らせ、青いサングラスで目線を隠した少年だった。アロハシャツにハーフパンツという、こんな場所にはそぐわない格好をしている。  |土御門元春《つちみかどもとはる》。イギリス清教の情報をリークする学園都市の|手駒《てごま》だ。 「警備が甘すぎるぞ。遊んでいるのか」  スパイである土御門は、雇い主であるアレイスターに向かって|苛立《いらだ》った口調で言った。スパイであるものの、土御門はアレイスターの従属的な部下ではないのだ。  土御門の口調は突き放すような|響《ひび》きがあり、|普段《ふだん》の彼を知る者なら|驚《おどろ》きに身をすくめていただろう。自分の不満を隠そうとしない土御門に、アレイスターは淡く淡く笑って、 「構わ濾よ。侵入者の所在はこちらでも追跡している。これを使わぬ手はない。若干ルートを変更するだけで、プランニ〇八二から二三七七までを短縮もでき———」 「言っておくが」  |土御門《つちみかど》は遮るように言った。バン、と手の中のレポートをガラスの円筒へ押し付ける。クリップで留められた隠し撮りの写真には、侵入者の女の姿が写っている。  |歳《とし》は二〇代も後半で、金色の髪と、別の国の血を引いた褐色の肌が特徴的な女だ。ただし髪の手入れを怠っているのか安っぽい演劇用のカツラのようにあちこちの毛が荒れて飛び跳ねている。後ろ姿を見るとライオンみたいなシルエットの女だ。服装は|漆黒《しつこく》のドレスの端々に白いレースをあしらった、ゴシックロリータ。ただしドレスの生地は|擦《す》り切れ、レースもほつれてくすんだ色を見せている。飾りではなく、日常的に|豪奢《こうしや》な衣装を身にまとっている証拠だ。。「シェリー=クロムウェル。こいつは流れの|魔術師《まじゅっし》ではなく、イギリス清教『|必要悪の教会《ネセサリウス》』の入間だ。アウレオルスの時のようにはいかないそ」  土御門はまるで無理な禁煙でもしているような|苛立《いらだ》った様子で、 「イギリス清教だって人の作る組織である以上は一枚岩ではない。いや、構成の特性上、十字教の中でもあれほど複雑に分岐した国教は|他《ほか》にない。お前とて分かっているだろうが」 「|隣人《りんじん》を愛する者同士が互いにいがみ合うとは、随分と素敵な職場だな」。 「まったくだ」土御門は息を吐いて、「しかし、それ|故《ゆえ》にイギリス清教にも様々な派閥と考えがある。学園都市協力派だけとは限らないそ。中には全世界を英国の殖民地にして|全《すべ》ての国旗のデザインを一つに統一したいと考えるヤツまでいる始末だ。お前がウチのお姫様と結んだ『協定』にしても、どこまで役に立つかは分からん」  イギリス清教と学園都市のトップ同士が決めた『協定』さえ疑問視する者もいる。知識の宝庫たるインデックスが学園都市内部にいる事が、すでに情報|漏洩《ろうえい》の危険をはらむに違いないと。 もちろん、『|必要悪の協会《ネセサリウス》』とは別枠の『|騎士団《きしだん》』|達《たち》が実際にインデックスのセキュリティが外れている事までは|掴《つか》んでいないとは思うのだが。  それにしても、今の段階でさえ『騎士団』の中でも十字軍時代の侵略精神をそのまま引き継いでいる派閥などは学園都市を危険視している。土御門が上手く情報操作しなければ学園都市討伐運動が起きかねないほどに。 「オレも教会に|潜《もぐ》ればある程度の人心を操作する事もできる。だがな、それにも限度ってものがあるんだ。派閥や勢力が異なる所までは手を伸ばせない。伸ばしたとしても、どこかでこちらが意図的に操作した情報は|歪曲《わいきよく》してしまう」  彼は一度そこで言葉を切ってから、 「大体、アウレオルスの時でさえ散々あちこちに手を回していただろうが。魔術師は同じ魔術師が裁かなければならない。この法則はオレよりもお前の方が分かっているはずだ。学園都市は『科学』を、教会は『神秘』を、それぞれの技術を独占する事でアドバンテージが生まれている。その中で学園都市の|面子《メンツ》が魔術師を|潰《つぶ》してみろ。せっかく死守してきた門外不出の独占技術がそこから漏れるかもしれない[#「かもしれない」に傍点]と思われただけで立派な|亀裂《きれつ》の出来上がりだ」  |上条当麻《かみじようとうま》という少年は、この一ヶ月強で何人かの|魔術師《まじゆつし》と戦ってきた。しかし、ステイルや|神裂《かんざき》は教会と事前の取り引きがあったし、アウレオルスや|闇咲《ゃみさか》などは教会所属ではない流れの魔術師なので、それほど波風は立たなかった。  だが今回は意味の重さが違う。学園都市に侵入してきたのは『イギリス清教独自の術式』を抱えた魔術師で、しかも取り引きもない。これが一派閥の意向なのかシェリー一人の独断かは判断できないが、仮に彼女の独断だとしても、勝手に倒すのはまずい。  シェリー=クロムウェルは王立芸術院でも最も|寓意画《ぐういが》の組み立てと解読に優れた人間だ。寓意画とは絵画の中に魔道書の内容を隠した暗号絵画の事で、例えば洋上に浮かぶ船の上から見た、夕暮れに水平線へ沈んでいく太陽の絵画があったとする。普通の人が見れば何気ない一枚の風景画に過ぎないが、この中の海水は『塩』を、太陽は『黄金』を意味し、これらを組み合わせると『黄金と塩を使えば、海の中を魚のように泳ぐ事ができる魔術の方法を示している』という情報を取り出せる。  |他《ほか》にも絵の具のカラーや厚み、夕暮れという時間帯、船の上という場所……絵画の中にある|些細《ささい》な要素の|全《すべ》てが何らかの意味を持つ暗号として機能するので、何百年も|経《た》ってから寓意画の読解に誤りがあったと判明するパターンも多い。真の意味で寓意画のスペシャリストになるのは、それぐらい難しいのだ。  インデックスが知識の収集・保管を担当するなら、シェリーは暗号技術によってその知識を封印・開封する専門家である。彼女が他勢力の手に落ちれば、イギリス清教が守り続けてきた複雑怪奇な暗号の解読法が丸ごと相手側に伝わってしまう事になる。  下手にシェリーを倒せばイギリス清教と学園都市の間に|亀裂《きれつ》が走る。シェリーを送り込んだ派閥が学園都市を嫌っているのだとすれば、そこを|狙《ねら》って亀裂を押し広げようとするだろう。  だが、|土御門《つちみかど》はその先を|敢《あ》えて言葉に出さない。、  というよりも、出せない。その一文は口に出すのもためらわれ、胸の中に広がっていく。  ———最悪、科学世界と教会世界の戦争となるかもしれない。  土御門はアレイスターを|睨《にら》みながら、 「まあ、今回の件でもよほど間抜けな選択をしない限り、この火種が燃え上がる事はないだろう。、だが、火種を消すために水面下で人死にが起きるかもしれない。お前は何を考えている? 本腰を入れて警備に力を入れれば、いくらでも侵入を阻止できたくせに」舌打ちして、「とにかく、オレはシェリーを討つぞ。魔術師の手で魔術師を討てば、少しは波も小さくなる。それからスパイはこれで廃業だ。ここまで派手に動けば必ず目をつけられるからな。まったく、心理的な死角に|潜《もぐ》ってこそのスパイだというのに、四六時中監視されて仕事が———」 「君は手を出さなくて良い」  遮るようなアレイスターの一言に、土御門は|一瞬《いつしゆん》凍りついた。  何を言っているのか、理解できなかった。 「君は手を出さなくとも良いと告げた」 「……本気で言っているのか?」  |土御門《っちみかど》は、相手の正気を疑うように言った。 「可能性は、決してゼロではないんだぞ。水面下での工作戦なんてビルからビルへ綱渡りするようなものだ、手を間違えれば戦争が起きるかもしれないというのに!」  大量|破壊《はかい》兵器の設計図が他国に漏れれば、それだけで戦争の火種として正当化される。学園都市内で教会の|魔術師《まじゆつし》を捕獲するとは、つまりそういう意味なのだ。  確かによほどの事がない限り、全面戦争にはならないだろう。しかし、逆に言えばよほどの事があれば戦争が起きてしまうのだ。それも国家と国家の戦争ではない、国境の壁すら越えた『科学』と『教会』、二つの世界の大戦だ。  学園都市を代表する『科学』と教会を代表する『オカルト』の間に圧倒的な戦力差はない。 それはつまり、実際に戦争が起きれば泥沼のように長引いてしまうのだ。 「アレイスター、お前は何を考えている? |上条当麻《かみじようとうま》に魔術師をぶつけるのがそんなに|魅力的《みりよくてき》か。あの右手は確かに魔術に対するジョーカーだが、それでもアレだけで教会全体の破壊などできるはずもないだろう!」 「プランニ〇八二から二三七七までを短縮できる。理由はそれだけだが?」  アレイスターの言葉に、土御門の息が詰まる。  プラン。『計画』というよりは『手順』といった所か。アレイスターがこの単語を口にする場合、該当するものは一つしかない。 「虚数学区・五行機関の制御法か」  土御門は|忌《いまいま》々しげに|呟《つぶや》いた。虚数学区・五行機関。学園都市ができた当初の「始まりの研究所』と呼ばれているが、今ではどこにあるのか、本当にあるのかも分からないと言われる幻のような存在。ウワサでは現在の工学でも再現不可能な『架空技術』を抱え、また学園都市の裏側からその全権を掌握しているとさえ考えられている。 『外』の教会や魔術師はこのビルを指していると思っているようだが、違う[#「違う」に傍点]。実際はそんなものではないし、本当の事を『外』に教える訳にもいかない。  言えるはずがない。学園都市に対して絶大な|影響力《えいきようりよく》を持つ『ソレ』が、誰にも制御できず何のためにあるのかも[#「誰にも制御できず何のためにあるのかも」に傍点]分からないまま|潜《ひそ》んでいるなどと。  学園都市を治めるアレイスターとしてはあらゆるものを利用してでも五行機関の|御《ぎよ》し方を|掴《つか》まなければならない。いや、アレイスターはおそらく御し方白体はすでに欄んでいる。ただし、それを実行するための材料が、キーが足りないのだ。 『手順』というのは|一方通行《アクセラレータ》が行った|絶対能力進化《レベル6シフト》実験を思い浮かべると分かりやすい。あれと同じく、一定の順序で事件・問題を起こしてキーを作り上げていく。  その『手順』の中心には一人の少年がいる。  |上条当麻《かみじようとうま》。  アレイスターは当初から彼をプロセスに取り込むつもりだったが、禁書目録や|錬金術師《れんきんじゅつし》などの|魔術《まじゅっ》戦まで|考慮《こうりょ》していたとは思えないと|土御門《つちみかど》は|睨《にら》んでいる。アレイスターはこうしたイレギュラーが起きるたびに『計画』を組み替え、誤差を修正するどころか逆に利用して|膨大《ぽうだい》な『手順』を少しでも短縮しようとするのだ。  今回のシェリー=クロムウェルもそういう事か。  ここで手を出さなくても、いずれ『|手順《プラン》』は終わるはずなのに。 「その程度の、ために?」 「この街の軍事力や|影響力《えいきようりよく》を考えれば、その程度などとは呼べないはずだがな。何せ世界を引き裂くほどの暴れ馬だ、手綱はできるだけ早く|掴《つか》み直した方が無難だろう」  アレイスターは淡く笑う。そこからはいかなる感情も掴めない。喜ぶようにも|嘲《あぎけ》るようにも哀れむようにも楽しむようにも見えてしまう。喜怒哀楽の|全《すべ》てが混線している。  なんてふざけた話だ、と土御門は舌打ちした。できるならアレイスターの命令など無視して独断でシェリーを討ちたい所だが、それも|叶《かな》わない。  そもそも、彼一人ではこのビルから出る事もできない。出ロがないのだ。ドアも窓も廊下も階段もない、生活に必要な大気すら施設内で生成しているため通気口もない。それでいてこのビルは、火力だけなら核ミサイルの爆風を受けても倒れないほどの強度を誇る。  状況としては銀行の大金庫や核シェルターに監禁される事よりタチが悪い。絶望度で言えば宇宙服のない状態で大気圏外を飛ぶスペースシャトルに閉じ込められるのと同じぐらいか。 「外と連絡がつくはずもない、か。おいアレイスター、お前の有線で外の|空間移動《テレポート》能力者を呼び出せ。さもないとそこらに伸びているコードを片っ端から引き抜くぞ」 「構わんよ。ストレスを解消したいのならば好きなだけやるといい」  土御門は苦虫を|噛《か》み|潰《つぶ》したような顔をした。|薄《うすうす》々勘付いてはいたが、この部屋にあるチューブやコード、機械類はダミーなのだろう。大体、この部屋だけでアレイスターの生命維持を|賄《まかな》えるなら、そもそもこんな巨大なビルを用意する必要もない。この円筒器もただのバッタリで、ひょっとしたら立体映像を映すための装置なのかもしれない。  アレイスターの浮かぶ円筒器に土御門は背を預け、念のために聞いた。 「お前、本当に戦争を未然に|回避《かいひ》する自信があるのだろうな?」 「その自信は君が持つべきだろう。舞台裏を飛び回るのは君の役割だ。なに、君の努力次第では水面下の工作戦にしても死者を出さずに済むかもしれんぞ」  ちくしょうが、と土御門は吐き捨てる。  詰まる所、彼はいつもそんな仕事ばかりしていた。 [#改ページ]    第一章 始業式 Baby_Queen.      1  九月一日、早朝。  東京都の三分の一を独占する学園都市は、突き刺すような日差しにも|拘《かか》わらず涼しげな空気に包まれていた。人の姿もまばらで、犬の散歩をしている中学生やジョギングをしている大学生ぐらいしかいない。そこかしこに立つ風力発電のプロペラがゆっくりと回転し、深い森の中のような冷気をかき回している。  で。  そんな|爽《さわ》やかな景色の中を、|上条当麻《かみじようとうま》はぐったりしながら歩いていた。 「つ、疲れた……。これは絶対に平凡な高校生の一日じゃねえ……」  その男子高校生の着るTシャツもズボンも、まるでマラソンを終えた後のように汗で湿っていた。衣服が吸い込んだ水分のおかげで、重量が二倍に増えているようにすら思える。  元はと言えば、前日の八月三一日に|全《すべ》ての原因があった。  上条はその日の夜に、|闇咲逢魔《やみさかおうま》という男と出会っていた。さらに、彼の知り合いの女性を助けるために、学園都市の外へ出かけていたのだ。  ちなみに『出かけていた』とは、『強行突破』と言い換えても良い。学園都市は周りをぐるりと壁で覆われ、警備隊のような者によってガードされている。許可証もなしに無断で外へ出るのは許されないのだ。実際、闇咲の協力がなければ難しかっただろう。あの魔術師、便利な事に『|惑魔《わくま》の|弦《げん》』とかいう『許可証があるように思わせる』術式を使えるらしい。個人個人の精神防壁の違いによって効果が出るかどうかムラっ気があるため、|駄目《だめ》な時は強硬手段に出なければならないらしいが。 「……大体おかしいんだよ。、そんな警備網を突破するだけでも|命懸《いのちが》けだってのに、その後は何だったよ? 本当に魔術師ってのはどいつもこいつも|素人《しろうと》相手に手加減ナシでどつき回してきやがって。っつか、日記にまとめたら咋日のアレだけで一冊埋まるぞ、絶対」  で、全部終えて、闇咲の援護の元に二度目の強行突破を果たして学園都市の中に戻って来たのがついさっき、という訳だ。 (……あ。やっと学生|寮《りよう》が見えてきた。うおー、ようやく日常空間に帰ってこれたー)  実際には寮を出て一日も|経《た》っていないのだが、上条には数ヶ月ぶりの|我《わ》が家のように感じられた。もっとも、彼は|記憶《きおく》喪失で八月以前の記憶がないため、数ヶ月ぶり、というものがどんな感覚なのかを知らないのだが。  |上条《かみじよう》は疲労と睡眠不足でふらふらになった体を引きずるように学生|寮《りよう》の建物に入り、狭いエレベーターを経由して自分の部屋の前まで|辿《たど》り着いた。 (うう……ねむい)  上条は思わずあくびを|噛《か》み殺す。本音を言えばベッドに飛び込んで二、三日は眠りこけていたいのだが、今日は九月一日、始業式である。  夏休みに|記憶《きおく》を失った上条にとっては、一部の人間を除けばクラスメイトとはほぼ面識がない状態なのだ。|他《ほか》の生徒にとっては何気ない一日だろうが、上条にとっては今の状況は転校初日に似ている。眠いという理由で初日からサボりを決める転入生というのもどうかと思う。 (記憶をなくしてるってのは……やっぱ|誰《だれ》にも知られたくねえからなあ。今日は授業もないだろうし、一日使って学校生活のリズムと自分の|人間関係《ポジシヨン》を覚えとかねえと)  割と苦労人な上条は眠気の混じったため息をつきつつ、玄関のドアを開けた。  |瞬間《しゆんかん》、部屋の奥から少女の甲高い叫び声が飛んでくる。 「と・う・ま〜ッ!!」  その声は怒りを含んだものだったが、それだけだった。その少女は玄関にいる上条の元へと駆け寄って来る事はない。  上条は一瞬だけ|怪誹《けげん》そうな顔をしたが……やがて思い出した。  彼が眠たい頭を働かせていると、ようやく声の主の少女が部屋の奥から現れた。腰まである銀の髪と白い肌を持つ外国人の少女だ。着ている衣服は純白の布地に金糸の|刺繍《ししゆう》をあしらった|豪奢《ごうしや》な修道服で、|何故《なぜ》か服の|縫《ぬ》い目に沿って無数の安全ピンが刺してある。  まだ子供らしさが残る少女のお前はインデックス。  ……なのだが、今の彼女は体中を細いロープで|雁字搦《がんじがら》めに|縛《しば》られていた。手足をまともに動かせないインデックスは、|尺取虫《しやくとりむし》みたいな動きで部屋の奥から|這《は》ってきたのだ。ちなみに、彼女の頭の上には|三毛猫《みけねこ》が器用に座っていて、のんびりとあくびをしていた。感覚的には『下克上』という言葉がいやに似合う。 「うわっ、すっかり忘れてた! お前ずっとそのままだったのか!?」 「とうま! 人を置き去りにしておいて最初に出てくる|台詞《せりふ》がそれなのー!?」  インデックスは犬歯を|剥《む》き出しにして叫ぶ。  先にも説明した通り、昨夜上条は|闇咲逢魔《やみさかおうま》という男と出会い、彼の知り合いを助けるために一戦交えている。当然ながらそんな所へか弱い[#「か弱い」に傍点]インデックスを連れて行くわけにもいかなかったのだが、そう説明した瞬間に彼女が|叩《たた》く|蹴《け》る噛み付くと大暴れを始めたため、やむなく|縄縛術《じようばくじゆつ》とかいう縄スキルを持つ闇咲に彼女を縛ってもらい、インデックスにはお留守番しててもらうしかなかったのだ。 「また今回も今回も今回も一人で突っ走って……。とうま、とにかくこのロープを解きなさい! |注連縄《しめなわ》を使った小型結界でも、とうまの右手なら触っただけで|壊《こわ》せるはずだもん!」  とうまの右手。  そこには|幻想殺し《イマジンブレイカー》という力が宿っている。それが異能の力によるものならば、|魔術《まじゆつ》だろうが超能力だろうが問答無用で無効化させるものだ。ただし、その力は右手の手首から先しか適用されない、という欠点もある訳だが。 「けど、なあ。このロープ、解いたら解いたでお前ものすごく暴れそうだし」  インデックスは怒ると人の頭に|噛《か》み付くというとんでもない|悪癖《あくへき》がある。今の|怒髪天《どはつてん》モードの彼女の戒めを解くというのは、言ってしまえばお|腹《なか》をすかせた猛犬の首輪を外して野に放つようなものだ。|上条《かみじよう》としては、新学期早々、体に女の子の歯型をつけて登校するなんて事はしたくないのだが……。  と、インデックスの表情が柔らかく変化した。  分かりやすく雪口うと、迷子になって|怯《おび》える子供に接するような感じで。 「とうま。今なら私は怒らないから、素直にロープを解いてごらん?」 「……ホントに? ホントに怒らない?」 「怒らないよ」 「ロープを解いた|瞬間《しゆんかん》にガブガブ噛み付いてきたりしない?」 「しないしない」  インデックスはにっこりと、聖母のような柔らかい笑みを浮かべて言う。  |上条《かみじよう》は|屈《かが》み込んで、床の上に転がっているインデックスの体を|縛《しば》り付けているロープを、人差し指で軽くつついた。するとまるで手品のように、インデックスの全身を縛っていたロープの数十もの結び目が、一斉にスルリと解けた。  次の|瞬間《しゆんかん》、拘束から解放されたインデックスは迷わず上条へ|襲《おそ》いかかる。 「ひい?」  原始人が巨大な肉にかぶりつくように、彼女は上条の頭にかじりつく。 「とうまのとうまのばかばかばか!!」 「ぎゃああ!?」  上条は叫んだがもう遅く、彼は激痛にびくんびくんと跳ね回る。あらゆる|魔術《まじゆつ》も超能力も打ち消す事ができる右手の|幻想殺し《イマジンブレイカー》も、|猛獣《もうじゆう》少女インデックスに対しては何の役にも立たない。 「う、うそつき! 怒らないっつったのに痛ぁ!?」 「怒るに決まってるんだよ! まったく、魔術師と戦うって分かってるのに私を置いていくなんて! どれだけ不思議な力を持っていたって、とうまは魔術の|素人《しろうと》なんだから! 何かあったらどうするつもりだったの!?」  見れば、間近にある彼女の顔は大層怒っていたが、その目だけは泣きそうになっていた。  インデックスは思い出の品を抱き締めるように、上条の頭に手を回す。 「……本当に、どうするつもりだったの?」  抱き締められた上条は、頭の上から降りかかるその声を聞いた。  その長い銀髪から、ほのかに甘い|匂《にお》いが漂ってきた。  少女の体は、わずかに|震《ふる》えてさえいた。  きっと、彼女は上条が帰ってくるまで、一晩中心配し続けていたのだろう。 「ごめん」  上条は、それだけ言った。  それしか、言葉が出なかった。  ここまで自分の身を気にかけてくれた入に、これ以上不安がらせる訳にはいかないな、と上条は考えた。素直に、本当に素直に、上条はインデックスを傷つけたくないと、心の底から願う事ができた。  ちなみに。  インデックスは、上条が|記憶《きおく》喪失である事を、知らない。  知れば、彼女は必ず傷ついてしまうだろうから、伝えていない。      2  |上条《かみじよう》はふわふわと眠たい頭を揺らしながら二人分の朝ご飯を作る。と言っても、トースト、ベーコンエッグ、温野菜のサラダ、牛乳という超お手軽四点セットだ。  料理を見た途端にガラステーブルへと走るインデックス(+|三毛猫《みけねこ》)に対し、上条はトーストを|唖《くわ》えたまま部屋のあちこちを歩いて、始業式に必要な物を拾って|鞄《かぽん》へ放り込んでいく。 「……っと、上履きだろ、筆記用具に……宿題の提出日って、今日……だよな。やっぱり今日なんだよなぁ。くそ、結局終わんなかったしどうしよう……? ……あとは、|通信簿《つうしんぼ》? こんなんメールで送ってくれりゃ良いのに」  あるいはハッキング対策なのかも、とか適当に考えながら、上条は厚紙で作られた通信簿を鞄に投げ込んだ。  と、テーブルに一人残されたインデックスは不満そうな目を上条へ向けて、 「とうま。ホントにガッコー行っちゃうの?」 「んー?」  上条は荷物を詰め込んだ鞄を適当な場所に置くと、残りの朝食を一気に食べて、自分の食器を流し台へ持っていく。 「あーそっか。新学期始まると、お前ずっと留守番になっちまうのか」 「む。と、とうま。私は別に寂しいとか一人が嫌だとか、そういう事を言っているんじゃないんだよ?」  むしろ彼女を一人にしておくと危なっかしいと思っていた上条だったが、余計な口出しはやめておいた。  もちろん、インデックスに部屋から[歩も出るなとは言わない。だが、学園都市における『常識』が皆無な彼女を野放しにするのも、また危険な気がする。この街にきて一ヶ月近く|経《た》つインデックスが|未《いま》だに街に順応する気配を見せない所を考えると、単に常識を口で教えれば済むという訳にもいかなそうなのだ。  これまでの経験から考えて、一番手っ取り早い解決案はこれからも上条とインデックスがずっ|と一緒《いっしょ》に行動する事なのだが、|流石《さすが》に彼女を同じ学校に転入させるのは絶対に無理だろう。 『|魔術《まじゆつ》サイド』と『科学サイド』は仲が悪い、という話は上条にも何となく分かるので、魔術側の重要人物であるインデックスを上条と同じ|時間割《カリキユラム》りによって科学側の能力者なんぞにしたら、問題になると思う。 「その辺も考えなくっちゃなー。悪いインデックス、今日はとりあえず留守番|頼《たの》むわ。食器は流しの中で水に漬けといて」  上条は時計を見ながら、急いだ調子で言った。  半分寝室と化しているユニットバスへ入り、顔を洗って歯を磨いて、夏服へ着替える。本当ならシャワーも浴びたかったが、時間が足りない。  とりあえず支度を済ませた|上条《かみじよう》がユニットバスのドアを開けると、インデックスがドアの前で待っていた。彼女は何か言いたそうな目で上条の顔を見上げていた。 「とうま、早く帰ってくる?」 「そうだな、分かった。帰ったら|一緒《いつしよ》にどっか遊びに行くか」  少年の言葉に、インデックスはとても素直な笑みを浮かべた。  上条はその笑顔を見るのが|嬉《うれ》しかったが、同時に複雑な気分になる。今の彼女にとって外界との|繋《つな》がりは、上条に依存する所が大きい。それどころか、彼女の人間関係は|全《すべ》て『上条の友達の友達』であると言っても良い。  それは、見方を変えればとても寂しい事だと思う。  しかし、それでいて上条では協力しづらい問題でもあった。|何故《なぜ》なら、解決するためには『上条を経由しない人間関係』をインデックスが自分で築かなければならないのだから。 「じや、行ってくる」  結局、何もできない上条は、問題を保留にした。 「うん。行ってらっしゃい」  そんな彼に、インデックスは笑みを浮かべてそう言った。  上条が部屋を出て、五分でインデックスは退屈になっていた。  今までも何度か留守番をした事はあるが、だからと言って不満を感じないという訳ではない。 |普段《ふだん》の彼女の活発な様子を見れば、一人でじっとしているのに不向きであるのは容易に想像できるだろう。  |点《つ》けっ放しのテレビに目も向けず、床に寝そべったまま|三毛猫《みけねこ》をいじか回していた彼女は、やがてその動きをピタリと止めた。  暇だ。外に出たい。とうまの後を追い駆けたい。。  そんな欲求に駆られるインデックスだったが、直後に首をぶんぶんと横に振った。自分の都合を相手に押し付けるのは良くない。逆の立場で考えてみれば良い。、例えばインデックスが|聖《セント》ジョージ大聖堂から召喚命令を受けたとして、暇だから、という理由で上条が後を追ってきたとしたら。  それはちょっと嬉しいけど、困る。  |魔術《まじゆつ》の専門家であるインデックスとしては、そういう仕事場での顔はあまり見られたくはない。いつもと違う姿を見知った人に見られるのは恥ずかしいものだ。  同じようにインデックスが上条の後を追っていくと、彼は困るかもしれない。そう考えると、無邪気に彼の姿を追い求めるのも気が引けるのだ。 (とうまは帰ってきたらどこかに遊びに連れてってくれるって言ってたんだし)  インデックスは再び|三毛猫《みけねこ》をいじくり回しながら、床の上をごろごろと転がった。退屈だけどちょっと我慢していよう、と彼女は決意を新たにしようとして、  ピタリと。その動きが止まった。 「……、あれ? とうま、お昼ご飯は?」  |咳《つぶや》いてから、インデックスの顔がちょっと青ざめた。  彼女に料理を作るようなスキルはない。スナック菓子の|類《たぐい》も、三毛猫が片っ端から袋を破って食い散らかしてしまうため、買い置きはもうない。、 「ど、どうしよう。|未曾有《みぞう》の大ピンチかも」  思わず眩いてから、彼女は玄関へと視線を投げた。  |薄《うす》いドア板の向こうには、|上条当麻《かみじようとうま》のいる外の世界が広がっている。      3  一方その|頃《ころ》、上条は学校へ向かうため、朝の大通りを走っていた。  都会のいたずらカラスが線路上に小石を置いた、という本当にどうしようもない理由で電車が止まっていたのだ。  上条の学校は料金が|馬鹿《ばか》高いスクールバスの利用を推奨しているため、電車通学を校則で禁止している。表向きには寄り道などの非行防止と変質者によるトラブル防止のためと言っているが、実際には学校側が運営するバスに乗せた方が経営陣としては|儲《もう》かるのだろう。  しかし実際問題、電車の二分の一のスピードで走るバスが電車の三倍も高い料金を取ると分かったら|誰《だれ》でも電車を使おうと思うだろう。上条も夏休みの補習で一回乗って以来、|内緒《ないしよ》で電車を使うように心がけていた。  そういった訳の分からない校則があるため、駅で発行される遅延証明書を学校へ持って行っても遅刻は取り消されない。 (ちっくしょ……眠いのに、疲れてんのに、朝っぱらからついてねえ。いや、今回は|俺《おれ》だけがついてないって訳じゃないか。分かったところで、ちっともさっぱり|嬉《うれ》しくねえけど)  ぼんやりした頭でそんな事を考えていた上条だったが、不意に後ろから、何者かにものすごい速度で追い抜かれた。  茶色い髪を肩の所まで伸ばした、中学生ぐらいの少女だ。|半袖《はんそで》のブラウスにサマーセーター、灰色のプリーツスカートというその姿は名門と呼ばれる|常盤台《ときわだい》中学のものだったが、舞い上がるスカートの端も気にせず下には短パンを|穿《は》いてますと言わんばかりの全力疾走ぶりは、完全無欠にお|嬢様《じようさま》のイメージからかけ離れている。 「……あー、なんだ。ビリビリか」  寝不足で回転の悪い|上条《かみじよう》の頭がようやく答えを導き出す。  上条は走りながら、眠くてショボショボした目を|瞬《またた》かせ、 「……おっすー。若者は朝っぱらから元気だなあオイ」  彼の声を聞いたビリビリこと|御坂美琴《みさかみこと》は、不承不承という感じで走る速度を落として上条と並走すると、ただいま不機嫌ですといヶ顔を向けてきた。  美琴はジト目で|隣《となり》の上条を|睨《にら》みつつ、 「ってか、どうしてそんな気安く話しかけられんのかしら。昨日の夜は人をさんざんさんざんさんざんさんざんスルーしていったってのに! ちょっとは引け目とか感じないの?」  上条は寝ぼけ|眼《まなこ》をこすりながら、美琴の言葉を頭の中でぐるぐる回す。  そういえば確か八月三一日———というか、昨夜インデックスが|闇咲《やみさか》にさらわれた時に美琴とも会っていたような気もしたが、場合が場合だったので放ったらかしにしていた気がする。  彼らは結構な速さで朝の道を走りつつ、 「あれ、何だよ。ひょっとしてお前なんか用事でもあったのか?」 「べっ、別に。そういう用があった訳じゃないけど……」 「???」上条は眠たい目をぱちくりと瞬かせ、「あの、一個聞きたいんだけど。用もないのに何で|俺《おれ》を呼び止める必要があったんだ?」 「う、うるさいわね! 別に何でもないわよ! もういい、話題を変える! アンタ|普段《ふだん》ってこっちの道だったっけ!?」  自分で話題を変えるとか宣言するなよ、と上条は心の中で思っていたが、口には出さなかった。 「……いいや。電車が止まっちまってるから、そのせい。ま、つっても二駅分だから走りゃあ何とかなるレベルなんだけどな」 「そう言えば、さっきから随分とテンション低いわね。アンタ朝弱いの?」  隣を走る美琴はキョトンとした顔をしていたが、上条はうんざりした視線を向けて、 「昨日いろいろあったから疲れてんの。っつか、むしろお前は何だって疲れが|綺麗《きれい》サッパリなくなってんだ。何だよ、これが若さの力か」  昨日、八月三一日には美琴もちょっとしたトラブルに巻き込まれている。もっとも、被害を受けたのは、そのとばっちりを食った上条なのだが……。 「な、何よ。昨日の、こ、恋人ごっこって、そんなに疲れる仕事だった訳?」 「あん? それ一つじゃないんだけどな。|他《ほか》にも昨日は色々あったんでございますよ」  そっか、と美琴は小さく息を吐いた。  彼女としては、また[#「また」に傍点]自分が何かとんでもない迷惑を背負わせたんじゃないか、という疑念を振り払えて|安堵《あんど》しかけていたのだが、 「ん? 他にも? ……アンタ、まさか他の子とも似たような事してた訳?」 「アホか。あんなこっ恥ずかしいコト平然と|頼《たの》んでくるヤツなんてお前しかいねーよ」 「な……っ!?」  寝不足で平淡になっている|上条《かみじよう》の声に、|美琴《みこと》の顔が|瞬時《しゆんじ》に真っ赤になる。 「へ、平然って、そんな訳ないでしょ! わ、わたっ、私だってメチャクチャ悩んでそれでも|他《ほか》に打開策がなくて仕方がなくて恥を忍んで|頼《たの》み込んだって言うのに!!」 「……あーはいはい。そっすねそうだねその通りですねー」 「ちょっと、|真面目《まじめ》に聞きなさい! こら、ローテンションのままスルーしてんじゃないわよアンタ!」  そんなこんなで、テンションの落差の激しい二人は|騒《さわ》ぎながら学校への道を走っていく。      4  上条は美琴と別れてさらに走ると、目指す高校が見えてきた。 (何とか……遅刻しないで済みそうだな。あー、夏休みの補習受けといて良かった)  学校までの道のりも、校内の大体の見取り図も、お前に補習で来ていたせいか頭の中に入っている。おかげで、地図を片手にキョロキョロ辺りを見回すような挙動不審な|真似《まね》をしないで済んだ。 (校舎は二つ。手前が新校舎で奥が旧校舎。目指す教室は新校舎の三階、右から二つ目。|下駄箱《げたばこ》は昇降口の右手側。よし!)  |記憶《きおく》を失っていないという演技のための情報を上条は頭の中でまとめると、走る勢いを止めず、他の生徒|達《たち》と|一緒《いつしよ》に校門をくぐり抜けた。  都内の学校にしては珍しく、土の校庭を持つ学校だ。敷地はそれほど広くはない。校舎は手前と奥に二つあり、その中央を渡り廊下で|繋《つな》いでいる。上空から見れば『工』の字の形になっているのが分かるだろう。校舎の左手にはカマボコ型の体育館が、校舎の右手にはプールがある。  二三〇万もの学生を抱えるこの街には様々な学校があり校舎の屋上がプールになっていたり、体育館の地下が大倉庫になっていたり、といった変則的な造りの施設も珍しくない。  そんな中で、この高校はあくまでスタンダードを極めようとしているらしい。つまり、あまりに平凡すぎて個性がないのだ。上条の横を通り過ぎる生徒達も見本品みたいな特徴のない制服を着ている。 (ま、個性がありすぎても疲れるだけだろうけど。|常盤台《ときわだい》とかすごそうだよな)  つらつらと考え事をしながら上条は昇降口へ向かうために走る。割と時間的に差し迫っているのだが、この学校では今の時間帯に一番多くの生徒がやってくるらしい。途中で職員用の駐車場の横を通り過ぎようとした時、ふと横合いから甲高い警告音が鳴った。見ると、バックで駐車しようとしていた自動車が、その途中で|停《と》まって短く何度かクラクションを鳴らしていた。 駐車場のど真ん中であくびをしていた白猫がびっくりしたように逃げていく。 明るい緑色の、丸っこいデザインの軽乗用車だ。だが、それにしても小さい。助手席がなかった。一人乗り用に設計された車なのだ。 (うお、何だあの車。スクーター級にお手軽なのに雨でも|濡《ぬ》れないのか、いいなあ。乗り物か、自動車は無理でも自転車ぐらい買ってみっかなー。……いや、やめよう。お前に|停《と》めたら絶対盗まれるに決まってる。|俺《おれ》のヤツだけピンポイントで)  ビジョンが明確に頭に浮かぶほど不幸に慣れている|上条《かみじよう》はため息をついて、  ふと気づいた。  運転席で、見た目小学生の女教師、|月詠小萌《つくよみこもえ》がハンドルを握っている事に。 「———ってオイ! ブレーキに足届くんかい!?」 「とっ、届かなくったって運転できるんですーっ!」  小萌先生はわざわざ車のドアを開けて叫び返してきた。  良く見ると、その小型車はハンドルの形が少し特殊で、左右にボタンがついている。レースゲーム用の専用コントローラみたいな感じだ。おそらく、ボタンを使ってアクセルとブレーキを制御する障害者用の車の技術を利用しているのだと思う。  意外にも小萌先生は乗り慣れた感じでスムーズに車を停めると、仕事に使うものなのか、分厚いクリアファイルを片手に車から降りてくる。 「まったく、夏休み明けの第一声がそれなんですか。先生は上条ちゃんをそんな風に育てた覚えはないんですよー」 「(……いや、あの光景を見たら|誰《だれ》でも先生の身を案じると思いますけど……)」  上条は目を|逸《そ》らして口の中で|呟《つぶや》いたが、 「何か言いましたか上条ちゃん!? また背後からこっそり近づいて先生の事を高い高いしようとしてますか!?」 「してねえよ! 疑心暗鬼になりすぎだアンタ!」  上条と小萌先生は大声で言い合いながら校舎への道を歩いていく。、始業式の準備でもあるのか小萌先生はやけに小走りだったが、周りの生徒に|挨拶《あいさつ》されるたびにいちいち立ち止まって『おはようございますー』と返してしまうため、早歩きの上条に簡単に追い着かれている。 「ところでそのクリアファイルの中身の紙束って何なんですか? まさか|初《しよ》っ|端《ぼな》から抜き打ちテストとかじゃないですよね」 「上条ちゃん、先生は学生時代にやられて嫌だと思った事はやりません。ほらほら、のんびりしてないで急いで急いで」小萌先生は上条をせかすように、「これは学校のお仕事とは違うのです。大学時代の友人から論文の資料集めをお願いされてまして、そっちのお手伝いなのですよー」 「大学時代。……そっか、そうだよな。教員免許採ってるんだもんな」 「上条ちゃん?」  ぶつぶつ|呟《つぶや》いている|上条《かみじよう》に、|小萌《こもえ》先生は小首を|傾《かし》げる。  上条は改めてクリアファイルに目を向けながら、 「ちなみにどんなもんなんですか、論文とかって」 「別に難しい事じゃないですよ? AIM拡散力場の話ですし、上条ちゃんにとっても|馴染《なじ》み深いものですから」  と言われても、すでにAIM拡散力場なんて言葉は聞いた事もない。  小萌先生はやや時間を気にするような急ぎ足になりつつも説明好きの教師モードになって、「上条ちゃんがもう少し大人になったら勉強するんですけどねー。AIMはAn_Invountary_Movement……『無自覚』という事です。|件《くだん》のAIM拡散力場とはその名の通り、能力者が体温みたいに自然に発してしまう力のフィールドですねー」 「ふうん。例えば|御坂《みさか》の体かち微弱な磁場が漏れてるとかって感じか……」 「はぁ、ミナカさんですか? ……、あれ。ミサカ? いや、あの、まさかですよね」小萌先生の動きが少しだけ止まる。「とにかくAIM拡散力場は、能力者の力の種類によって異なります。|発火能力《パイロキネシス》なら熱量、|念動力《テレキネシス》なら圧力を周囲に展開してしまうといった具合ですねー。もっとも、どれも微弱なので精密機器を使わなければ計測できないレベルのものなんですけど」  早足の上条に追い抜かれると、小萌先生は慌てて小走りで彼の|隣《となり》にやってくる。 「へー。じゃ、もしもそのAIMナンタラを読み取る能力者がいれば、『ムッ、近くに能力者の気配がする』とかっつーマンガみたいな|真似《まね》ができるって訳ですか」 「あはは、そうですねー。さらに進歩すれば、AIM拡散力場から能力の種類や強さを測る事もできるかもしれません。『ムムッ、ヤツの|戦闘力《せんとうりよく》は七万ポイントだ』みたいな感じで。まぁ、とにかく世の中にはそんな事に情熱を注いでる物好きさん|達《たち》もいるのです」  そんな話をしながら、上条と小萌先生は校舎に向かって走って行ったが、すぐに別れた。職員用昇降口は|他《ほか》にあるのだ。  上条は小萌先生の姿が見えなくなると、そっと息を吐いた。 (……、よし)  それから、意を決して昇降口へと向かう。  |記憶《きおく》を失った上条の、|騙《だま》し合いの学園生活が始まる。  以前に補習で学校に来た事がある上条は、自分の|下駄箱《げたばこ》の位置や教室の場所で迷わなかった、彼はごく普通の生徒のように下駄箱に靴を放り込み、上履きを履いて、階段を登って、廊下を歩いて、自分の教室お前に立つ。  問題はここからだ。  ちょうど御坂妹と出会った|頃《ころ》の話になるが、補習の時には(正確には補習の補習らしいが)上条と小萌先生の二人しかいなかったため、彼は教卓の前の席に座っていたのだが、そこは彼の座席ではない。つまり、|記憶《きおく》喪失の|上条《かみじよう》は自分の座席がどこだか分からないのだ。 (さて、どうするか……)  上条ば少し悩んだが、ここで立ち止まっていても怪しまれる、彼は特に解決策も|見出《みいだ》せないまま、教室のドアを開ける。 (うっわ……)  中に入った途端、上条は心の中で舌打ちした。教室にいる生徒の数は半分にも満たず、なおかつ|誰《だれ》も自分の席に着いていなかったのだ。  仮に生徒全員が着席していれば、残り一つの空席が上条の座席と分かったはずだが、そういう甘い展開にはならなかったようだ。  と、教室の入り口で|呆然《ぽうぜん》と立っ上条を、一足先に学校に来ていたらしい青髪ピアスが発見した。身長一八〇センチに届く大男は上条の元へ歩いてきながら、 「んー? どしたんカミやん。まさかここまできて夏の宿題全部ウチに忘れてもうたー、なんて愉快に不幸な事実に気がついたとか?」  青髪ピアスがそんな事を言うと、教室にいる|全《すべ》ての男女の視線が上条に集中した。  彼らは口々に言う。 「あ、なに? 上条ひょっとして宿題忘れてんの?」 「えっと、上条君。本当に宿題忘れちゃったの?」 「うぉぉやったーっ! |俺達《おれたち》だけじゃねえ! 仲間は|他《ほか》にもいたーっ!」 「バンザーイ! 先生の注目浴びんのはどうせ不幸な上条だけだから、これで僕らのダメージは軽減されるかも! バンザーイ!!」  いろめき立っクラスメイト達に上条はうんざりした顔になる。  彼の父親などは息子に対するこの扱いを真剣に悩んだりしている訳だが、あくまで上条にとってはコミカルな日常に過ぎない。 「っつか、テメェら全員宿題やってねえのか。|小萌《こもえ》先生泣くんじゃねえのか?」  間に合わないと知りつつ死にもの狂いで一人宿題と|格闘《かくとう》していた自分は一体何だったんだ、と軽くこめかみを押さえる上条に、青髪ピアスはニヤニヤ笑って、 「なに、|大丈夫《だいじようぶ》やろ。あの人は賢い生徒より手のかかる生徒の方が好きそうやし。夏の補習だってクラスの三分の二が参加したから小萌先生|嬉《うれ》しそうやったやん」 「……、あの人。居酒屋とかでこっそり一人で泣いてたりしねーだろうな」 「あっはっは。何を言うのんカミやんは。ボクなんか小萌先生に怒られるためだけに、宿題終わってんのに|敢《あ》えて全部忘れてきましたよ?」 「ってか絶対泣くだろあの先生!! テメェは好きな女の子にいじわるする小学生か!」  上条は思わず叫んでいたが、この教室では特に気にする必要もない日常風景として扱われているらしい。クラスの面々は散り散りになって世間話を再開する。  変な集団から解放された|上条《かみじよう》としては、さっさと自分の席に着いてホームルー協が始まるまで少しでも眠っておきたかったのだが、どこが自分の席なのかが分からない。 (さて、と。|馬鹿《ばか》正直に『|俺《おれ》の席ってどこ? 』なんて聞いたら一発で怪しまれるだろうし) 上条はちょっと考えてから、青髪ピアスに向かって、 「ああ悪い。ちょっと俺の机ん中からノート取ってきてくんない?」 「ありゃ? 何やのカミやん。終業式ん時に置き忘れたん?」  青髪ピアスは上条の言葉に割と索直に従って、|窓際《まどぎわ》の後ろの方の席へと歩いていく。 (なるほど、あそこが俺の席な訳ね)  上条は机の中を|覗《のぞ》き込んでいる青髪ピアスを見ながらそんな事を思った。 「なーカミやん。ノートなんてどこにもないんやけどー?」 「は? あれ、そこじゃなかったっけ?」  首を|傾《かし》げる青髪ピアスに上条は適当な言葉を返して、ようやく席に着く。  と、青髪ピアスは|隣《となり》の席に座ると、世間話を始めた。 「でさー、ゲーム脳の次はマンガ脳ですよ、その自称識者サマが言うには。もうアホかと。マンガ読んだ程度で脳が変質するなら能力開発も楽チンやん。っつか|時間割り《カリキユラム》の教科書がマンガになるならバンバンザイやけどな」 「あー、でも教科書に選ばれるようなマンガってきっと面白くねーぞ。なんつーか、教材色丸出しな感じで」 「馬鹿野郎!そこに隠し|萌《も》えがあるんやないか!子供向けのアニメや特撮に含まれる意外なまでの|破壊力《はかいりよく》に|何故《なぜ》気がつかん? 一度ぶん|殴《なぐ》らんと分からんかテメェは!!」 「何でそこまでキレちゃうの? それで|超能力者《レベル5》になっちまっても微妙だし!」  上条はいつもの馬鹿話をしながら、自分がこの空間に溶け込んでいるのに気づいた。  |記憶《きおく》を失って、もう一ヶ月も|経《た》つ。今ここにいる上条は、何も知らない真っ白の状態ではないのだ。まるで記憶を失う前の古い自分の上から、記憶を失った後の新しい自分を上書きしているかのように。  上条は、もう思い出を語る事ができる。  記憶喪失というハンデは、すでに消えつつある。  だけど、それは上条個人の事情だ。  きっと、あの白い少女にとっては何の解決にもならない。  上条は、インデックスとの出会いを知らない。けれど、話を聞く限りでは何年も前からの知り合いではないらしい。つい最近知り合ったという話だから、もしかしたら記憶を失う前よりも、失った後に過ごした期間の方が長いのかもしれない。  しかし、そんな事は関係ない。 インデックスはその短い時間で、|上条《かみじよう》を|信頼《しんらい》するようになったのだ。おそらく彼女にとってそのわずかな間に作った思い出は、絶対に失いたくない大切なものに違いない。  今インデックスが上条に|懐《なつ》いてくれる。しかしそれは彼女が知らないからだ。  上条がすでに|記憶《きおく》を失い、その大切な思い出を共有していないという真実を。 「……、」 「カミやん? おーい、カミやん」  青髪ピアスの声で、上条はようやく我に返った。 「あ、あー。悪い、昨日眠ってなくて頭がボーっとしてんだ」  強引に取り|繕《つくろ》って、彼は偽りが作る日常へと帰っていく。      5 「はいはーい、それじゃさっさとホ!ムルーム始めますよー。始業式まで時間が押しちゃってるのでテキパキ進めちゃいますからねー」  |小萌《こもえ》先生が教室に入ってきた|頃《ころ》には、生徒のほとんどは着席していた。 「ありゃ? 先生、|土御門《つちみかど》は?」 「お休みの連絡は受けてませんー。もしかしたらお寝坊さんかもしれませんー」  上条の問いに、小萌先生は首を|傾《かし》げながら答えた。 「えー、出席を取お前にクラスのみんなにビッグニュースですー。なんと今日から転入生追加ですー」  おや? とクラスの面々の注目が小萌先生に向く。。 「ちなみにその子は女の子ですー。おめでとう野郎どもー、残念でした子猫ちゃん|達《たち》ー」  おおおお!! とクラスの面々がいうめき立つ。  そんな中、上条は一人、何か言い知れぬ嫌な予感に|襲《おそ》われていた。  ありえない。不幸な不幸な上条の日常において、ごく普通に美少女転入生がやってくるなんて事はまずありえないー。 (……、何か。何かとんでもないオチがつくような気がする)  小萌先生|繋《ワな》がりなら|姫神秋沙《ひめがみあいさ》辺りが怪しいが、世界は広いのだ。年齢詐称した|御坂美琴《みさかみこと》や|神裂火織《かんざきかおり》が|突撃《とつげき》してきたり、|一方通行《アクセラレ タ》の本名が実は|鈴科百合子《すずしなゆりこ》ちゃんだったり、一万弱もの|妹達《シスターズ》が押しかけてきて一気に生徒総数が一〇倍以上に|膨《ふく》れ上がったり、羽を隠した天使が降臨してくる場合もあるかもしれない。 「い、いけない! それはちょっと楽しそうだとか思った自分がいけない!」 「上条ちゃん? なに頭を抱えてぶつぶつ言ってるんですかI?」小萌先生はちょっと首を|傾《かし》げた後、「とりあえず顔見せだけですー。詳しい自己紹介とかは始業式が終わった後にしますからねー,さあ転入生ちゃん、どーぞー」  |小萌《こもえ》先生がそんな事を言うと、教室の入り口の引き戸がガラガラと音を立てて開かれた。  一体どんなヤツがやってくるんだ、と|上条《かみじよう》が視線を向けると、  そこに、|三毛猫《みけねこ》を抱えた白いシスターが突っ立っていた。 「なぼあっ……!!」  予想外と言えばあまりに予想外な展開に、上条の思考が真っ白になる。  クラスの面々も困惑しているようだった。何せ、着ている服が明らかに普通の制服ではない。ありゃ一体どこのミッションスクールなんだ? という感じのヒソヒソ声があっという間に教室中に|伝播《でんぱ》していく。  そんな中、インデックスだけはまったくいつも通りに、 「あ、とうまだ。うん、という事はやっぱりここがとうまの通うガッコーなんだね。ここまで案内してくれたまいかには後でお礼を言っておいた方がいいかも」 。彼女の声を聞き、クラス中の皆が一斉に上条へ視線を集中させる。  彼らの目は語る。またテメェか。 「…………………………………………………………………………………………………あ、あれ? なのですよー」  |何故《なぜ》か転入生を紹介した小萌先生までもが、ドアお前に立つインデックスの姿を見てかっちりと凍り付いている。 「ちょ、待って。小萌先生、これは一体どういう……?」  上条は問い|質《ただ》すが、どうも彼女にとっても予想外の展開らしい。上条の声を受けた小萌先生はようやく我に返ると、 「シスターちゃん! まったくどこから入ってきたんですか! 転入生はあなたじゃないでしょう!? ほら出てった出てったですーっ!」 「あ。っ、でも、私はとうまにお昼ご飯の事を……」  インデックスは何かを訴えていたが、小萌先生は聞く耳持たずにぐいぐいと彼女の背中を押して教室から追い出そうとする。  上条は反射的に席を立って、 「あ……。お、おいインデック————っ!!」 「上条ちゃん! もうこれ以上お話をややこしくしないでくださいーっ!」 「うおっ!?」  追いかけようとしたが、小萌先生に大声で言われて彼の動きが止まった。小萌先生は怒りというより、いつ泣き出すか分からない子供のような怖さを|醸《かも》し出したまま、インデックスの背中を押して教室から出て行ってしまった。  |上条《かみじよう》はやや|呆然《ばうぜん》と突っ立ったまま、そんな彼女|達《たち》の背中を見送った。  彼女達と入れ替わりのように、長い黒髪の少女が入ってくる。 「ちなみに。本物の転入生は私。|姫神秋沙《ひめがみあいさ》」  見知った顔を確認して、上条は|安堵《あんど》のあまり思わず机に突っ伏した。 「よ、良かった。地味に姫神で本当に良かった。しかも|巫女《みこ》装束じゃなくて何のひねりもない地味な制服に身を包んでくれて心底本当に良かった……」 「君の|台詞《せりふ》には。そこはかとない悪意を感じるのだけど」  地味地味と言われた姫神は、少しだけムッとしたようにそう答えた。       6  教室から追い出されたインデックスはむくれながら廊下を歩いていた。  彼女の手には二千円札が握られていた。|小萌《こもえ》先生に『もう何だってこんな所にいるんですかほらもう早く帰ってください知らない人についていっちゃダメなのですよほらほらタクシー呼んでくださいねー』と無理矢理渡されたものだった。 (……とうまがとんでもない顔してた)  彼女は先ほどの光景を思い出しながら、口をへの字にする。上条と|一緒《いつしよ》にいてもう一ヶ月以上|経《た》つが、顔を見た途端に苦痛に顔を|歪《ゆが》ませるような、あからさまな『拒絶』はこれが初めてだったりする。  彼女が胸の中にあるモヤモヤしたものをどう処理していいか迷っていると、今度はお|腹《なか》が減ってきた。|踏《ふ》んだり|蹴《け》ったりだとインデックスはちょっと唇を|噛《か》む。  と、そんな彼女は食堂の横に差し掛かった。  中から聞こえてくるジャージャーという|妙《いた》め物の音や漂ってくる|美味《おい》しそうな|匂《にお》いに、腕の中の|三毛猫《みけねこ》がみゃーみゃーと鳴き始めた。インデックスの足がピタリと止まる。 「……、おなかへった」  そういえば今日は色々バタバタとしていて上条が作ってくれた朝ご飯も少しだけおざなりだったような気がする。満足度で言えば四〇%ぐらいだ。  彼女はゾンビみたいな足取りで食堂へ入っていく。  広い部屋だが、内装はかなりおざなりだった。丸テーブル一つパイプ|椅子《いす》四脚をワンセットとして、一〇〇セットほどが並べてある。壁の一角がカウンターになっていて、その奥が|厨房《ちゆうぽう》となっているらしい。ジャージャーという音はそちらから聞こえてくる。部屋の隅には食券販売機の機械が三つほど設置されていた。 (む、あれマンガで読んだ事ある。確かお金を入れてボタンを押すと食べ物の引換券みたいなのが出てくるヤツだったはず)  彼女は頭の中にある偏った知識に照らし合わせて、そう判断した。『|金烏玉兎集《きんうぎよくとくしゆう》』『創造の書』『法の書』など、名だたる|魔道書《まどうしよ》を記録する禁書目録の本棚の中に、少年マンガが混じり始めている現状を知ったらステイル辺りなら卒倒しそうだが、キチンと区別して記録・保管している彼女からすると、それほど大きな問題ではないようだ。  インデックスは食券販売機お前に立つ。  その手の中にある、くしゃくしゃの二千円札のシワを伸ばして販売機に|呑《の》み込ませる。 (ほら、私にだってちゃんとできるんだよ。とうまは私の事を時代遅れとかアンティークとか言うけど、これぐらいじゃ悩まないもん。後はボタンを押せば良いだけ)  彼女は少しだけ胸を張ると、ボタンを押すために人差し指を機械へ伸ばそうとして、  ピタリ、とその手が止まった。  食券販売機には、ボタンが一つもない。 (あ、あれ? これは……え? どこを押して何を操作すればいいの?)  販売機からは電気スタンドみたいなアームが伸びていて、その先にくっついている液晶モニタには商品の値段表が表示されているが、それだけだ。注文を行うべきボタンはどこにもない。  実は駅の切符販売機と同じく、モニタがタッチ。パネルになっているだけなのだが、そんなものはインデックスには分からない。 (あ、え、あ、うー……そ、そうだ。とりあえずお金を取り出そう。って、え? これどうやってお釣取り出すの? ボタンは???)  やはり液晶の端には『取り消し』ボタンがあるのだが、完全に心理的死角に|潜《もぐ》り込んでいる。 テレビの料理番組を見るたびに|三毛猫《みけねこ》が|無駄《むだ》に画面へ猫パンチを繰り出している姿を知っている彼女としては、『画面を触ると何かが起きる』などありえないと考えているのだ。  インデックスは両手で販売機を|掴《つか》んでぐらぐら揺らしたりお釣の取り出し口を|覗《のぞ》き込んだりしていたが、当然ながら何の変化もない。 「う、うううう。まるでとうまみたいな不幸っぷりかも……」  途方に暮れた彼女は、そこでぐったりと床に崩れ落ちてしまった。甲子園の決勝で敗北した高校球児のように、地に四つん|這《ば》いになって悲嘆する。三毛猫だけが事情を理解しないで、いかにも暇そうにあくびをしていた。  と、そんな彼女の背後から、カツンという足音が聞こえた。  インデックスが何か思お前に、彼女の肩が、何者かに|叩《たた》かれた。  始業式は体育館で行う。  移動するために各教室から出てきた生徒|達《たち》で、廊下はごった返していた。ちよっとした休日の駅前ぐらい混み合っている。  そんな中、|上条《かみじよう》はクラスの輪から離脱していた。理由は単純、ほったらかしになっているインデックスが心配で心配でどうしようもないからだ。 「くそ……|俺《おれ》が言うのもなんだけど、アイツもアイツでトラブルに巻き込まれやすいタチだからなー」  |他《はか》にも彼女は完全|記憶《きおく》能力を持つため、能力開発の|時間割《カリキユラム》りの仕組みなどを見られると|魔術《まじゆつ》側に科学側の情報が|漏洩《ろうえい》する危険もあるのだが、上条はそこまで頭が回っていない。  とにかく早くインデックスを見つけよう、と彼は眠たい頭を無理矢理に働かせて廊下を走る。  インデックスの肩を|叩《たた》いたのは、見慣れない少女だった。  身長はインデックスより高く、上条よりは低い程度。髪はわずかに茶色の混じった黒だが、染めているのではなく元々そんな色なのだろう。長さは|太股《ふともも》ぐらいまで伸びたストレートなのだが、それとは別に頭の横からゴムで束ねた髪が一房、伸びている。フレームの細い知的なメガネをかけているのだが、|何故《なぜ》か少しずり落ちていた。インデックスは彼女の胸の辺りを見た。夏服を内側から盛り上げるその|膨《ふく》らみを見る限り、残念ながらその少女の方が一枚上手だ。 (|誰《だれ》だろう、この人?)  インデックスも人の事を言えた義理ではないが、その少女の格好は上条の学校の人々とは少し違った。ここの女生徒|達《たち》は|半袖《はんそで》の白いセーラー服と紺色のスカートを|穿《は》いている訳だが、その少女は半袖のブラウスに青色のスカートなのだ。男物の赤いネクタイが白と青の制服のアクセントとなっているが、それもやはりこの学校のものとは違うような気がする。  インデックスとその少女の目が合う。  ずり落ちたメガネの向こうから、小動物みたいな|瞳《ひとみ》が|覗《のぞ》いてくる。 「あの……ボタンを押さなくっちゃダメなのよ」 「はえ?」 「だから、モニタのボタン……」  ボソボソした声で言われて、少女の指が食券販売機を指している事にインデックスはようやく気づく。その指の先を視線で迫っていくと、販売機のアームに付いた液晶モニタに|辿《たど》り着く。  インデックスは、未知の言語を使う異国で迷予になった子供のような顔をして、 「ボタンって、だから自販機にボタンなんてついてないんだよ?」 「えっと……」少女は少し困ったように、「だから、モニタを直接指で触ればいいの……。知らなかった? あ、あの、だから、そんな泣きそうな顔しないで」 「ウソだもん。、私知ってるよ、テレビに触ったって中の人には何の変化もないもん」 「……」  少女は無言で販売機お前に立つと、モニタの端にある『取り消し』ボタンを押す。  うぃーむ、とモーターの|捻《うな》る音が聞こえ、|呑《の》み込まれたはずの二千円札がにゅるっと吐き出されてきた。インデックスは思わず目を丸くする。 「な、なにそれ?」 「だから……モニタを指で触れば良いだけなんだけど……」 「す、すごい。このテレビ、中と|繋《つな》がってるんだね!」 「あの……これ、テレビじゃ……」 「すごいすごい! もう一回! もう一回やって!!」  突然の大声に、|三毛猫《みけねこ》が抗議の鳴き声をあげた。何がそんなに楽しいのか、インデックスはおなかが減っている事も忘れて、吐き出された二千円札をもう一度自販機へ押し込む。それから手品師を見る子供のような|瞳《ひとみ》で少女の顔を見た。  少女はとても困った顔を浮かべたが、もう一度『取り消し』ボタンを押す。  二千円札が戻ってきただけなのに、インデックスは尊敬の|眼差《まなざ》しを向け始めた。 「じゃ、じゃあこっちは? このボタン何? この『のっと検索』とかいうの」 「えっと……ここにキーワードを入力すると、それ以外の商品が表示されるの……。卵アレルギーだったら『たまご』って入力すれば、卵を使ってない商品だけが検索できるの……」 「じゃあこれは? 『でーた検索』とかいうの」 「その名の通りなんだけど……。ビタミンCとか鉄分とか、栄養素を数字で検索できるの。カロリー一五〇以下で検索すれば・…-ダイエット食品だけが表示されたり」  どうでもいい事を「っ一つ説明していくたびに、インデックスは子供のようにはしゃいだ。 それは宇宙飛行士に|憧《あこが》れる幼稚園児にスペースシャトルの中を紹介している感じに似ている。少女はすごいすごいと|褒《ほ》められて、素直に喜んで良いのか迷っているような顔を浮かべていた。  ひとしきり説明が終わると、インデックスはその少女へにっこりと笑みを向ける。 「ありがとう。あなた、名前は?」 「……ん。|風斬氷華《かざきりひようか》」  インデックスと風斬は特に何も注文しないまま、食堂の席を勝手に陣取って世間話をしていた。というより、主にインデックスの|愚痴《ぐち》を風斬が聞いていた。インデックスは会話に夢中なのか、空腹である事はすっぽりと頭から抜け落ちているらしく、 「それでね、私はとうまの名前をちゃんと呼んだのに、答えてくれないどころか目をそらしたんだよ。まったく、お昼ご飯の事忘れてたのはとうまの方なのに……」  風斬は、インデックスと彼女が抱いている三毛猫を交互に見ながら、 「う、うーん……。でも、基本的に学校って、部外者は入ってきちゃいけないところだから……勝手に来たら困っちゃうの。あなただって、先生に見つかったら大変な事になっちゃうのよ……」 「でも、ひょうかだって入ってきてるよ?」 「私は……|大丈夫《だいじようぶ》なの。転入生だから、制服を持っていないだけだし……」 「じゃあ私も転入生になる」 「……えっと……」  |風斬氷華《かざきりひようか》は|眉《まゆ》を寄せて困った顔になる。 「とにかく、私はとうまに一言もの申したい。このまま|黙《だま》って帰るのは嫌だし、何よりお昼ご飯がどう意ってるのか問い|質《ただ》さないと本格的に|飢餓《きが》の危機だし」 「でも……その格好じゃ、あまりにも目立ちすぎちゃうよ……」  む? とインデックスは自分の格好を見る。  日常的に着こなしている彼女にはあまり自覚がないが、金糸の|刺繍《ししゆう》入りの純白修道服など、ドレスを着たお姫様と同じぐらい目立ちまくる。 「あなたが捕まっちゃったら……きっとその人も困っちゃうんじゃないかな……」 「じゃあどうすればいいの?」  ここで押しが強くツッコミに慣れている人間なら、『はよ帰れ』の一言で済ませられただろう。が、どうにも風斬氷華は|心許《こころもと》ない視線をさまよわせて、 「……あの、保健室に行けば、予備の服があるかもしれないよ……。えっと、キチンとした制服じゃなくて、おそらくフリーサイズの体操服だと思うけど……」 「たいそーふく? それ着ればバレない?」  無邪気な問いに、風斬氷華は戸惑ったような顔になる。  常識的に考えれば、少なくとも今のインデックスの修道服よりは目立たないと思う。が、授業もない始業式に体操服を着ているというのもやっぱり目立つような気もするし、しかもどの道学校に動物を連れてきてはいけないという基本事項があるし、しかしそれ以外に名案も浮かばないし……と、風斬はあれこれ頭の中で考えた後、 「……、うん。きっと、多分、おそらく、もしかしたら、大丈夫……かも」  返答に困って、なんとも|曖昧《あいまい》な言葉を返してしまった。  インデックスと風斬はがらんとした廊下を歩いていく。 「ふうん。で、結局たいそーふくってどんな服なの?」 「えっと……、なんていうか。運動をするための服、かな。よく伸びるから着心地は悪くないと思うし、汚れが落ちやすいように、生地が、選ばれていて……」 「す、すごい。それってあれだよね、とうまが言ってた『はいてく』ってヤツだよね!」 「…………、えっと」 「すごいすごい! そうだ、ひょうかも|一緒《いつしよ》に着ようよ! なんかカッコ良さそう!!」 「………………………………、えっーと、あの」  押しが弱い風斬は、インデックスの過剰な想像を正す事もできずに、メガネの奥にちょっと涙を浮かべかねない顔をしたまま引きずられていく。  |上条《かみじよう》は|未《いま》だにインデックスを捜していた。  あれだけ廊下に|濫《あふ》れていた生徒|達《たち》はもういない。がらんとした廊下を走りながら、彼は暗いため息をついた。体育館ではもう始業式が始まっているはずだ。 (……くっそー、せっかく違和感なくクラスに溶け込んでたっつーのに。ま、始業式っつっても校長の話聞くだけだろ……校長の顔知んねーけど。まあ、今はそれよりインデックスインデックス)  上条はあちこちを見回しながら廊下を走る。  と、どこからか聞き慣れた声が耳に入ってきた。 (ん? この声は———敵機捕捉、識別はバカシスターっ!!)  彼は立ち止まり、耳を|澄《す》まして周囲の音を拾った。女の子の、はしゃぐような声だった。辺りに人がいないせいか、声は割と良く通る。上条は声のする方へ視線を向け、そして|眉《まゆ》をひそめた。ドアプレートには『保健室』とある。  上条の口元が引きつる。 (ち、ちくしょう。こっちが寝不足の頭を必死に動かして人捜しやってるってのに、一方その|頃《ころ》お前はまさかの保健室のベッドを占拠でぬくぬく状態ですか、そうですか)  彼は保健室の入り口の引き戸に手をかけると、 「おいインデックス! お前が何で保健室にいるんだよ!! テメェが病気だとしたらあれだ、病名は万年五月病だあああ!!」  スパーン!! と上条は勢い良く保健室の引き戸を開け放つ。  今日という今日は本格的お説教モードですよ、と上条は勢い込んでいたのだが、  視界の先には、マンガみたいに着替え中の少女がいた。  しかも二人分。  まず一人目。見慣れたシスターは|何故《なぜ》か修道服ではなく、|半袖《はんそで》短パンの体操服に身を包んでいる。……のだが、何故か短パンは中途|半端《はんぽ》に|穿《は》きかけの状態だった。彼女は中腰の体勢で両手で短パンの両サイドを|掴《つか》んだまま、動きが完全に固定されている。ただ、その口の端だけが、不気味にひくひくと引きつっている。  次に二人目、この学校とは違う夏服を着た、見慣れない少女だった。ストレートの髪+頭の横からゴムで束ねた髪が一房飛び出している少女で、わざとなのか天然なのか、細いフレームのメガネをずり落とすように鼻に引っ掛けている。……のだが、ブラウスのボタンが全部外れていた。彼女は半袖の体操服を手にしたまま、カチコチに凍り付いている。ただし、メガネの奥の小動物みたいな|瞳《ひとみ》だけが、今にも泣きそうな危うい光を放っていた。  彼女|達《たち》は完全に現実を認識していないのか、固まったまま|上条《かみじよう》へ視線を投げた。  危機感の足りない|三毛猫《みけねこ》だけが、前脚で眠そうに顔を洗っている。  上条は身の危険を感じつつ、 「………………………………………………………………えーっと、間違えましたーっ!!」  |瞬間《しゅんかん》、二人の少女の顔が真っ赤に染まった。  それは照れや恥ずかしさによるものだと上条は信じたかったが、どうも違うらしい。  一瞬の時の後、激怒の悲鳴と共に何かが|破壊《はかい》される|轟音《ごうおん》が|響《ひび》き渡った。      7  上条はひどくご立腹だった。  本来、迷惑を|被《こうむ》っているのは彼なのである。道中色々あって着替えを|目撃《もくヂき》したのは大変申し訳ないと思うのだが、一方的にインデックスに怒られ続け、頭に歯形をつけられるのは何となく釈然としない。  そんなこんなで、結局元の服に着替え直した二人の少女と|一緒《いつしよ》に、上条は食堂にやってきている。上条とインデックスはムスッとした顔のままで、見知らぬ少女だけがそんな二人の様子 を見てオロオロとうろたえている。|三毛猫《みけねこ》は我関せずとテーブルの上で丸くなっていた。  |上条《かみじよう》は寝不足と不機嫌が重なった低い口調で、 「で、インデックス。そっちの子は|誰《だれ》?」  彼が言うと、|何故《なぜ》か見知らぬ少女の方がビクリと肩を|震《ふる》わせた。そんな彼女とは対照的に、インデックスは|撫然《ぷぜん》としたまま、 「よく分かんない。でも友達」 「よく分かんないって、知らない入について行くなよ!」 「よく分かんなくてもひょうかは友達だもん!」 『ひようか』と呼ばれた少女は彼らが大声を出すたびにビクビクと小動物みたいに震えていたが、ゆっくりと深呼吸すると、『ま、まーまー……』と恐る恐る割って入った。 「わ、私は……|風斬氷華《かざきりひようか》って、言います……。あなたは?」 「ん? ああ、上条」  何気なく言ったつもりだったが、何故か風斬の肩がビクリと震えた。  それを見てインデックスが、 「とうま。ひょうかを怖がらせちゃダメなんだよ。……|大丈夫《だいじさつぶ》だよ、ひょうか。とうまは血気盛んで優柔不断で目に付いた女の子に片っ端から|関《かか》わっていくような珍種だけど、いい人だから」 「……あ、あの。どこを安心すればいいの、それ……?」  風斬の|真面目《まじめ》な問いかけに、上条の唇がわずかに引きつる。  と、いつまで|経《た》ってもビクビクモードを解除しようとしない風斬の|緊張《きんちよう》をほぐそうとしているのか、インデックスが、 「ほらほら、ひょうか。私のスフィンクス貸してあげる。猫に触ると体のガチガチが取れるかも」 「あの、……スフィンクスって、もしかして……名前なの?」  三毛猫は一切のためらいも見せずに丸テーブルの真ん中で仰向けになってお|腹《なか》を見せると、むしろ紳士的な顔つきで『さあお|嬢《じよう》さん、私の胸で存分に泣きなさい』とばかりに前脚を大きく広げてバンザイを始めた。  風斬はしばらく困ったような顔をして宙に手を泳がせていたが、やがて三毛猫の柔らかいお腹をそっと|撫《な》でてみる。すると、 「あ……。あったかい」  思わず漏れたという感じで、風斬の顔に笑みが浮かんだ。一方、三毛猫はまるで足の裏をくすぐられているように体をピクンピクンと震わせながら『だ、大丈夫。お嬢さん、私はこれぐらいで弱音を吐くような事は、おはっ!?』という具合で必死に何かから耐尾ている。ちなみに上条は話題の輪から外れてちょっとすすけていた。 「うんうん。良かったらスフィンクス抱いてみる? ちょっと抜け毛が気になるかもしれないけど、抱き締めるのも気持ち良いかも」 「う、うん……、えっと、こんな感じ、かな?」  |風斬《かざきり》は見よう見まねでインデックスのやっている通りに、両手で|三毛猫《みけねこ》をそっと抱き上げると胸の位置で固定する。それはインデックスが|普段《ふだん》やっている仕草と何も変わらないのだが、 むぎゆ、と。  三毛猫の頭が風斬の大きな胸の聞に埋まってしまった。  今までずっとすすけていた|上条《かみじようし》は|瞬間的《ゆんかんてき》に顔を真っ赤にして、ズバン! と無防備な風斬から体ごと目を|逸《そ》らしてしまう。『ぐ、うおお!? お、お|嬢《じよう》さん、|流石《さすが》の私も窒息だけはもがあーー閥』とばかりに三毛猫は大暴れをすると、慌てる風斬の手からするりと抜け出し、丸テーブルの上に着地して首をふるふると振った。  だがしかし、当の少女|達《たち》は|何故《なぜ》三毛猫が拒絶反応を見せたのか理解できていないらしく、「えっと……動物は、人問よりも五感が鋭いから。……私とあなたの|匂《にお》いの違いが、分かるのかもしれないね……」 「ひょうか、しょんぼりしちゃダメだよ。それならこれからスフィンクスと仲良くなれば良いだけの話なんだから。……って、とうま? どうしてあっち向いてるの?」  何でもありませぬ、と上条は答える。  彼は共に真実を知る三毛猫と目を合わせたが、三毛猫は疲れたようにみにゃーと鳴いた。世 の中には語らざる方が幸せな事もある、と告げようとしている風に聞こえた。  何か妙に意識してしまう|上条《かみじよう》としては話題を変えたい所だが、ひょっとすると|風斬《かざきり》は男性恐怖症なのかもしれないと思い、その矛先をインデックスへ変更した。 「で、お前は何で学校なんかにやってきたんだよ?」 「む。そうだよ、とうま。お昼臓、一飯お昼ご飯。とうま、なんにも用意しないで出て行っちゃったでしょう? あのままだったら私は飢え死にしてたかも」 「今日は始業式だから昼までには帰れるっつーの!」 「そ、そんなの言ってくれないと分かんないもん!」 「分かれよ! こんぐらい常識だろうに!」 「とうまの常識をこっちに押し付けないで欲しいかも! じゃあとうまは分かる? イギリス仕込みの十字架に|天使の力《テレズマ》を込める偶像作りのための|儀式《ぎしき》上における術式を行う時の方角と術者の立ち位置の関係とか! 実際、メインの術式の余波から身を守るための防護の|魔法陣《まほうじん》を置く場所は厳密に定められていて、そこから少しでも外れるとサブ的な防護はメインの術式に食われて上手く機能しなかったりするんだけど、とうまはそういった黄金比は分かるのかな? ほらほら、こんなの常識だよ!」 「ま……まーま!…-」  こんな感じで、二〇秒に一度の間隔で風斬|氷華《ひようか》が仲裁を入れながらロゲンカは続いていく。  一方その|頃《ころ》、|小萌《こもえ》先生も大層ご立腹だった。 (かーみーじょーうーちゃーん? 初日から堂々と始業式をぶっち切るとは、いーい度胸なのですよー。うふ、うふふ、うふうふうふふふふふ……)  体育館で彼の姿が消えている事に気づいた小萌先生は、|普段《ふだん》は決して見せないような黒い笑みを浮かべながら捜索を開始していたのだが……、 (うーん。でも、もしかしたら体調を崩していたり|怪我《けが》したり、やむを得ない事情があるのかもしれないのです。……上条ちゃん、|大丈夫《だいじようぶ》ですよね)  怒り心頭でサボリ生徒の捜索中にもそんな事を考えてしまう小萌先生は、なんだかんだで結局優しい先生なのだった。  が。  不意に、食堂の辺りから話し声がするのを、小萌先生は聞き取った。現在、全校生徒及び全教職員は体育館に集合しているはずである。  もしや……と思い小萌先生がそちらへ向かうと、案の定上条がそこにいた。  しかも、何やら女の子を二人も連れて。  ロゲンカはしているけれど、それでいてどこか楽しそうに。 (あ、あは……)  心配していた分、余計に|小萌《こもえ》先生の怒りゲージが勢い良く振り切れた。  彼女は肺の奥まで酸素を吸い込むと、ありったけの力を込めて絶叫する。 「かっ、かか、|上条《かみじよう》ちゃーん!! アンタ一体何をやってるんですかーっ!!」  小萌先生の叫び声に、テーブルの上で丸くなっていた|三毛猫《みけねこ》が『ふぎゃあ!』と|驚《おどろ》いて落っこちそうになる。  上条|達《たち》は思わず会話を止めて振り返った。  身長一三五センチ、見た目一二歳の女教師がズカズカと食堂に入ってくる。怒りのあまり頭に血が上っているのか、耳まで真っ赤に染まっていた。 「あ、あれ? 小萌先生、どうしたんですか? 今って始業式やってんじゃ……」 「アンタがそれ言いますか上条ちゃん! 先生はですね! 体育館に上条ちゃんの姿がないから心配して式を抜け出して捜しにきたんですよ! それなのに、それなのに一方その|頃《ころ》上条ちゃんはモテモテ学園生活満喫中ですか!? まったく、そんなにイチャイチャしてると不純異性間交友でしょっぴきますよーっ!」 「いやあのイチャイチャって……先生アンタこのロゲンカがそんな風に見えたんかい」 「ロゲンカをしながらその余裕ってのがイチャイチャなのです! だ、大体ですね。なんだって上条ちゃんの周りにはこう女の子がごろごろと転がり込んでくるんですか! 上条ちゃんはそういう変なAIM拡散力場でも生み出しているんですかーっ!」 「そっ、そんなの関係ないでしょうが! ここで言及する事ですかそりゃあ?こ  こんな感じで、上条と小萌先生は顔を突き合わせて口論を始め  ———五分|経《た》って、話の方向性が少しずつおかしくなっていく。 「|土御門《つちみかど》ちゃんは学校にこないしシスターちゃんは学校にきちゃうし、ただでさえ忙しいのにこれ以上変な問題を持ってこないでください! 先生としては女性に対してそんな軽々しい上条ちゃんの態度は放っておけないのです!」 「土御門もインデックスも|俺《おれ》と関係ねーじゃん!?  っつーか言ってはなんですけど上条さんは超硬派ですよ! フラグっつってもイベントは一切発生しない駄フラグばっかだし!!」 「か、上条ちゃん? アンタあれだけド派手な学園生活エンジョイしながらどの口が硬派とか言いますか、どの口が!!」  ———一〇分経って、話の方向性がどんどんおかしくなっていく。 「どうじて上条ちゃんは女の子が|絡《から》むと途端に行動力と思考力がアップするのですか! その情熱をもっと勉強にも注いで欲しいのですよーっ!」 「ちょ、ちょっと待ってください先生! アンタの頭ん中じゃ俺は『女の子と仲良くなるためなら命を|賭《か》けるお祭り野郎』になってませんか!?」 「……逆に命を賭けた結果として仲良くなってる事には気づいてるのかな、とうま?」 「ちくしょう、インデックスまで……!?」 ————一五分|経《た》って、話の方向性が決定的におかしくなっていく。 「と、とにかく|上条《かみじよう》ちゃんは別室でお説教です!!」 「とうま、とうま。説教というより、私は|餓悔《ぎんげ》させてみたいかも」 「あーもう! 寝不足で頭痛いんだからワケの分かんない事で甲高い声出さないでくれ! ほら、|風斬《かざきり》もなんか言ってやってくれよ! ここでの良心はお前しかいないんだから———って、あれ?」  上条はきょとんとした顔をした、インデックスと|小萌《こらセベ》先生もそちらへ視線を向ける。  同じテーブルに着いていたはずの風斬|氷華《ひようか》の姿が、いつの間にか消えていた。ついさっきまで彼女がいた所には、空席となったパイプ|椅子《いす》だけがポツンと置いてあるだけだった。 「……ありゃー。|呆《あき》れて帰っちまったのか」  彼は言うが、当然ながら返事はない。      8  学校の敷地の外に追い出されたインデックスは、校門近くの金網のフェンスに寄りかかって上条を待つ事にした。腕の中の|三毛猫《みけねこ》は眠そうにしている。 「……あの……なんか、すごかったね。ちょっと、びっくりした」  か細い声にインデックスが振り返ると、呆れて立ち去ったはずの風斬氷華が立っていた。 「あんなのいつもの事だよ。ひょうかも|一緒《いつしよ》におしゃべりすれば良かったのに」 「本当? ……あの先生、怒っていたけど」 「こもえのあれは怒ってるんじゃないよ。どうしてそんなに気にしてるの、ひょうか?」 「だって、あなた……何か、|哀《かな》しそうな顔してい乃から……」  風斬が言うと、インデックスはちょっとだけ|黙《だま》った。  ややあって、彼女は言う。 「……、とうま。怒ってた」 「?」 「今までだって何度もケンカした事あるけど、なんか今回は違う気がする。とうまは全然私の言葉を聞いてくれないし、ずっと怒ったままだし、ちっとも笑ってくれないし……」  自分で放った言葉に、インデックスはわずかに顔を|歪《ゆが》ませる。  ロゲンカをしていた時は活発に見えた彼女も、どうやら内面では沈み込んでいたらしい。 「とうま。私の事嫌いになっちゃったのかな……」  インデックスは視線を落とした。 (それとも……)  |台詞《せりふ》の続きは、口に出して語るにはためらわれた。 (それとも、とうまは最初から私が嫌いで、私はやっとそれに気づいただけなのかも)  彼女はわずかに唇を|噛《か》む。  |三毛猫《みけねこ》を抱く手に力がこもったのか、抗議の鳴き声があがる。  そんなインデックスを見て、|風斬《かざきり》は小さく笑った。 「……そんな事、ないよ。ケンカできる友達って……すごく仲が良いって|証《あかし》なんだから」 「どうして? ケンカすると傷つくんだよ。乱暴な言葉を言われると痛むんだよ。仲が良い人ならそんなの押し付けたりしないよ、絶対」 「ケンカができる友達っていうのはね……」風斬は静かな声で、「ケンカをしても……ちゃんと仲直りできる友達なのよ。それっきりで、終わらないの。あの人は……あなたとケンカをしても縁が切れないって信じてるから……安心してケンカできたんだと思うの」 「ホントに?」 「これは、本当。……じゃあ、ケンカしない方が良い? ケンカしたくないから……自分のやりたい事を押し殺して、したくもないのに笑顔で応じて……それでもケンカしちゃったらもうそれっきりで、仲直りもしないで……その友達を捨てて別の友人を作る。そんな|薄氷《はくひよう》みたいな関係の方が良い……?」  その言葉を聞いて、インデックスは嫌そうな顔をした。  その顔を見て、風斬は小さく|微笑《ほほえ》みかける。 「そんなの、やだよ。私は、とうまとずっと|一緒《いつしよ》にいたい」  インデックスは言う。 「うん……。そう思えるなら……きっと、あなた|達《たち》は|大丈夫《だいじようぶ》よ……。少なくとも、あの人はあなたのために怒ってくれるような、人だから。大丈夫」  風斬|氷華《ひようか》は、そんな言葉を彼女に返した。  ただし、その後にぼそっと一言だけ、 「…………、人のハダカを見ても平気な顔で話しかけてくるけど」  |上条《かみじよう》はようやく|小萌《こもえ》先生の説教から解放された。  廊下にも教室にも、すでに生徒達の姿はない。始業式もホームルームも終わり、彼らは皆帰ってしまったのだろう。部活に参加する人達の声だけが、遠くから聞こえてくる。始業式でも食堂が開いていたのは彼らのためか。  行き違いになったのか本当に学校に来ていないのか、結局|土御門《つちみかど》とは顔を合わせなかった。 (……う、うだー)  疲労と寝不足があいまって、上条はしなびた野菜のようにヘコんでいた。  すでに時間は昼過ぎらしい。そう言えば空腹も感じる、と適当に考えながら上条は無人の教室に戻って|鞄《かばん》を回収、その足で昇降口へ向かい、上履きと革靴をトレードして外に出る。準備運動をしているサッカー部の横を通るようにてくてくと校庭を歩いていると、校門の辺りにインデックスと|風斬氷華《かざきりひようか》が待っているのを発見する。 「おーい」  と、|上条《かみじよう》は彼女|達《たち》に声をかけつつ、走って校門を出た。 「あ、とうまだ……」 「あん? っつか、お前ナニ暗い顔してんだ?」 「何って、別に、何でも」 「? まあいいか。で、どこヘメシ食いに行く? あんま高そうな場所はダメだぞ」  上条の言葉に、インデックスはちょっと不思議そうな顔をして、 「とうま、今日はウチで食べないの?」 「だって、面倒臭いだろ。どうせメシ食ったら遊びに行くんだし」 「……、」 「何だよ。お前、朝言っただろ。もう忘れたのか?」 「わ、忘れてない……けど」  インデックスがちょっと顔を赤くして猫を抱く手に力を込めると、|三毛猫《みけねこ》が|鬱陶《うつとう》しそうに鳴いてバタバタと暴れ始めた。  |隣《となり》で風斬がくすくすと笑っていた。 「そうだ、ひょうかも|一緒《いつしよ》に行こう?」 「え……いいの?」 「断る理由なんかないよ。ねえ、とうまもいいよね」 「だな」  上条が一秒すら待たずに即答すると、風斬は少し|驚《おどろ》いたような顔になった。 「えっと……ありが、とう」  彼女はインデックスの顔を見て、小さな声でそう言った。 「ん。一日遊ぶんならちよっと金がいるか。悪い、ちょっとコンビニで金下ろしてくるから、ここで待ってろ」  彼はそれだけ言うと、学校のすぐ近くにあるコンビニへ向かい、入り口の|側《そば》にあるATMを操作する。  学園都市の生徒はもれなく奨学金制度に加入される。月に一度、まるで給料日のようにお金が振り込まれるのだ。  一見するとかなり便利な制度に聞こえるが、実は能力開発の人体実験の契約料、と受け取る事もできる。名門であればあるほど、レベルが高ければ高いほど奨学金の額も高くなり、それだけ重要な研究に|関《かか》わっている、という訳だ。  |上条《かみじよう》はレベルが0で平凡な学校に通っているため、大した金額も出ない。 (……ま、人体実験っつっても聞くほど|物騒《ぷつそう》な話じゃねえけどな)  彼は適当に考えながら、お金を財布に入れつつコンビニを出る。  と、不意に横合いから声がかかった。 「おいおいちょっとー、そこの少年。無用心じゃんよー」  横合いからかけられた女性の声に振り返ると、そこには緑色のジャージを着た色っぽい女の人が立っていた。長い髪を後ろでまとめているだけなのだが、その雑な感じがまた妙に|艶《つや》っぽい。ただ、その肩の所についている腕章を見る限り、どうも|警備員《アンチスキル》の人間らしかった。  それにしても、女性の|警備員《アンチスキル》は珍しいと思う。理由は単純、たとえ日本に男女雇用機会均等法があったとしても、自衛隊の男女比が圧倒的に偏っているのと同じだ。  彼女は上条を見て、何だか|呆《あき》れたように言う。 「ATMの近くで財布を見せながら無防備に歩くんじゃないの。奪ってくださいと言っているようなものじゃん」 「え、あ? はぁ、すみません」  何か良く分からない内に上条が謝っていると、|何故《なぜ》だかジャージの女性は満足そうに、 「うんうん。次からは気をつけるんだぞ少年」  にこにこ笑うと、彼女は上条など置いてきぼりにしてどこかへ行ってしまった。  上条は頭をかいた。|警備員《アンチスキル》はプロとしての訓練を積まされるが、その本職は教師だ。公務員の副業は禁じられているのだが、彼らにそれは適用されない。例外的な処置という訳ではなく、給料をもらっていないからだ。早い話がボランティアで夜の見回りをしている活動の延長線上にあるのである。危険な仕事に対して報酬は|警備員《アンチスキル》としての特別権限のみとなるが、それでも結構人気があるとか。生活指導の立場からすれば色々と仕事がしやすくなるらしいし、何より正規の|警備員《アンチスキル》になると生徒に|舐《な》められなくなる。 (でも、この近くをうろついてるって事は、案外ウチの先生なのか? ……やべえな、思い切り初対面のノリで接しちまったぞ。いや、向こうも知り合いに話しかけるようなトーンじゃなかったし……)  そこまで考えた時、上条は自分の服を何者かにチョイチョイと引っ張られた。何だ何だ、と彼が振り返ると、そこに|姫神《ひめがみ》が立っている。 「ありゃ? 何やってんだ姫神。お前まだ帰ってなかったのか?」 「……。人が転校してきたというのに。その淡白な反応は何?」 「あー……」  そう言えば、インデックスが乱入してきたせいで|有耶無耶《うやむや》になりつつあるが、今日は姫神の転入初日というビッグイベントがあったりしたのだ。 「そうか。私はやっぱり。影が|薄《うす》い女なのね」 「いや、あの、そんなに落ち込むなって。なんかお前の周りだけ太陽の恵みが|希薄《きはく》だぞ……」  ごーん、と効果音つきで落ち込んでいる|姫神《ひめがみ》だったが、やがて顔を上げると、 「そんな事より」 「(そんな事って……やっぱこいつも|掴《つか》み所がねーよな……)」 「ちょっと話が耳に入ったのだけど。あのメガネの女の名前って。|風斬氷華《かぎきりひようか》でいいの?」 「あん?」  |上条《かみじよう》は視線を移した。  少し離れた校門の辺りで、インデックスと風斬が立っている。ここからでは声は聞こえないが、何か楽しそうに会話している様子は分かる。  彼は再び姫神へ視線を戻して、 「ああ、そうそう。風斬氷華で合ってるよ。ってか、お前の友達なのか?」 「……」  姫神は上条の言葉を受けて、遠くにいる風斬の顔を見る。  それは|睨《にら》むとか観察とか、そういう種類のあまり好意的でない視線だった。 「おい、どうしたんだよお前」 「確認するけど。あの子のお前は。本当に風斬氷華なのね?」 「まあ……本人もインデックスもそう言ってるけど。身分証とか確認した訳じゃねーけど、別にそんなのする必要ねーだろ」 「風斬。氷華」  姫神はもう一度、その名を告げる。 「君は。私お前に通っていた高校のお前は。知らないよね?」 「まあ……知らないけど」 「|霧ヶ丘《きりがおか》女学院。単純に能力開発分野だけなら|常盤台《ときわだい》に肩を並べる名門校。常盤台が|汎用性《はんようせい》に優れたレギュラー的な能力者の育成に特化しているのなら。霧ヶ丘は奇妙で。異常で。でも再現するのが難しいイレギュラー的な能力者の開発のエキスパート」  ふうん、と上条は適当に|相槌《あいづち》を打つ。  そういえば、彼女の|吸血殺し《デイープブラッド》も、科学方面ではあまり有用な能力とは思えない。そう考えると霧ヶ丘なら上条の右手も重宝されるのかもしれない。もっとも、上条は女子高に通うつもりなどさらさらないが。 「風斬氷華のお前は。霧ヶ丘でも見た事がある」  お前は、の所を強調するように姫神は告げた。 「って事は、お前|達《たち》って|一緒《いつしよ》に転入してきたのか?」 「……」  姫神は|何故《なぜ》か答えなかった。上条はちょっと奇妙に思いながらも、 「|霧ヶ丘《きりがおか》に通ってたって事は、|風斬《かざきり》もお前みたいに珍しい能力の持ち主だって訳だよな」  |上条《かみじよう》はそう言ったが、別に|驚《おどろ》かなかった。彼の知り合いには最強クラスの|電撃《でんげき》使いもいるし、何より彼自身も特殊な能力を持っているからだ。  だが、 「分からない」 「?」 「風斬|氷華《ひようか》の力は。|誰《だれ》にも分からない」|姫神《ひめがみ》は、一度言葉を切ってから、「彼女のお前は。いつでもテストの上位ランクとして学校の掲示板に張り出してはあったけど」 「ふうん。頭良かったのか、あいつ」 「ううん。頭の良さとは関係ない。霧ヶ丘は『能力の希少価値』によってランク付けされるから。単純に。風斬の力が一番珍しかっただけ。それが有用かどうかは話が違う」  けれど、と姫神は一度言葉を切って、 「そもそも。風斬が何年何組に|在籍《ざいせき》していたのか。それすら誰も知らない。霧ヶ丘の人間は。 みんな風斬氷華の名前を知っていたけれど。実際に彼女の姿を見た者は。誰もいないの。いつもテストの上位ランクとして発表されているのに」 「……何だよ、それ」 「だから。何も分からないの。霧ヶ丘では、私は気になって先生に尋ねた事がある。そしたら|内緒話《ないしよばなし》をするみたいにして教えてもらった。風斬氷華は『|正体不明《カウンターストツプ》』と呼ばれていると」  姫神の言葉は、そこ。て終わらない。 「でも。 一番重要なのはそこじゃない、先生が教えてくれた所で一番重要なのは。その『|正体不明《カウンターストツプ》』ではなく。もっと別の所にある」  彼女は告げる。 「いわく。風斬氷華は。虚数学区・五行機関の正体を知るための|鍵《かぎ》だと」  上条は、|眉《まゆ》をひそめた。  虚数学区・五行機関。今はどこにあるか誰も分からないとされる、学園都市最初の研究機関。そして現在の最新技術でも再現できない多くの『架空技術』を有していると言われ、ウワサでは学園都市の運営を影から掌握しているとされる、この街の深い暗部だ。  確かにそこにあるはずなのに、誰もそれがどこにあるか分からない|謎《なぞ》の機関。  それは、どこか、ある少女と似ている節がある。 「先生の話では。。風斬氷華には彼女個人の能力を調べるための|研究室《とくべつクラス》があるという話だった。一個入のために研究室を用意するなんて滅多にないから。実はそれは『|正体不明《カウンターストツプ》』ではなく。、虚数学区・五行磯関の正体を探るための研究室だって」姫神は自分でも考え込むようにして、 「でも。先生もやっぱり|風斬氷華《かぎきワひようか》の姿は見た事がないって言っていた。研究室はあって。テストの結果にも名前が載っているのに。その正体は先生の間でも一部の人しか分からないって」 「けど……そんなのって」 「うん。私もどこまでが本当かは分からないから。だからこそ。一応の忠告で済ませてるの」  だから気をつけてね、と|姫神《ひめがみ》は言った。それから、自分のやるべき事は|全《すべ》て終わったとばかりにその揚から立ち去ろうとする。 「あっ、ちょっと待てよ。|俺達《おれたち》これから遊びに行くんだけど、お前もどうだ?」 「———。」  姫神は振り返る。その無表情な顔が、ほんのわずかにびっくりしているように見える。 「……。|小萌《こもえ》の……バカ」 「は?」 「何でもない。用事を|頼《たの》まれているから。私は行けない」  彼女は平淡な声でそう言うと、|上条《かみじよう》に背中を向けて歩き出した。どこかしょんぼりムードを発する姫神の後ろ姿を上条はしばらく眺めていたが、ふと何かを思い出したように姫神は立ち止まって上条の方を振り返った。 「時に。あの風斬氷華は。どうやってこの学校に入ってきたの?」 「え? 確か……インデックスの話だと、転入生だとかって」 「そう」  姫神は一言だけ答えると、 「でもね。記録では。転入生は私一人しかいないはずなのよ」  上条は絶句した。姫神はもう一度だけ『気をつけてね』とだけ言うと、今度こそ彼の元から立ち去った。上条は、視線を姫神から校門近くに|停《たたず》む少女達の方へと向ける。  インデックスと|一緒《いつしよ》に笑い合っている風斬氷華は、やっぱりただの一般人にしか見えない。  |得体《えたい》の知れない虚数学区なんぞに|関《かか》わっているようには、見えない。 (分っかんねーな。ただのウワサなのか、本当の事なのか……)  上条は頭をかきながら、彼女達の元へと歩いていく。  インデックスと風斬は、そんな彼を迎え入れるように笑顔を作る。  |三毛猫《みけねこ》がみにゃーと鳴く。  おかしい所など、どこにもなかった。  少なくとも、この時点では。 [#改ページ]    行間 一  駅前の大通りは大勢の中高生でごった返していた。  今日はどこの学校も始業式のため、昼過ぎの街には学生|達《たち》が一斉に解放された、とりわけ、大手デパートが集中する駅前の一角には多くの人々が殺到する。  |白井黒子《しらいくろこ》はそんな|雑踏《ざつとう》の中を歩く。  平均的な女子中学生よりやや低い背で、茶色い髪をツインテールにしている。|綺麗《きれい》というよりは|可愛《かわい》いという言葉が似合う少女だろう。彼女は|常盤台《ときわだい》中学の夏服を着込んでいたが、右腕に腕章をつけてあった。  そこには『|風紀委員《ジヤツジメント》』と記入されている。 『|風紀委員《ジヤツジメント》』は対能力者用の治安部隊の事で、言ってみれば機動隊の代わりのようなものだ「彼らは全員能力者によって構成されていて、これに対して次世代兵器を手にした教職員の手による治安部隊を『|警備員《アンチスキル》』と呼ぶ。  治安を守る部隊が二系統あるのは、部隊の内部腐敗を互いに監視するためだ。どこまで行っても彼らの本質は『学生』や『教職員』であり、逆に言うと己の立場を悪用する、悪徳警官のような人間が出てくる危険性も捨てきれないのである。 (……まったく。もう少し娯楽施設を分散させればよろしいのに。街の開発者は交通心理学や環境心理学に乏しいお方なのかしら)  そんな『学生』の一人、白井は地価や集客効果をバッサリと切り捨てた|愚痴《ぐち》をもらす。  おそらく多くの人々も同意見だろうが、彼女は人混みが嫌いだ。残暑も厳しいこの炎天下の中、人が集まり熱気がこもる駅前まで来たのには、理由がある。 (いましたわね……)  白井は一〇メートルほど先にいる人影を見て、それから携帯電話の画面に映る顔写真を確認した。その外国人らしき女は白井の存在に気づいていない。追われる身である事を忘れさせるほどに、堂々とした足取りで人混みの中を歩いている、  今朝七お前に、学園都市の外壁の二ヶ所から、ほぼ同時に何者かが侵入した。  その内の一人については『|風紀委員《ジヤツジメント》』ではなく『|警備員《アンチスキル》』の|管轄《かんかつ》のため白井には良く分からないが、話を聞くとどうも学園都市の|書庫《バンク》にID登録された学生らしい。企業スパイか何かだろうか?  彼女が追っているのはもう一人の方だ。  携帯電話の画面に映っているのは、防犯カメラが|捉《とら》えたものを拡大した写真だ。そこに映る金髪の女は、あろう事か真正面から学園都市の『門』に|攻撃《こうげき》を仕掛け、重傷者三名を含む、一五名もの負傷者を出して強引に街の中へと入ってきたのだ。  この時点で、対テロ用の警戒レベル『|特別警戒宣言《コードレツド》が発令。学園都市内外の出入りが完全に|封鎖《ふうさ》され、『|風紀委員《ジヤツジメント》』の面々には公欠と共に侵入者の捜索・索敵の命令が下された。  かくして、|白井黒子《しらいくろこ》は始業式にも出ず、何時間も街を歩き続けていた訳だが……。 (通常対応なら応援を呼んで、人払いも済ませてから被疑者確保といきたい所ですけれど、下手に時間をかければ機を逃しますわね)  彼女は人混みをかき分けて進む前方の標的を|睨《にら》みつけながら口の中で|呟《つぶや》く。  治安維持が二系統に分かれているとはいえ、|普段《ふだん》最前線に立つのは『|風紀委員《ジヤツジメント》』ではなく『|警備員《アンチスキル》』だ。それもそのはず、『|風紀委員《ジャッジメント》』を構成するのは学生だからである。白井に与えられた命令も犯人の捕捉までであり、後の仕事は『|警備員《アンチスキル》』のものとなっていた。……が、 (|警備員《アンチスキル》の方には任せておけませんわね。実際、すでに門の所で何名か被害が出ている訳ですし。力のない方は素直に|避難《ひなん》していてくださいませ)  白井の判断は、彼女自身が|大能力者《レペル4》であるという自信からくるものだ。次世代兵器でガチガチに身を固めなければ前線に出てこれない教師連中など、彼女からすればひどく貧弱に見える。  白井としては|警備員《アンチスキル》にできもしない仕事を押し付けたくはない。彼女がバトンタッチした|警備員《アンチスキル》が|怪我《けが》でもしたら寝覚めが悪すぎる。それなら自分が|戦闘《せんとう》に参加した方が気が楽だった。  彼女はスカートのポケットに手を入れる。  取り出されたのは小型の|拳銃《けんじゆう》のようなものだ。ただし銃身の太さが直径三センチ以上もある。信号弾などを|撃《りつ》つためのデバイスだった。 (これを使うと……始末書を書かされるから嫌なんですのよ、ね!)  白井は銃口を真上へ向けると、一気に引き金を引いた。  ポン、というある種コミカルな音と共に、口紅ぐらいの金属筒が、ゆっくりと、七メートルほど上方へと撃ち出される。  直後、ドカッ! と|眩《まばゆ》いばかりの|閃光《せんこう》が、金属筒を中心に|撒《ま》き散らされた。突然、|膨大《ぽうだい》な光量を浴びた周囲の面々は顔を手で|覆《おお》って硬直する。  |一瞬《いつしゆん》の後、彼らの取った行動は迅速だった。悲鳴や怒号を上げながら、近くの建物へと逃げ込んでいく。車を運転している大学生や教員|達《たち》も、その場で愛車を乗り捨ててビルへと駆け込んでいった。  この街の住人ならば、|誰《だれ》でも知っているのだ。  これは治安部隊による|避難《ひなん》命令。これから戦闘を始めるから流れ弾に当たらないように気をつけろ、という意味が込められている事を。  ものの三〇秒もしない内に、活気に|溢《あふ》れていた駅前の大通りからは人影が消える。  後には、白井黒子と|件《くだん》の標的の女だけが取り残された。  光の爆心地の中、その女は逃げる事も|騒《さわ》ぐ事もなく、ただゆらりと立っている。  両者の距離はおよそ一〇メートル強。  |白井《しらい》はその女へ視線を投げる。  見るからに異様な女だ。ゴシックロリータとでも呼ぶべきか、黒を基調とした長いドレスの端々に白いレースやリボンがあしらわれた格好をしている。金髪に青い目の少女が着ていれば、似合わない事もないだろう。  確かにその女は金髪を長く伸ばしていたが、肌はガサガサだった。  |歳《とし》は二〇代も後半で、髪も手入れを怠っているのか、所々が|獣《けもの》のように跳ねている。褐色の肌をしているが、あまり|陽《ひ》の光が似合いそうな感じはしない。ドレスも着古したのか|擦《す》り切れたのか、服の生地は傷んで白いレースもくすんだ色合いを見せていた。美人と言えば美人だが、どこかすさんだ感じがする。なんというか、ゴシックロリータの持つ|小綺麗《こぎれい》な幻想を片っ端からぶち|壊《こわ》して幻滅させるような女だ。 「動かないでいただきたいですわね。わたくし、この街の治安維持を務めております白井|黒子《くろこ》と申します。自身が拘束される理由は、わざわざ述べるまでもないでしよう?」  白井の言葉に、しかし荒れた金髪の女は大した反応を見せない、  退廃的と言うべきか単に無感動なのか、彼女はほんのわずかに首を振って辺りへ視線を走らせる。どうも白井の存在よりも、一斉に姿を消した住人の動きの方に興味があるようだ。  たっぷり五秒もかけてから、女はようやく白井へ目を向けると、 「探索中止。……手間かけさせやがって」  明らかに|侮蔑《ぷぺつ》を含む声で、なおかつ相手の返事を待つものでもない。白井の|眉《まゆ》が動くよりも早く、女は擦り切れた黒いドレスの破れた|袖《そで》へ手を差し入れ、何かを取り出そうとして  ———|瞬間《しゆんかん》、すでに白井黒子は女の鼻先に立っていた。  両者の間には一〇メートル以上の距離が開いていたはずだが、彼女はものの一瞬でそれをゼロまで縮めた。  女の|気弛《けだる》げな顔がほんの少しだけ|怪講《けげん》な色を見せる。  だが、白井は説明などするつもりはない。その|大能力《レベル4》『|空間移動《テレポート》』を使って虚空を渡った事など、いちいち話す必要はないのだ。  白井黒子は手を伸ばし、ほつれたレースに|覆《おお》われた女の手首を|掴《つか》む、  直後、気がつけば褐色の女の体は地面に倒されていた。痛みもなく、|衝撃《しようげき》もなく、そして何よりいつの間に倒されたのか、その覚えがない。実は白井の空間移動能力によって触れた瞬間に地面へ移動させただけなのだが、それを知らない女にとっては何か|得体《えたい》の知れない武術の投げ技のように見えただろう。  女はそれでも面倒臭そうに|回避《かいひ》行動として、地を転がって起き上がろうとするが、 「ですから———」  ドカドカドカッ疑 と、電動ミシンのような音が|炸裂《さくれつ》した。  見れば、ドレスの|袖《そで》やスカートの布地の余剰部分に一二本もの金属矢が貫き、アスファルトの地面に女を|縫《ぬ》い付けていた。 「———動くな、と申し上げております。日本語、正しく伝わっていませんの?」  |白井黒子《しらいくろこ》は静かに告げる。  これも|空間移動《テレポート》を応用した|攻撃法《こうげきほう》だ。スカートの中に隠した矢を、|狙《ねら》った座標へ|瞬間《しゆんかん》移動させているのである。並の機銃クラスの威力と連射性を持つ上、空間から空間へ瞬間移動するため|遮蔽物《しやへいぶつ》で防ぐ事もできず、流れ弾で他人を傷つける事もないという、とんでもない攻撃だった。  だが。  それを|目《ま》の当たりにしてなお、女の褐色の顔に変化はない。  ただし。  その口元だけが。能面のような顔の中、ただその唇だけが、まるで口裂け女のように真横へ細く長く音もなく、笑っている。 「な……」  かえって、白井黒子の方が|驚《おどろ》いたように|眉《まゆ》をひそめ、  不意に、彼女のすぐ後ろで、地面が勢い良く爆発した。 「……ん、です……ッ!?」  白井は驚いたが、振り返るだけの余裕もなかった。アスファルトの隆起に巻き上げられ、その体が宙に浮く。硬い地面に背中をぶつけるように倒れた彼女は、ようやく背後に目をやる。  巨大な腕。  まるで水面から顔を出した首長竜のように、アスファルトの地面から二メートル以上の長さの『腕』が生えていた。その『腕』は形こそ人のものに似ていたが、材質はアスファルトや自転車やガードレールなど、辺り一面にあるものを寄せ集めて粘土のようにこね回して形を整えた感じのもので、建物を解体する時に重機に取り付ける、鋼鉄のアームのようにも見える。  白井は慌ててその場から離れようとしたが、足首が何かに引っかかった。  地面と『腕』の付け根の近くの地面が盛り上がっていて、砕けたアスファルトが複雑に|噛《か》み合っている。彼女の足首は、ちょうどその|隙間《すきま》に挟まってしまっていた。 (……あ、ぐっ……。まさか、外部の人間のくせに……能力者、なん……?)  足首にじわじわと加わってくる重圧に、白井は顔をしかめる。  視線を投げると、地面に縫い付けられた女の手に、白いチョークのようなものが握られていた。アスファルトの上に、それを使って何か記号のようなものが刻まれている。  それは科学的な記号というより、オカルトじみた|魔法《まほう》の文字のように見える。  自己暗示を携帯電話の短縮メモリのように何パターンか用意して、能力を制御しているのかもしれない、と魔術を知らない|白井《しらい》は自分の知識のみで目の前の現象を分析した、 (ま、ずい……ですわ。とにかく、体勢を、整え……ッ!)  白井はとにかく冷静になろうと努めたが、ふと気づいてしまった。  地面から生える『腕』の付け根にある地の盛り上がった部分に、白井の足首は挟まれていた。その隆起部分は何だか、丸く見える、人の顔のように見える。 彼女の足は、まるでアスファルトの[#「まるでアスファルトの」に傍点]『歯[#「歯」に傍点]』に噛み付かれているようだった[#「に噛み付かれているようだった」に傍点]。 (ま、ず……)  白井の能力は|空間移動《テレポート》。三次元的な制約に|囚《とら》われず、自在に虚空を渡る事のできる力だ。  しかし、この能力には弱点がある。単に『空間を移動する』と言葉にすれば簡単だが、その原理は三次元の枠を超えた一一次元上にある自分の座標を計測し、そこから移動ベクトルを演算しなければならない。普通の能力者のような『炎を出せ』『雷を出せ』とは、頭の中で構築すべき|命令文《コマンド》の複雑さのケタが違うのだ。  それ|故《ゆえ》に、彼女は激痛・|焦燥《しようそう》・混乱など、平時のポテンシャルを失い計算能力を奪われるとまともに力を使う事ができなくなってしまう。  ギチギチ、と。ほんの数ミリ食い込んだだけなのに、白井の足首が激痛の悲鳴をあげた。 (あ、ぎっ……が……!?)  |空間移動《テレポート》を使えばすぐに逃げられるのに、|緊張《きんちよう》で頭が上手く回らない。  見れば、地に伏す女は、うっすらと笑いながら手首のスナップだけで白いチョークのようなものを動かしている。それに操られるように、じわじわと|肘《ひじ》の関節が折れ曲がり、『腕』の向きが変わる。地面を|這《は》う虫を押し|潰《つぶ》すため、ゆっくりと|狙《ねら》いを定めるように。  それが分かっていても、白井は行動に移せない。  激痛と死の緊張により計算能力を乱された彼女は、|空間移動《テレポート》という逃げ道を手の中に収めながら、それを使う事ができなかった。  まるで、核シェルターはあるのに扉を開ける|鍵《かぎ》をなくしてしまったように。  女が宙へ曲線を描くように白いチョークを振るうと、『腕』の五本の指が強く握られた。同時に、足首を|噛《か》む『歯』がさらに食い込んでくる。。あまりの激痛に白井は目を閉じる。  べきべきごきごき! と。  自ら封じた視界の中、何か不気味な音が大きく|響《ひび》き渡る。  それは、白井の足首の骨が噛み砕かれる音ではない。  それは、無数の|瓦礫《がれき》を丸めて作った巨大な『腕』が振り下ろされる音でもない[#「でもない」に傍点]。  それは、何者かが『腕』を切断した音だった。 (な……、え……?)  突然の|一撃《いちげき》に、|白井《しらい》はびっくりして目を開けた。 『腕』の、ちょうど手首の部分が水平に切断されていた。それを確認すお前に、白井の足首を固定していた『歯』が|薙《な》ぎ払われる。急に|枷《かせ》が外れて、彼女の体は思わず後ろへ転がった。切断された部分は、その|衝撃《しようげき》を受けた途端に結合が解け、バラバラと元の部品に戻って四方八方へ散っていた。  ブゥゥン……ッ! と、|蜂《はち》の羽音を数百倍にしたような不可思議な音が耳を|叩《たた》く。  見ると、黒い|鞭《むち》のような、何十メートルもあるレイピアのようなものが空中を泳いでいた。音はそこから聞こえる。目を|凝《こ》らすと、それは砂鉄だった。|膨大《ぽうだい》な砂鉄が、磁力か何かに操られて振動しているらしい。  いわば、超高速のチェーンソーのようなものだ。  ビュバン!! と空を裂く音と共に、砂鉄の鞭が持ち主の元へと帰っていく。 (お待ち、なさい……。磁力で、操る? まさ、か……!!)  白井|黒子《くろこ》は酸素を取り込もうとして|咳《せ》き込みながらも、視線を向ける。  そこに。その先に。  |御坂美琴《みさかみこと》が立っていた。  キン、という小さな金属音。  美琴の親指が、一枚のコインを|弾《はじ》いた音だった。コインはゆっくりと、ゆっくりと、彼女の頭上を舞っている。  彼女は言う。 「何の|騒《さわ》ぎか知らないんだけどさ———」  手首を切断された『腕』は、もはや地面から生えた、ゴミの山で作った塔と化していた。そしてその塔は自ら|倒壊《とうかい》するように、白井黒子に向かって思い切り|殴《なぐ》りかかろうとする。  だが、そお前に弾かれたコインが、再び美琴の親指へ乗った。 「———私の知り合いに手ぇ出してんじゃないわよ、クソ豚が!!」  |瞬間《しゆんかん》。  その異名、|超電磁砲《レ ルガン》の|所以《ゆえん》となる一撃が、解き放たれた。音速の三倍もの速度で加速されたコインは空気|摩擦《まさつ》で赤熱し、オレンジ色のレーザーと化して『塔』に突き刺さった。あまりの衝撃に『塔』は一瞬で折れて、|繋《つな》がっていた『頭部』を巻き込んで粉々に吹き飛んでしまう。  ゴガッ!! という|轟音《こうおん》は、一瞬遅れてやってくるほどだった。  もうもうと立ち込める|粉塵《ふんじん》のスクリーンは、しかし直後に|凪《な》いだ烈風に吹き飛ばされた。|超電磁砲《レールガン》に押し出された空気の余波だ。 (す、すごい……)  |白井《しらい》は引き続き辺りを警戒しながらも、心の大半は別の事柄に奪われていた。 (余波が生み出した烈風だけで、すでに並の風力使いを|凌駕《りようが》していますわ。一体どこまで底なしになれば気が済むんですの、お姉様ってば!)  対して、|美琴《みこと》はすでに危機は去ったとばかりにのんびりと白井の元へと歩いてくる。 「あー、|黒子《くろこ》。もう硬くならなくても良いわよ。あのでっかい手は|囮《おとり》だったみたいだから。 |超電磁砲《レ ルガン》の威力じゃなくて、自分から爆発したのよ。ほら、煙幕の陰に隠れてあの|馬鹿女《ばかおんな》がどっかに消えてんじゃない」  美琴は小さく舌を出して指を指す。  白井が見ると、金属矢にドレスを|縫《ぬ》い止められていたはずの女がどこにもいなかった。黒い布地の端だけが、こびりついた汚れのように取り残されている。 「で、あれって|誰《だれ》なの? アンタが追ってるって事は、やっぱ|風紀委員《ジヤツジメント》がらみ?」 「え、ええ。どうやら不法侵入者みたいでしたのですけど……お姉様ぁ……」  白井はそこで足から力が抜けたように、美琴へ抱き着いてきた。 「ちょっと、こら、アンタ! こんな時まで変な妄想|膨《ふく》らませて———」  美琴はワンテンポ遅れてから、胸に飛び込んできた白井をようやく引き|剥《は》がそうとする。が、力が出なかった。  白井は、美琴のサマーセーターの胸の辺りを小さく|掴《つか》んでいた。  たったそれだけの接点からでも、彼女の体が|震《ふる》えているのに美琴は気づかされる。 「ったく」  美琴は軽く息を吐いてから、考える。  こういう時、震えているのが自分自身だったら、あの少年はなんていう言葉を放つか。 「黒子。、アンタは何でも一人で解決しようとしすぎんのよ。あんなの相手にアンタが一人本気になったってバカみたいでしょ。別に一対一で戦わなきゃいけないなんてルールもないんだし」  美琴は思う。かける言葉の内容に意味はない。言葉をかけるという行為と、それを行おうという|想《おも》いにこそ意味がある。 「もっと私を|頼《たよ》れ。ヤバイ事が起きてからだけじゃなくて、少しでもヤバそうならそれだけで連絡を入れなさい。私に迷惑かけたくないなんて思わないの。状況が絶望的であればあるほど、そういう場面で頼られればそれだけ私を|信頼《しんらい》してくれてるって|証《あかし》になるんだから。私がそれを拒絶するはずがないでしょ」  ぽんぽん、と美琴は白井の頭を軽く|撫《な》でてみる。  と、腕の中にいる後輩は小刻みに震えたまま、 「……うっふっふ。これぞまさしく千載一遇のチャンスですわ。こうして近づけばお姉様の胸の谷間へと思う存分……うっふっふ。うっふっふっふっふっふ!!」 「なっ、え、あれ? ……ちょっと! ひ、人がマジメに|慰《なぐさ》めてたっていうのに! |黒子《くろこ》、アンタこの|震《ふる》えは武者震いなの!?」  |美琴《みこと》は顔を真っ赤にして絶叫したが、時すでに遅く。  |白井《しらい》黒子は彼女の背中にがっちりと両手を回すと、|愛《いと》しのお姉様の胸元へと思い切り|頬《ほお》ずりし始めた。 [#改ページ]    第二章 放週除後 Break_Time.      1 「おー。とうま、これがウワサの地下世界なんだね」 「地下街な、地下街」  はしゃぐインデックスに、|上条《かみじよう》は寝不足のローギアのままツッコミを入れる。  学園都市には地下街が多い、駅を中心として、各デパートの地下を|繋《つな》げ、迷路のように展開されている。駅前の大通りほどではないが、ここにも多くの学生|達《たち》が行き来していた。  警備ロボットや風力発電システムと同じく、この地下街も学園都市の試験品だ。土地不足でなおかつ|地震国《じしんこく》である日本では、世界最高レベルの地下建設技術が求められる。そのための実地テストの一環として、学園都市のあちこちが掘り返される羽目になったのだ。  上条がここを遊びの場に選んだ理由は特になく、単純にインデックスが地下街というものを知らなかったため、というものでしかない。 「とりあえずメシでも食いますか。インデックス、なんか希望とかあるか? あー、高いトコと行列ができるトコは禁止な」 「そんな所行かなくても良いよ。安くて|美味《おい》しくて量が多くてあまり人に知られていないお店がいい」 「……、それはそれで捜すのが難しそうだけどな。|風斬《かざきり》はフ・」  上条はそう言って風斬の方を振り返ったが、|何故《なぜ》か彼女はびくっと肩を|震《ふる》わせてインデックスの陰に隠れてしまう。 「あー……」  なんかやったのか|俺《おれ》は、と上条が心の中で|呟《つぶや》くと、 「……あ、いえ……ごめん、なさい。怖い、とかじゃないんですけど」風斬は物陰からうかがうように、「……その、ハダカも、見られたし……」 「は?」最後の辺りが良く聞こえなかった。 「え、っと……いえ、何でも、ありま、せん。でも……見られたし……見られたのに、この、やたらと|薄《うす》い反応は……えっと……」  ほとんど口の中で眩いてるため、上条にはさっぱり聞き取れなかった。まあ、|一緒《いつしよ》に遊んでいる時点で嫌とか怖いとかはないだろうが、それにしてもこの他人|行儀《ぎようぎ》な警戒感は一体何なんだろうか?  と、インデックスの方は|風斬《かざきり》の言わんとしている事が分かっているのか、やや冷たい目で、「まったく、とうまは目が怖いんだよ」 「あん? どこがだよ」 「その|獣《けもの》のような目が。|虎視眈《こしたんたん》々と婦女子を付け|狙《ねら》うその目がっ。|普段《ふだん》は人畜無害ですよーと主張しておきながら|美味《おい》しい所は一片たりとも|逃《のが》さんと|黙《もく》して語るその目が怖いっ!」 「テメェがそういう事を吹き込むから|無駄《むだ》に怖がるんだろうが!」  |上条《かみじよう》が叫ぶと風斬の肩が反応するようにピクンと|震《ふる》えた。彼女はインデックスの陰に隠れたまま、恐る恐るといった感じに、 「……あ、あの……」 「ほらとうま! とうまが|吼《ほ》えるからひょうかが怖がってる!」 「あーはいはい! そうですねそうですね! じゃあいいよもう獣で! ただし獣を公認するからには本格的に獣になるぞ! バッド上条の真の姿に|刮目《かつもく》せよッ!!」 「……あの、怖いとか……そうじゃ、なくて……お昼ご飯……」  消え入りそうな風斬の声に、半ばヤケクソのように|騒《さわ》いでいた二人はピタリとロゲンカを|止《や》める。そして同時に彼女の方へ振り返る。  風斬|氷華《ひようか》はどこかを指差している。  その先を視線で追うと、一軒のレストランがあった。      2 「がくしよくれすとらん?」 「そう、学食レストラン」  地下街に入った時と同じく、良く分からない顔をするインデックスに上条は言葉を返す。  上条|達《たち》三人は、ごく普通のファミレスのようなお店に入っていた。四人掛けのテーブルに、上条とインデックスが向かい合うように、風斬はインデックスの|隣《となり》に座っている。  ちなみに、|三毛猫《みけねこ》はインデックスの|膝《ひざ》の上だった。飲食店なのでお断りされるかと思ったが、猫は|大丈夫《だいじさつぶ》らしい。何だと思ったら普段使っているペット同伴オーケーのファミレスと同じ系列の会社だった。 「学園都市って大小無数の学校があるだろ。だから街中の学食のレシピの|美味《うま》いトコを集めただけで一軒の店が|賄《まかな》えちまうんだよ。ま、学食レストランっつっても給食も混じってるけど。 |他《ほか》の学校では何食ってんだうっていう疑問もこれで解消という訳」 「む。とうま、そもそも学食とか給食って何?」  インデックスは挑むように、画板みたいに巨大なメニューを|睨《にら》みながら、そんな事を言う。  実は|記憶《きおく》喪失である上条にも、義務教育中の給食に覚えはない。が、頭の中に知識だけは残っているので、大体どんなものかは分かっているつもりだ。 「平たく言っちまうと、あれだ。学校でしか食べられない料理の事だ」 「す、すごい。限定商品というヤツだね!」 「……、あー。なんかもうそれでいいや。レアだぞレアー」 「あの……説明が、面倒臭いからって……放ったらかしにするのは、どうかと……」  寝不足でツッコミ分が不足している|上条《かみじよう》に代わって、|風斬《かざきり》が腰の引けたτ三口を付け加えるが、インデックスの耳には届いていないらしい。彼女は新聞を読む父のように|馬鹿《ばか》でかいメニューで顔を隠すと、目線だけをその上から出して、上条の顔を|窺《うかが》う。 「とうま。これ何でも選んじゃってもいいの?」 「あー、高いのは禁止な」  上条は適当に釘を刺したが、しかし大して心配していなかった。何せこの店のメニューの元ネタは学食や給食である。そうそう高いはずがない。  と、インデックスはメニューをテーブルの上ヘパタンと倒すと、上条にも良く分かるように料理の写真の一点を指差す。 「私はこれがいいかも」 「んー? どれどれ」  上条はインデックスの自く細い指の先を視線で追う。するとそこには、  |常盤台《ときわだい》中学給食セット 四〇〇〇〇円 「……、」  上条は無言でメニューを閉じると、その角でインデックスの頭を引っ|叩《ぱた》いた。 「痛ったあ!? どうしていきなり人の頭を|叩《たた》くの!」 「言ったはずだ、高いものは禁止だと! ってかツッコミ待ちじゃなかったのか今のは!」  あのビリビリ、なんて食生活を送ってやがる、と上条は心の中で絶句する。恐る恐るメニューをもう一度開いてみると、フォーマルな服装でご来店くださいという感じのコース料理の写真がキラキラと光を放って写し出されている。 「……あ、あの……私はこっちがいい、です……」  と、ぎゃあぎゃあと|騒《さわ》ぐ上条とインデックスの横から、風斬|氷華《ひようか》はメニューの同じページにある料理を指差した。  そこには、妙に質素なコッペパンと牛乳に代表される、ごくごく普通の給食の写真が。  インデックスの後だったせいもあるだろうが、不覚にも上条はちょっぴり感動した。 「ほら見なさいインデックス、これが優等生の答えというものだ」 「えー、ひょうかの好みはちょっと地味かも。私はもっと派手派手なのが食べてみたい」  ぶーぶーと文句を垂れるインデックスに|上条《かみじよう》は重たいため息をついて、 「食べ物は見た目じゃなくて味で選ぼうな、インデックス。あと、どさくさに紛れて|風斬《かざきり》に|常盤台《ときわだい》中学のセットをオススメしてんじゃねえバカ! 風斬も地味とか言われて本気でへこんだり考え直そうとしたりしなくても良いから!」  上条が思わず叫ぶと、風斬はびっくりしたらしく、巨大なメニューを|掴《つか》んで自分の顔を隠してしまった。どうやら好感度ゲージは地の底まで下がった模様。今からフラグを立てるのは絶望的らしい。  しばらく待つと、三人分の料理が運ばれてきた。  内容は紙パックの牛乳、コッペパン(オプションでマーガリン)、肉じゃが、サラダ、鶏の唐揚げ、デザートにはカップのヨーグルト。給食当番スタイルのウェイトレスさんの話によると、和洋こっちゃの|無国籍《むこくせき》が給食の売りだとか。本来の給食より若干値段が高めなのは、レシピは同じでも食材に違いがあったり、大量生産によるコスト削減が行えないためらしい。 「さってと。そんじゃいただきますか。そういや風斬、このメニューが食いたかった理由とかってあんの? ヨーグルトが大好物とか」  メニューが学校ごとに分類されるこの店では、食べ物の内容以外でもメニューを選ぶ理由が生まれてくる。例えば、合格できなかった志望校のメニューが食べてみたいなど。  が、風斬は特にそういった思い入れはないらしく、首を横に振ると、 「……あ、あの、私……こういう所で、ご飯食べた事、なかったから……」 「ふうん。今まで給食のない学校ばっか通ってたのか」 「えっと……はい」  |何故《なぜ》か申し訳なさそうな顔をする風斬を見ながら、内心上条は、 (給食に縁がないって事はいつもお昼はお弁当だったのかなとすると自炊派かそれとも|寮《りよう》の方でお弁当のサービスでもやってるのかいいなぁ弁当いいなぁ学食の食料争奪戦を横目に優雅なお食事ですよあーウチの寮も朝何もしなくても弁当が用意されてるようなサービスやってねーかな待てよそれならウチに|居候《いそうろう》の女の子がいるじゃんインデックスにお願いするのは……|駄目《だめ》か駄目だなああ駄目だ電子レンジの使い方も分かんない女の子に料理ができるとでも思ってんのかい|俺《おれ》?)  えっへっへっへ、と暗い笑みを浮かべる上条の周囲に負のオーラが立ち昇る。 「……あ、え、その……何か、目が……怖い、です」 「ひょうか。あれはとうまの病気みたいなものだから、優しい目で見守ってあげてね」      3  黒いドレスの女は街を歩いていた。  その名をシェリー=クロムウェルという。イギリス清教の対|魔術《まじゆつ》部隊『|必要悪の教会《ネセサリウス》』のメンバーにして、カバラの石像の使い手でもある彼女は、口元に笑みを含みながら|雑踏《ざつとう》を行く。  あちこちの破れた、レース満点のドレスというその異様な格好が周囲の視線を集めるかと思いきや、学生|達《たち》の反応に目立ったものはない。むしろ、服装よりも年齢の方が気になるようだった。住人の八割が学生であるこの街にとっては、ゴシックロリータよりも二〇代後半という年齢の方が|際立《きわだ》つらしい。 「———まずは、原初に土」  シェリーは歩きながら、歌うように一人|呟《つぶや》く。  そのドレスの破れた|袖《そさ》から、白いチョークのようなものを取り出した。聖別した塩を聖油で固めて作った、魔法陣作製のためのオイルパステルだ。 「———神は土より形を作り、命を吹き込み、これに人と名をつけた」  歌いながら、シェリーは手近にあるジュースの自販機にオイルパステルを走らせる。まるで抜刀術のような速度で書き|殴《なぐ》られたものは、文字と模様の中間のように見えた。 「———その秘法はやがて、地に落つる堕天によって人へと口伝される」  ガードレールに、街路樹に、清掃ロボットに、風力発電のプロペラの支柱に……シェリーは進路上にある|全《すべ》てのものへと、すれ違いざまにオイルパステルを走らせる。 「———しかしてその|御業《みわざ》は入の手に成せるものにあらず、また堕天の口で正しく説明できるものにもあらず」  七二ほど印を刻むと、最後に彼女は宙にオイルパステルを走らせ、 「———かくして人の手に生み出されし命は腐った泥の人形止まり、と。さて、泥臭いゴーレム=エリス。私のために、笑って使い|潰《つぶ》されな」  最後にパン、と手を打った。  |瞬間《しゅんかん》。  ぐじゅり、という|膿《うみ》を潰すような音が周囲から|響《ひび》いた。それも一つや二つではなく、何十もの。その音は小さかったため、雑踏を歩く学生達は自らが出す話し声や足音のせいで耳まで届いていない。  だが、変化は確実に訪れる。  ジュースの自販機、ガードレール、街路樹、清掃ロボット、風力発電のプロペラの支柱シェリーが刻んだ落書きの全てが、泥が泡立つように、ピンポン玉ぐらいの大きさに盛り上がる。彼女の魔術は材料を問わない。その場にあ。るあらゆるものが彼女の武器となる。  ピンポン玉の表面に|亀裂《きれつ》が走り、|横一閃《よこいつせん》に引き裂かれる。  まるで皮を|剥《む》いたぶどうの実のように中から|覗《のぞ》くのは、白く|濁《にご》った眼球だった。  シェリーは葉書サイズの黒い紙を取り出す。 「自動書記。標的はこいつでいいか。……かぜ、かざ……何だこりゃ? この国の標準表記は象形文字なの?」  白いオイルパステルが一閃し、黒い紙の上に|殴《なぐ》り書きのような文字が走る。シェリーは漢字が良く読めなかったが、頭の中の情報を『文字』ではなく『絵画』として処理し、似顔絵を描く感覚で書き殴ってしまう。 びん、と指で|弾《はご》くように、シェリーは葉書サイズの黒い紙を手放す。フリスビーのようにくるくると回転する黒い紙は、ゆっくりと地面に着地した。  その紙には、『風斬氷華』と書かれていた。  まるで鉛筆でノートに書いた文字をネガ反転させたような黒い紙に、何十とある泥の眼球がわっと押し寄せた。小さな紙切れを|噛《か》み|千切《ちぎ》り、食い破り、泥の体内へと収めていく。ものの数秒もかからない内に黒い紙は跡形もなく消えていた。  そうして細かい紙片を取り込んだ無数の眼球|達《たち》は、固まったゴキブリが逃げ出すような動きで四方八方へと散っていった。ある者は地面の上を泳ぎ、またある者はコンクリートの中へと|潜《もぐ》っていく。ぎょろぎようと、その大きな目玉をせわしなく動かしながら。 「あまり待たせんなよ。エリス」  シェリーは笑って、|雑踏《ざつとう》の中へと消えていった。      4  食事を終えると、|上条《かみじよう》達三人は店の外へ出た。  インデックスは初めて食べた給食の味を思い出しながら首をひねって、 「|不味《まず》くはないけど|美味《おい》しくもなかった。うーん、どういう事なのかな。この胸の内に残る、微妙に欲求不満気味なモヤモヤは……」 「毎日食うために作られたメニューだからな。|美味《うま》い不味いより飽きられないように工夫してんだろうさ。豪勢なフルコースなんて毎日食ったら一週間で吐いちまうだろ」  インデックスは|顎《あご》に人差し指を当て、頭上を見上げて何か物思いにふけった後、 「フルコースなら、吐くほど食べても良いかも」 「……、まーな」  上条は投げやりな感じで答えた。  時刻は午後一時過ぎといった所で、地上は現在、炎天下の|灼熱《しやくねつ》地獄と化している事だろう。 地下街は空調が効いているためほどよい室温を保っているが、こうなってくると逆に|陽《ひ》の光が |和《やわ》らぐまでは地下から出たくない気分になってしまう。  |風斬氷華《かざきワひようか》は、そんな二人の顔色を|窺《うかが》うように、言う。 「……あ、あの……これから、どこで遊ぶの…-?」  敬語でないという事は、インデックスに話しかけたのだろう。 「分かんない。とうま、そもそも地下街っ。て何があるの?」  インデックスにしてみれば、地下街の通路に立っているだけで新鮮気分を満喫できるのだうう。特に不満も何もなく、主導権を|上条《かみじよう》に明け渡してしまう。 「うーん。地下街だと、ゲーセンとかになっちまうのかな?」  |騒音《そうおん》対策を兼ねているのか、学園都市の地下にはやたらとゲームセンターが多い。  上条はそんな事を考えながら歩いていると、ちょうど一軒のゲームセンターの横を通りかかった。  店の中から流れてくる電子音の洪水に、インデックスは目を丸くする。 「うわっ、うわっ、何あれ?なんかテレビがいっぱい置いてある!」 「あー、テレビじゃねーんだけど……まあいいかテレビで。細かい事は気にしたら負けって方向で。てれびてれびー」 「……、あの……だから、投げっ放しは……」  一口にゲームセンターと言っても、大きく分けて二種類ある。 『外部系』と『内部系』だ。  外部系は学園都市の外からゲームを入荷しているお店で、内部系は学園都市の中で開発したゲームを取り扱っているお店を指す、  学園都市は外の批界に比べて文明レベルが二、三〇年は進んでいて、それはゲーム機にも当てはまる。だが、外の世界にある一般のゲーム会社はその技術についていけないため(また、技術も外に開放されていないため)、最新型のゲーム|筐体《きようたい》を開発しても、ソフト不足になりがちなのだ。  上条|達《たち》が見つけたのは『内部系』の店で、ゲームセンターというよりは屋内型アミューズメントパークといった感じに近い。最新技術を投入して作られた体感用の大型筐体が並ぶ店内ば、科学ショーなどの展示コーナーのようにも見える。  大抵、この手のゲームは採算度外視で大学の研究チームが作ったりしている。簡単に言うと、ここで人気の高かったゲームを作った研究室には多目の開発費が割り振られるシステムになっているため、妙に気合いの入った作品が多い。もっとも、気合いを入れる方向性を間違ってしまっている|馬鹿《ぼか》ゲームも多いのだが、 「す、すごい。なんかピカピカしてキラキラしてバキバキ音が鳴ってる! と、とうま。私はあそこに行ってみたい! あのピコピコを体験してみたいかも!」  インデックスにせがまれるようにして、三人は店内に入る、ガラスの自動ドアをくぐり抜けた途端、音の洪水の威力が二、三倍に|膨《ふく》れ上がった。  店内には特殊な大型ゲームがたくさん並んでいた。ハイビジョンや3Dゴーグルを使用したヴァーチャルリアリティ系のゲームはもちろん、ガンアクションのゲームは心拍数や脳波を計って『|腰抜け《チキン》度』が表示されたりといった変則的なゲームも|揃《そろ》っている。 「インデックス、なんかやりたいゲームとかってあんの?」  |上条《かみじよう》は何気なく聞いてみたが、返事がない。  不審に思って彼がインデックスの顔を|覗《のぞ》き込んでみると、彼女の動きが止まっていた。その目はとてつもなく幸せそうにキラキラギラギラと光り輝いていた。 「あ、やばい……」  上条は思わず|呟《つぶや》いた。  この異様な食いつき方は、|三毛猫《みけねこ》に初めて出会った時と良く似ている。インデックスは勢い良く上条に向かって振り返ると、 「全部! 全部やる!! とうま、とうま! まずはあれからやってみたいかも!!」  抑えきれなくなったのか、インデックスは上条の腕を|掴《つか》んでぐいぐいと進んでいく。行く先には円形フィールドの中で|椅子《いす》に二本足がくっついたような歩行ロボットを乗り回すゴーカートゲームが待っている。  こうなったインデックスは|誰《だれ》の説得にも応じない。  上条はお財布の心配をしながら、心の底からため息をつく。ふと横を見ると、|風斬氷華《かざきりひようか》が気の毒そうな笑みを浮かべていた。      5 「あっはっは! うーん、上条かあ。いーな!|月詠《つくよみ》センセのクラスは面白いガキどもに恵まれてんじゃん! ウチはつっまんねえ優等生ばっかだからやんなっちゃうじゃんよ!」  がらんとした放課後の職員室で、|黄泉川愛穂《よみかわあいほ》は口を大きく開けて思い切り笑った。  長い黒髪を後ろで|縛《しば》った彼女は大人の色気全開で、堅苦しい灰色のスーツでも着ればあっという聞に英語担当エロ教師の出来上がり、という感じだったが、|生憎《あいにく》と彼女は体育拒当で年中緑色のジャージを着用していた。ありとあらゆる意味を込めてもったいない女性である。  黄泉川は両手を腰に当てると、下手すると片方が|小萌《こもえ》先生の頭ほどもある胸を大きく張って、「いやー、それにしても部外者の女の子を校内に招き入れて秘密のお茶会ときましたか! 楽しいじゃんそれ。ウチのクラスでもそんぐらいの|無茶《むちや》してくれるガキはいないもんかね。そういうヤツなら先生も|遠慮《えんりよ》なく|可愛《かわい》がってやろうじゃんってのに」  ちなみに彼女は|警備員《アンチスキル》の一員で、可愛がるという言葉には多少、昔気風な体育会系の暴力トーンが含まれる。たとえ暴走した相手が|大能力《レベル4》の|発火能力者《パイロキネシス》だろうが決して生徒に武器は向けないというのが彼女の誇りらしいが、機動隊が使うような特殊素材のヘルメットやらポリカーボネイドでできた透明な盾やら(本人談・あくまで防具じゃん♪)で暴走能力者をどつき回すノリは『あれはシリアスをコミカルに始末する女だ』と呼ばれるほどである。  と、平和主義な|小萌《こもえ》先生はそんな暴力教師を追力のない目で|睨《にら》み付けると、 「もう! 大体ですね、部外者を校内に入れちゃった|警備員《アンチスキル》にも問題があるのですよ! 入ってきたのがあの子|達《たち》じゃなくてもっと危険な人達だったらどうするつもりだったんですか!それから|上条《かみじよう》ちゃんに手を出しちゃダメなのです! あんまり頭を|叩《たた》かれたら取り返しの付か。ないおバカさんになってしまうのです!」 「あーあーはいはい冗談だって冗談じゃん。ウチだって良い|馬鹿《ばか》と悪い馬鹿の分別ぐらいはつきますよーだ。ったくあれじゃん、センセは相変わらずクラスの生徒に入れ込むクセが直ってないようじゃん」 「なっ、い、いいいい入れ込むなんて紛らわしい表現はやめてください! せ、先生はですね、ただ、その、保護者の皆さんから大切なお子さんをお預かりしている以上はですね!」 「あー泣くな。こりゃあ卒業式ではボロボロ泣くな」 「ぐっ……ぅぅううううううう!! い、良いじゃないですか泣いたって! 毎年毎年、勝手に涙が出てしまうのですから仕方がないのですよーっ!」  あっはっはーよしよし、と|黄泉川《よみかわ》が小萌先生の頭を|撫《な》でまくると、小萌先生は両手をぐるぐる振り回してその手を振り払った。 「時にセンセ。例の部外者。二人いたじゃんっていう話なんだけど……」  黄泉川の言葉に、小萌先生はピクリと反応した。  |近頃《ちかごろ》の学校では敷地周辺に防犯カメラなどが設置されている場合も多く、不審人物がいれば身元を調べられても文句は言えない。  ちなみに、小萌先生はインデックスの事は詳しく調べないで良い、と職員室で報告していた。 あの白いシスターとは面識があるため部外者とは呼べないし、何やら入には言えない事情を抱えているらしき事も推測できたからだ。 「それが、どうかしたんですかー?」 「うんにゃ。一つだけ確認しときたくてね。果たして本当に二人いたのかなって[#「果たして本当に二人いたのかなって」に傍点]」 「???」  訳の分からない言葉に小萌先生が首を|傾《かし》げた|瞬間《しゆんかん》、規則的なノックと共に職員室の扉が開いた。黄泉川はパチリと片目を閉じて、 「ちょろっと厄介な問題かもしれんから生徒さんには|内緒《ないしよ》って事で。そんじゃ報告はまた今度。 ま、こっちもこっちで色々立て込んでるし」 「ありゃ、なんか用事とかあるのですかー?」 「あー、これも生徒さんには内緒なんだけど、まあいっか。|警備員《こつち》のお仕事でね。これからデカイ捕り物があるじゃん。そんなこんなでちょっくら地下街までお散歩です。そんじゃーねーん♪」  言うと、|黄泉川《よみかわ》は職員室に入ってくる女生徒とすれ違って外へ出て行く。  |小萌《こもえ》先生は不思議そうな顔をしたままだったが、やがて入ってきた女生徒の方へ意識を移した。 「|頼《たの》まれてきたものを。持ってきた」 「あー、|姫神《ひめがみ》ちゃん! ご苦労様ですー」  人の出払っている職員室で、小萌先生は|椅子《いす》に座ったまま|嬉《うれ》しそうに手をパタパタと振る。  今日は始業式で半日授業なので、今は部活動の生徒や|顧問《こもん》の教師以外の人間はいない。小萌先生は例外だった。友人のレポート作成を手伝うため、学校に残って作業をしていたのだ。 (職員用『ランクB』端末って学校にしかないのですよねー。まったく、家の方でも端末登録できれば作業もはかどるのにですよ)  学園都市のネット端末はランク付けされていて、ランクによってアクセスできる情報に差が出てくる。自宅で作業したい人間にとっては、あまり嬉しくない制度だった。 「すみませんー。ホントは学生さんに仕事を頼むのは良くないのですけど、どうしても手が離せなくてですねー」 「いい。それよりこの専門書で合っているの? 私はアパートにいっぱいあった本が全部同じように見えるから。少し不安」 「うんうん。これですこれこれ。、合ってますよー」  小萌先生は姫神から受け取った革張りの分厚い本に|頬《ほお》ずりしながら答える。表紙には金文字で『AIM拡散力場とその可能性』と|箔押《はくお》しされている。 「えーあいえむ、何それ?」 「あはは、|上条《かみじよう》ちゃんとおんなじ質問してますねー」小萌先生はにこにこと笑いながら、「AIM拡散力場とは、能力者が無意識の内に全方位へ放出してしまう、微弱な力の事ですよー」 「……」  姫神は少し|黙《だま》った。  無意識の内に外へ放たれる力。姫神にとっては『吸血鬼を招き寄せる死の|匂《にお》い』こそがそれに当てはまるのだろう。  小萌先生は、|沈黙《ちんもく》する姫神の微妙な表情の硬化に気づかないまま椅子の背もたれに体を預け、「あー、姫神ちゃん。今日はごめんなさいでした。始業式をぶっち切った上条ちゃんをお説教するためとはいえ、ホームルーム|他《ほか》の先生に任せちゃって。いきなり知らない人だらけの所へ放り込まれて不安じゃなかったですか?」 「|大丈夫《だいじよヒつぶ》。問題なかった。それより。上条は何をやらかしていたの?」 「そうですそうそう! 聞いてくださいよ姫神ちゃん! 小萌先生はですね、シスターちゃんを追い駆けたっていうだけならまだ許せたのですよ。なのに、あろう事か上条ちゃんってばシスターちゃんの|他《ほか》にも女の子を連れて食堂でおしゃべりしていたのです!」  他の女の子、というフレーズに|姫神《ひめがみ》の目が鋭くなる。  校門の前で、インデックスと|一緒《いつしよ》にいた少女の姿が脳裏に浮かぶ。 「それ。どんな格好の人?」 「気になるのですかー? むふふ」 「……」  姫神が無言で答えると、|小萌《こもえ》先生の笑みがちょっぴり引きつった。 「う、うーんと。ずれメガネと頭の横から飛び出した髪が印象的な女の子でしたけど。あと制服がウチのとは違って|半袖《はんそで》ブラウスに赤ネクタイ、青いスカートですー。なんか、線が細いというか周りに気を遣うタイプというか、そんな感じでしたねー」  その答えに、姫神は視線を外して一人思い出す。  あの少女は、一体どんな名で呼ばれていたのかを。 「小萌先生」 「は、はい?」 「この学校に。|風斬氷華《かざきりひようか》っていう生徒はいる?」      6  店内を|大雑把《おおざつぱ》に一周しただけで、八〇〇〇円も使ってしまった。 「ふー。あー面白かった。とうま、私はもう満足満足かも」 「……、あい。|上条《かみじよう》さんももういっぱいいっぱいですよ? ねえ三毛猫《みけねこ》。今日から|俺達《おれたち》のご飯は三食残らず食パンの耳になるかもしんないけどオッケーかい?」  上条はぐったりしながら問いかけたが、三毛猫は『ふぎゃあ! しゃああ!!』と蛇の|威嚇《いかく》みたいな鳴き声をあげて断固としてこれを拒否する。 「とうま、とうま。次は何して遊ぶの?」 「……、ちょっと休ませてくだせえ」 「とうま、もう一周してみる?」 「やめてください! それやったら間違いなく破産しますから!!」  上条は絶叫する。  と、タイミングを見計らうように、上条の携帯電話がひび割れた着メロを流し始めた。性能が悪いのではなく乱暴に扱っているためスピーカーの調子がおかしいのだ。もっとも、彼の愉快な夏休みを知る者ならば、動いているだけでも上出来だと思う事だろう。  |上条《かみじよう》は携帯電話の画面を見る。メールではなく通話らしい。番号は見慣れなかった。彼がインデックス|達《たち》に背を向けて携帯電話を操作し始めると、|風斬《かざきり》は何かを察したのか、 「……ちょっと、ジュース……飲みに行かない?」 「え?だったらとうまも|一緒《いフしよ》に——」 「彼の分も、買ってくるの……」  風斬は言いながらインデックスの手を|掴《つか》んで、上条から離れるように歩き出した。上条は一度だけ空いた手で軽く謝るようなジェスチャーをしてから、もう片方の手で器用に財布の中から小銭を取り出すと、風斬に向かって投げた。彼女はややびっくりして飛んできた小銭を受け取る。  上条は彼女達の後ろ姿を見送ってから、意識を携帯電話の方に集中した。  が、せっかくインデックス達に席を外してもらったのに、スピーカーからの声は雑音がひどすぎてまともに聞き取れない。 『ザもしも、し……ザザ———聞、こえ……ひ、めがみ……だけど———』  おまけにここはゲームセンタして、周囲は電子音の洪水に|呑《の》み込まれている。 『———……そ、こに…ザ、——風…氷、華———ザザ…いる? ザ、ザザ……大へ…ん…な事……分かっ———ザザザざざザざザザ!!』  ブツン、といきなり通話が切れた。  かろうじて少女の声らしいという事は分かったが、それだけだった。どこかで聞いた事があるような気もしたが、あんな雑音混じりでは判別できない。 「地下街、だもんなあ……」  地下にも携帯電話用の設置アンテナはあるが、逆に言えばアンテナから少しでも離れると携帯電話は使えなくなってしまう。 「結局、何だったんだ?」  上条は首をひねりながら、携帯電話を折り畳んでポケットへ突っ込んだ。 「とうまは怖い人じゃないんだよ?」  ゲームセンターの奥にある、自販機コーナー兼喫煙コーナーでインデックスはそんな事を言った。風斬|氷華《ひようか》はメガネの奥から彼女の顔を見て、 「……え?」 「だから、ひょうかはビクビクしてるけど、とうまは|大丈夫《だいじようぶ》だよ」 「あ……うん」風斬は少しだけ|傭《うつむ》いて、「……違うん、だよ? ……怖いとか嫌だとか、そういうのじゃ、ないの……」 「???」 「……私も良く分からないの……。何か……静電気が、いっぱい|溜《た》まってる……セーターに触ろうとしているみたいな、感じで……」 「ふうん」  インデックスは適当に|頷《うなず》いた。そもそも彼女は『せーでんき』というものが分からない。|風斬《かざきり》はそんな彼女に困ったような顔を見せて、 「……男の人と、話すのは……これが初めてだから、かもしれないけど……」  少しだけ、そこで二人の会話が途切れた。  ややあって、風斬は話題を変えるように、 「それにしても……さっきのゲーム、面白かったね。……あなた、いっぱいはしゃいでいたし……」 「ひょうかこそ楽しそうだったよ。ひょうかはこういう所に良く来るの?」 「ううん……私も初めて」  風斬は苦笑しながら、財布を取り出して一〇〇円玉を何枚か手の上に乗せる。 「あなたは……何が飲みたい?」 「うっ。もう私は自販機なんかに|頼《たよ》りたくないかも。あんなの私に操作するのは無理だよ。ひようかがやって」  口を|尖《とが》らせるインデックスに、風斬は苦笑いした、どうもインデックスは、まだ学食の食券販売機で打ちのめされた事を気にしているらしい。「……私、初めてだから……、どれが美味しいか、良く分からないの……。私が押すから、あなたが選んで」 「ひようか、ジュース飲んだ事ないの?」  インデックスは何気なく聞き返した。彼女がここで引っかかりを感じなかったのは、現代的な知識が欠如している部分があったからだろう。  対して、風斬|氷華《ひようか》は|普段《ふだん》どおりの口調で、もう一度言った。 「……うん。今日が初めて[#「今日が初めて」に傍点]」      7  |上条《かみじよう》は携帯電話の相手について首をひねって思いを巡らせていたが、ふとその考えを断ち切った。いつまで|経《た》ってもインデックス|達《たち》が戻ってこない事に気づいたのだ。。 (迷子……な訳ねーよなあ)  彼は常識的にその可能性を否定したが、冷静に考えるとインデックスも風斬も少し常識から外れているような気がする。念には念を、という訳で上条は彼女達を捜してみる。 「うおーい。インデックス、風斬?」  上条は辺りをキョロキョロと見回しながら店の奥へと歩いていく。内部系ゲームセンターは一台が乗用車ほどもある大型サイズのゲーム|筐体《きようたい》が並んでいるため、あちこちに死角がある。 彼はそれら大型グームの陰を|覗《のぞ》き込むように移動しながら、時々順番待ちをしている学生|達《たち》に|睨《にら》まれたりしつつもインデックス達を捜し続ける。  そうこうしている内に、ジュースの自動販売機が三台ぐらい集中している休憩所に|辿《たど》り着いてしまった。 (ありゃ? |風斬《かざきり》はジュース買いに行こうって言ってたと思ったんだけど……行き違いになっちまったか?)  |上条《かみじよう》は少し困ったような顔をして周りを見渡したが、  ふと、彼の横をバニースーツを着た五人ぐらいの女子高生が通り過ぎて行った。 「はあ?」  ビクゥ!! と|衝撃《しようげき》映像お前に上条は思わず肩を|震《ふる》わせたが、当の彼女達は何食わ譲顔で店内を歩いている。やがて、やや古い感のあるプリントシールのゲ!ム筐体に集まっていくと、笑顔で写真を撮ったりしていた。 (??? な、何だありゃあ? ああいう服の貸し出しサービスでもやってんのか?))  よくよく見てみると、バニースーツらしき格好のあちこちにリボンやら肩パーツやらがくっついている。よく分からないが、そういうキャラクター衣装なのだろう。パッと見で何をモチーフにしたかすぐ分かるデザインとあからさまな肌の|露出《ろしゆつ》を考えると、案外子供向けのアニメの女性キャラかもしれない。  当人達は楽しんでいるらしいからそっとしておこう、と上条は視線を|逸《そ》らす。この辺りにインデックス達がいる様子もないし、一度出入り口かカウンターにでも行ってみようか、と彼はきびすを返そうとしたが、  ふと、耳に聞き慣れた少女達の声が届いた。 「……えっと、あの……もう一度尋ねるけど、本当に、やるの……?」 「やるってやるやる。うわすごい! |超機動少女《マジカルパワード》カナミンのドレススーツがある!」 「あの……それ、着るの……?」  間違いなくインデックスと風斬|氷華《ひようか》の声である。どこだどこだどこからだ? と上条が首を巡らしていると、どうも三台並んだ自販機の向こうかららしい。 (?)  上条は|眉《まゆ》をひそめながら自販機の裏手に回ってみる。と、陰に隠されるように、カーテンで仕切られた試着室らしきものを発見した。割と粗雑な扱いを受けているのか、何かカーテンレールが斜めに|傾《かし》いでいる。カーテンの布地もやや汚れた感があった。  声はそこから聞こえてくる。 「でも、これは|小《ち》っちゃすぎて着られないかも。ここにある服ってみんな赤ちゃん用なのかな」 「ん。その、腰の所にある……ダイヤルを、回すの。それで、サイズが変わるはずよ」 「へ? あ、うわっ? 何これ、いきなり服が大っきくなったかも!?」 「えっと……形状|記憶《きおく》、とは、少し違うかな。……エアを使っているんだと思う。布を作っている糸が……パイプ状になっていて、そこに空気を通して|膨張《ぽうちよう》させて、服のサイズを貞由に変える事が、できるの。……確か、そんな理屈だったと思ラ、けど」 (あれ、待てよお前にもなかったかこんな情景)  |上条《かみじよう》の本能が記憶を検索する。そう、確かに似ている。いなくなったインデックスを捜して、ようやく見つけて、ドアを開けたら全裸でご対面。学校の保健室でそんな事がなかったか。  試着室の前まで上条は歩いて行き、仕切りのカーテンの前で立ち止まった。おそらく確実にあの二人だろうが、人違いだったらやだなあと思いつつ声をかけた。 「インデックス、そこか?」  |瞬間《しゆんかん》、『ひぁ!?』『きゃあ!!』という、いきなり服の中に氷を放り込まれたみたいな短い悲鳴が返ってきた。 「とっ、とととととうま! なに? そこにいるの!?」 「えっと、あの……今、開けてもらうと困ります。……その、すごく!」  切羽詰まった声だった。カーテンで仕切られているものの、やはり着替え中に男から話しかけられると|焦《あせ》るものらしい。特に|普段《ふだん》は|蚊《か》の泣くような声しか出さない|風斬《かざきり》が大声を張り上げている辺り、彼女は現在、完全無防備かそれに近い状態にあるようだ。 「オーケー、上条さんは保健室の二の|轍《てつ》は|踏《ふ》みませんの事よ。今カーテンを開けるのはヤバイ、うっかり転んでカーテンの向こうとかに|突撃《とつげき》するとさらにヤバイ。りょーかいりょーかい、上条さんは一度こっから|撤退《てつたい》する」 「あ、うん。分かった、とうま。また後でね」 「……えっと、私は……着替えた姿も、見ないでいてくれた方が……」  二人の声を聞きながら、上条はそーっと後ろ歩きで三メートルほど離れてみた。異常なし。、試着室のカーテンは鉄壁のようにインデックス|達《たち》をガードしている。良かった良かった何も起こらなくて、と上条は胸をなでおろして試着室に背を向けようとしたが、  すとん、と。  何の前触れもなく、いきなリカーテンが真下に落ちた。 「は……?」  元々、乱暴な扱いを受けて斜めに|傾《かし》いでいたカーテンレールが外れてしまったのだ。。まるで布で|覆《おお》った豪華商晶を紹介する時のように、試着室の中が|大公開《フルオープン》される。  瞬間、上条の脳内からあらゆる音が消えた。  二人の少女は凍り付いている。  インデックスは、前の日に再放送を|観《み》ていた|超機動少女《マジカルパワード》カナミンの白を基調としたひらひらした服を着ている。ただし、スカート部分の留め具を固定する前なので、何か文章で表現していない所がいけない形で見え隠れしていた。  さらにご|愁傷様《しゆうしようさま》なのが|風斬氷華《かざきりひようか》だ。彼女はカナミンに登場する悪役ヒロイン(物語中盤で主人公パーティに参加)の衣装を選んだ……というか、恐らく選ばされたのだろうが、最悪な事にそれはほとんど黒ビキニみたいな防御力ゼロのエロ|鎧《よろい》だった(一応パレオみたいなロングスカートがついているが、前部が大きく開いた飾り用なので何の意味もない)。肌の|露出《ろしゆつ》の関係上、下着も外して装着しなければならないタイプの衣装らしいが、|胸部装甲《えせブラジヤー》のフロントホックも外れているし、体を折って|腰部装甲《うそパンツ》の両サイドに手をかけて腰まで引き上げるか引き上げないか微妙な所で止まってしまっている。  |永劫《えいこう》に近い数秒の|沈黙《ちんもく》の後、ようやく彼らの時間が動き出す。  インデックスは犬歯を|剥《む》き出しにして両目に|閃光《せんこう》を宿し、風斬は頭の先まで真っ赤に染まってぶるぶる|震《ふる》えて|目尻《めじり》に涙を浮かべ始める。 「いや、待て。待って。何か理不尽だ。よし、一度冷静に検証してみよう。|俺《おれ》と試着室までの距離は三メートルもある。絶対に手は届かないし、手を使わないでカーテンを落とすような能力もない。ほら、だからこれは俺の、せいじゃない、と思うん、だけど、なー……」 「とうま、じゃあカーテンが落ちた時にこっちを見ていた事は、とうまの過失にならないの?」 「あ、あっちを向いていてくれれば……こ、ここまで、ひどいダメージには……」  涙を浮かべて本気で怒っている時さえ申し訳なさそうな顔をしている|風斬《かざきり》が少し新鮮だなあ、と|上条《かみじよう》は現実|逃避《とうひ》しながら、 「えっと、つまり、あれですか。インデックスさん」  うん、とインデックスはスカートの留め具をしっかりと固定してから、 「問答無用だね、とうま」  遠く意識の|彼方《かなた》で、女の子|達《たち》のはしゃぐ声が聞こえる。 「写真シール……。ひようか、ひようか。この写真を撮るには、どうすればいいの?」 「えっと……ここに、お金を入れて……ボタンを押して、五秒後に……」 「ふうん。ひょうか、何か困った顔してるけど、悩み事でもあるの?」 「あの、その……どうしても撮らなきゃダメ? 私は、えっと……あっ、待って!ボタンを押さないで! や、やっぱり私は……」 「ほら撮るって。ひょうか、あんまり暴れると変な顔で写っちゃうかも」 「あ、うう……人の、話を……」  一方その|頃《ころ》、楽しそうな光景の斜め後ろ三メートルの物陰では、ぼろクズのように変わり果てた上条が転がっていた。      8  元の服に着替えたインデックスと風斬の姿は対照的で、インデックスは出来上がった写真シールを見てはしゃいでいるのに対して風斬は、ごーん、と除夜の|鐘《かね》みたいな効果音つきで落ち込んでいた。ハダカ見られた+トンデモ写真というダブルショックに心が折れかかっているらしい。 「はい、ひょうか。半分こ」  インデックスはそんな様子に気づかず、一六枚一つづりの写真シールを切り取り線に従って八枚ずつに分割して風斬に手渡した。風斬は写真の中の自分の格好が死ぬほど恥ずかしいらしいが、かと言って友人との写真は宝物にしたいらしく、かなり複雑な表情をしていた。 「なんか、一日があっという間にすぎていく感じがするね」インデックスは切り分けた片方を眺めながら、「これがガッコー生活かあ。うーん、いいなあ」 「いやいや、現実には退屑な授業とか地獄みてーなテストとかあって、それどころじゃねーけどな」  実は|記憶《きおく》喪失の上条にそういった経験はない。が、知ったかぶりで話を合わせて細いた。  そんな上条に、インデックスは楽しそうな笑みを見せて、 「それを退屈だと言えるのが、きっとす。てに幸せなんだと思うよ」 「……、かもな」  |上条《かみじよう》は少し考えてから、|頷《うなず》いた。  当然ながらインデックスは上条の住んでいる場所とは別世界の住人で、その世界には学校教育があるかどうかも分からない。少なくとも良い学校に通って良い会社に入って……などという未来予想図はないだろう。  そんな彼女からすれば何気ない学校生活は決して手の届かない宝物に見えるのかもしれない。 争いのない平和な世界が。退屈と呼べる温かい時間が。  ゲームセンターにいると異様な速度でお金が消費されていく、という訳で上条|達《たち》はとりあえず店の外に出る事にした。  あれから結構な時間が|経《た》ったはずだが、地下街の活気が衰える事はない。ただ、道行く学生達の服装が、学生服から私服へと変化しつつあった。一度|寮《りよりつ》に戻った学生達が再び地下街に戻ってきたのだろう。地下街は|陽《ひ》の光が入らず蛍光灯によって常に=疋の明るさを保たれているため、こういった部分で時間の経過を実感する事になる。上条は彼らの通行の|邪魔《じやま》にならないように、|壁際《かべぎわ》に寄ってインデックスや|風斬《かざきり》と話をしていると、そんな彼らの横を、高校生らしき女の子が走り抜けた。腕に『|風紀委員《ジヤツジメント》』の腕章がついている。 「……、ん?」  上条は何気なくそれらから視線を外そうとしたが、ふと『|風紀委員《ジヤツジメント》』の少女が立ち止まって、こちらを|睨《にら》んでいる事に気づいた。上条がきょとんとしていると、その少女は何か怒ったような顔をしたままつかつかと歩いてくる。  少女は上条の目の前で仁王立ちになると、 「こら、そこのあなた! 人がこんだけ注意しているのにどうしてのんびりしているの! 早く逃げなさい、早く!!」  いきなり怒鳴りつけられて、上条はおろか近くにいたインデックスや風斬まで|驚《おどろ》いた。 (いや、でも、なんか言ってたっけ、こいつ?)  初対面の人間の第一声を受けて、上条が首を|傾《かし》げる。と、『|風紀委員《ジヤツジメント》』の少女はムッと|眉《まゆ》を寄せた後に、 「だから、|念話能力《テレパス》よ、|念話能力《テレパス》。聞こえているんでしょう、ほら!」  少女の顔が力むように赤くなった途端、インデックスと風斬が同時に『わあ!』『ひゃあ?』と叫んだ。彼女達はきょろきょろと周囲を見回した後に、 「あ、あれ……。今、どこから、声が……?」 「む。何か頭の中から直接声が聞こえたような気がするかも」  が、不思議がる二人をよそに、上条だけがきょとんとしたまま、 「あー、テレパスってあれか。離れた人間と会話ができる力とかいうの。っと、確か伝達系にも色んなタイプがあるんだっけか。|小萌《こもえ》先生が補習で言ってたな、そんな話。生体電気の読み書き、|可聴域《かちよういき》外の低周波音声、いや……こりゃ糸電話か? ほら」  |上条《かみじよう》がインデックスの顔お前に手をかざすと、彼女はもう一度|驚《おどろ》いた顔をした。おそらく念話使いの力が遮断され、インデックスの頭の中に|響《ひび》いてきた『声』が聞こえなくなったのだろう。  糸電話。  その名の通り、空気の振動の伝達率を変動する事で、見えない『糸』を作り出す念話タイプの事だ。『糸』は伝声管と同じく、空気の振動をパイプ状の『コード』の中を通し、その先の出口のみに『声』を伝える。見えないものであるため「糸』がどういう順路を|辿《たど》っているか上条には見えないが、おそらくテレパス少女と彼を|繋《つな》いでいた『糸』に右手が触れてしまったため、上条だけは念話が届かなかったのだろう。 「しっかし|念話能力《テレパス》ってまだ開発研究続いてたんだな。携帯電話の普及と共にポケベルみてーに消えていったって聞いてたけど」 「……あなた、ね」|風紀委員《ジヤツジメント》の少女はひくひくとこめかみを引きつらせていたが、「どうしてあなたには届かないのかしら、あたしの『声』が。まあいいでしょう、口頭で説明するから」  ずい、とさらに一歩、少女は上条の元へと近づいてくる。 「は?」 「現在、この地下街にテロリストが紛れ込んでいるんです。|特別警戒宣言《コードレッド》も発令されてますよ。今から……えっと、九〇二秒後に捕獲作戦を始めるために、隔壁を下ろして地下街は|閉鎖《へいさ》します。これから|銃撃戦《じゆうげきせん》になるからさっさと逃げてくださいねって指示を出している所。分かりました?」  その声に、上条はぎよつとした。  インデックスはコードレッドの意味が分からず、|風斬《かざきり》は分かっていても非日常に実感が|湧《わ》かないためか、|風紀委員《ジヤツジメント》の言葉を聞いてもきょとんとしていた。 「当のテロリストに捕獲準備の情報を知られると逃げられるかもしれないから、こうして音に|頼《たよ》らないあたしの|念話能力《リアレパス》が入り用になったんです。だからあなた|達《たち》も|騒《さわ》ぎを起こさないで、できる限り自然に|退避《たいひ》してくださいね」 「ふうん。テロリスト以外の入間限定で伝えてるって訳か。あれ? それってつまりテロリストの顔はもう分かってんのか?」 「そんな事を一般のあなたが心配する必要はありません。きちんと顔写真つきで手配書は回してもらっているので問題ないの」  |風紀委員《ジヤツジメント》の少女は折り畳み式の携帯電話をパカリと開く。そこの画面に|誰《だれ》かの顔写真が映っていた。これがテロリストなのかな? と上条が画面。を|覗《のぞ》こうとした所で、彼女は片手で携帯電話を折り畳む。 「ほらほら。分かったら早く逃げてください。|閉鎖《へいさ》までもう八OO秒ありませんよ」  それだけ言うと、|風紀委員《ジヤツジメント》はそこから立ち去った。  |上条《かみじよう》は改めて周囲を見渡す。彼女の『声』を聞いたのか、学生|達《たち》はわずかにどよめきながらも、指示通りにあくまでも自然な感じで出ロへと向かっていく。ただし、一歩離れた所から眺めると不出来な|避難《ひなん》訓練のように見えなくもないのだが。 「おいおい、まずいな……。とにかくここを出るか。インデックス」  下手なトラブルに巻き込まれる必要もない。上条はインデックスや|風斬《かざきり》と|一緒《いつしよ》に、さっさとこんな危ない場所から離れようと思った。  しかし……。 (……あれ、ちょっと待て。なんかやばくないか?)  出口である大手デパートの階段の手前で、上条は思わず立ち止まった。二人の少女はそんな彼に|怪誹《けげん》そうな視線を向ける。  出口の周りに、武装した|警備員《アンチスキル》の男達が四、五人固まっていた。全身を黒い|装甲服《ポデイアーマー》で固め、顔もヘルメットとゴーグルで|覆《おお》っているため、ロボットのようにも見える。彼らの手には見た事もないライフルが握られていた。  インデックスはこの街の住人ではない。|誰《だれ》が発行したかも分からない|臨時発行《ゲスト》扱いのIDを持っているものの、その正体が不法滞在者である事に変わりはない。  彼らに詳しく|素性《すじよう》を調べられれば、拘束される危険性は……ないだろうか?  平時ならそれほど気に留める必要もないだろう。インデックスが普通に街を歩いていても問題ないとは思う。だが、今は非常事態で検問が敷かれているのだ。少しでも怪しいと感じた者は|全《すべ》て調べられるだろう。結果、彼女が部外者である事が発覚してしまうかもしれない。  実際に、オリンピックやワールドカップなどで警備が強化された時には、大会の妨害とは全く関係のない酔っ払いなどが大量に検挙されるものらしい。今の警備体制とインデックスの関係はそれに近いものがある。  どこのテロリストが紛れ込んだか知らないが、大きな迷惑だった。|迂闊《うかつ》に出口へ近づけば|警備員《アンチスキル》に捕まるかもしれず、かと言ってこのまま立ち止まれば|銃撃戦《じゆうげきせん》に巻き込まれるかもしれない。 (しかしまぁ、行くしかねえか。|警備員《アンチスキル》の検問と銃撃戦に巻き込まれるんだったら、まだ検問の方がマシだ。くそ、それにしたってマイナスとマイナスの|天秤《てんびん》って最悪だな)  多少の危険は伴うが、上条はとにかくここから立ち去る方を選んだ。  だが、そんな彼の考えは強引に断ち切られる。  日常に割り込んできた、非日常の手によって。 『———見いつっけた』  それは女の声だった。  ただし、何もないはずの壁から聞こえた。  |上条《かみじよう》は視線を向け、そして硬直する。壁の、ちょうど上条の目線の高さの辺りに、|掌《てのひら》サイズの茶色い泥がへばりついていた。それは吐き捨てたガムのようにも見える。  ただし、その泥の中央に、人間の眼球が沈んでいた。  ギロギロと、ギョロギョロと、眼球はカメラのレンズのようにせわしなく動く。  |風斬《かざきり》は、その眼球を見てもキョトンとしているだけだった。あまりに現実味がなくて、ガラスで作ったレプリカに見えたのかもしれない。かくいう上条も人の事は言えない。何か、頭の後ろが|痺《しび》れたようになって、上手く目の前の視覚情報を処理できない。  ただ一人、インデックスだけが|驚《おどろ》きもせず冷静にその目玉を眺めている。  泥の表面がさざ波のように細かく揺れ、その振動が『声』を作り出す。 『うふ。うふふ。うふうふうふふ。禁書目録に、|幻想殺し《イマジンブレイカー》に、虚数学区の|鍵《かぎ》。どれがいいかしら。どれでもいいのかしら。くふふ、迷っちゃう。よりどりみどりで困っちゃうわぁ』  女の声は|妖艶《ようえん》だが、どこか|錆《さ》び付いていた。  |煙草《タバコ》か何かで|喉《のど》を|潰《つぶ》した歌姫を連想させる、退廃的な声は一転、 『——ま[#「ま」に傍点]、全部ぶっ殺しちまえば手っ取り早えか[#「全部ぶっ殺しちまえば手っ取り早えか」に傍点]』  場末の酒場でも聞かれないような粗暴な声色へと切り替わる。  |上条《かみじよう》は、この奇妙な|闘入者《ちんにゆうしや》が何者か、判断しかねた。この奇妙な泥は超能力によるものか、|魔術《まじゆつ》によるものか、判別がつかない。  しかし、インデックスは一秒も待たずに切り捨てる。 「土より出《い》でる人の虚像———そのカバラの術式、アレンジの仕方がウチと良く似てるね。ユダヤの守護者たるゴーレムを無理矢理に英国の守護天使に置き換えている辺りなんか、特に」  上条はインデックスの突然の変化についていけない。とにかく彼女の言っている事を自分なりに理解してみようとは思うのだが、たった一つも意味が分からない。  なので、彼はとりあえず疑問を述べてみる。 「ゴーレムって、この目玉が?」  上条は思わず壁にへばりついた泥と眼球を指差した。確かにそれは吐き気を催すほど不気味な存在だが、かと言って生命の危機を感じるほどの話でもない。また、彼の頭の中にある『ごーれむ』とは、ゲームに出てくる岩石でできた鈍重な巨大入形といった所である。  しかし、インデックスは泥の眼球を|睨《にら》みつけたまま、 「神は土から人を|創《つく》り出した、っていう伝承があるの。ゴーレムはそれの亜種で、この魔術師は探索・監視用に眼球部分のみを特化させた泥人形を作り上げたんだと思う。本来は一体のゴーレムを作るのが精一杯だけど、これは一体当たりのコストを下げる事で、大量の個体を|手駒《てごま》にしてるんじゃないかな」  インデックスが告げると、眼球は泥の表面を|震《ふる》わせて|妖艶《ようえん》な笑い声を発した。  上条は理屈は分からなかったが、どうやらこの泥と眼球はラジコンみたいに|誰《だれ》かが操っているものだというのだけは何となく理解して、 「って事は……この魔術師がテロリストさんって訳か」 『うふ』と、泥は笑う。『テロリスト? テロリスト! うふふ。テロリストっていうのは、こういう|真似《まね》をする人|達《たち》を指すのかしら?』  ばしゃっ、と音を立てて泥と眼球は|弾《はじ》け、壁の中に溶けて消えた。  |瞬間《しゆんかん》。  ガゴン!! と。地下街全体が大きく揺れた。 「なん……っ!?」  まるで|嵐《あらし》に放り出された小船のような|震動《しんどう》に、上条は思わずよろめいた。視界の端では、転びそうになったインデックスが|風斬《かざきり》の腕の中にすっぽりと収まっている。  さらにもう一度、砲弾が|直撃《ちよくげき》したような揺れが地下街を|襲《おそ》う。爆心地は遠いが、その余波が|一瞬《いつしゆん》で地下全体に広がっている感じだ。  パラパラと、|天井《てんじよう》から|粉塵《ふんじん》のようなものが落ちてくる。  蛍光灯が二、三度ちらついたと思った途端、いきなり|全《すべ》ての照明が同時に消えた。数秒遅れて、非常灯の赤い光が|薄暗《うすぐら》く周囲を照らし始める。  それまでのんびりと、|避難《ひなん》訓練のように出口へ向かっていた人の波が一気にパニックを引き起こす。まるで暴走した猛牛の群れのような足音が殺到する。  今度は、低く、重たい音が|響《ひび》き始めた。  予定よりも早く、|警備員達《アンチスキルたち》が隔壁を下ろし始めたのだ。洪水の際に地下の浸水を防ぐためか、あるいはシェルターとして使うつもりだったのか、やたらと分厚い鋼鉄の城門が出口を遮るように天井から落ちてくる。人混みの最後尾を|噛《か》み|千切《ちぎ》るように、隔壁は地面に|叩《たた》きつけられた。 あわや押し|潰《つぶ》されそうになった、そして逃げ損ねた学生達は混乱したまま分厚い鋼鉄の壁をドンドンと叩いている。出口で検問を敷いていた|警備員《アンチスキル》に詰め寄ろうとする者まで現れる。  閉じ込められた。  狭い出口に人が殺到したため、彼らの混雑が壁となって|上条《かみじよう》達は出口に近づけなかった。まさかと思うが、相手がこの展開を予測していたとなれば、敵は上条達の立ち位置から建物の構造や人の流れまで把握していた事になる。あの泥の目玉を地下街中に配置した成果だろうか?『さあ、パーティを始めましょう———』  ぐちゃりと潰れた泥から、女の声が聞こえた。すでに壊れた『眼球』の最後の断末魔、ひび割れたスピーカーを動かすように。 『———土の|被《かぶ》った泥臭え墓穴の中で、存分に鳴きやがれ』  さらに一度、|一際《ひときわ》大きな|震動《しんどう》が地下街を揺らした。      9  上条は念のために|他《ほか》の出口を捜そうとしたが、結果はどれも徒労に終わった。階段やエレベーターは隔壁により|封鎖《ふうさ》され、ダクトは元より人が通れるようなサイズではない。  空調が切られたのか、地下の温度がぐんぐんと上がっていく。非常灯の赤い光とあいまって、オーブンの中にでも放り込まれた感じがする。ありえないとは思うが、空気が|薄《うす》くなっているような|錯覚《さつかく》すら覚える。巨大な空間に生き埋めにされたような、居心地の悪さが胸に|溜《た》まる。  上条は薄暗い通路の先を見渡しながら、|忌々《いまいま》しげに|呟《つぶや》く。 「……、向こうはこっちの顔を確かめてから|襲《おそ》ってきたみたいだし、迎え|撃《う》つしかなさそうだ。 インデックス、|風斬《かざきり》とどこかに隠れてろ」  敵はこちらの位置を|捉《とら》えている。この閉鎖された空間の中では、いくら広いと言っても、しらみ潰しに調べられればいつかは見つかってしまう。  敵がこちらの命を|狙《ねら》い、そして逃げる事もできない以上、取る道は一つしかない。 (敵がインデックスや|風斬《かざきり》に手を出お前に、こちらから討って出る。くそ、敵が何人いるかだけでも分かれば策を練る事もできそうだけど……)  |上条《かみじよう》が一人で考えを巡らせていると、|三毛猫《みけねこ》を抱えるインデックスは|頬《ほお》を|膨《ふく》らまして、 「とうまこそ、ひょうかと|一緒《いつしよ》に隠れてて。敵が|魔術師《まじゆつし》なら、これは私の仕事なんだから」 「アホか、お前の細腕でケンカなんかできるかよ。そんな|拳《こぶし》で人|殴《なぐ》ってみろ、お前の手首の方が傷んじまうんじゃねーのか。いいからお前は風斬と 緒に隠れてうって」 「む。とうま、ひょっとして今までのラッキーが自分の実力だと思っていない? どれだけ不思議な力があっても、|所詮《しよせん》とうまは魔術の|素人《しろうと》なんだから。だから索人は素人らしく、ひょうかと一緒に隠れててって言ってるの」 「はっ、何を|仰《おつしや》いますやら。この不幸の|擬人化《ぎじんか》・ジェントル上条にラッキーなんかあるはずねーだろ。……うっ、自分で言ってて嫌になる」  |何故《なぜ》だか自己|嫌悪《けんお》に|陥《おちい》っている少年に、風斬|氷華《ひようか》はオロオロしながら、 「……あ、あの……何だか良く分からないんだけど……私が、何かを手伝うって方向は……ない、の?」 「「ない」」  上条とインデックスは同時に言い、風斬はしょんぼりとうな垂れた。  と、次の|瞬間《しゅんかん》、手近な曲がり角からカツンという足音が聞こえた。 「!?」  上条はインデックスと風斬を|庇《かば》おうとし、インデックスは上条と風斬を庇おうとした!結果、お互いの体がぶつかって、上条とインデックスはもつれて勢い良く転んでしまった。一人無傷な風斬だけが、びっくりしたように胸元へ両手を引き寄せたまま固まっている。かつこつという足音は近づいてくる。インデックスの腕に押し|潰《っぷ》されそうになっている三毛猫がみゃーみゃー鳴きながら前脚をバタバタと動かしていた。  かつこつかつこつ、と古ぼけた柱時計のように足音が|響《ひび》いてくる。  曲がり角の向こうから、女の声が飛んできた。 「あら?  猫の鳴き声が聞こえますわね」 「|黒子《くろこ》。アンタ動物に興味ないんじゃなかったっけ?」 「かくいうお姉様は興味がおありでしたよね」 「べ、別に私は……」 「あらぁ。わたくし、知っていますのよ。お姉様には|寮《りよう》の裏手にたむろってる猫|達《たち》にご飯をあげる日課がある事を。しかし体から発せられる微弱な電磁波のせいでいつもいつも一匹残らず逃げられて、猫缶片手に一人ポツンと|佇《たたず》む羽目になっている事も!」 「何故それを……!? ってか黒子! アンタまたストーキングして……っ!」  曲がり角から現れた二人の少女は、床に転がっている|上条《かみじよう》とインデックスの姿を発見して足を止めた。言うまでもなく、彼女|達《たち》———|御坂美琴《みさかみこと》と|白井黒子《しらいくろこ》は敵ではない。  |緊張《きんちよう》して損した……とばかりにぐったりと力を抜く上条を、美琴は奇異の目で見る。 「アンタ、こんなトコで女の子に押し倒されて、何やってる訳?」 「……、あらあら。こんな時間から大胆ですこと」  美琴は|何故《なぜ》か髪の毛の辺りからバチバチと火花を散らし、白井は微妙に冷たい声でそんな|台詞《せりふ》を言った。  対して、インデックスは上条の上からどきもせず、 「とうま、この品のない女達は「体|誰《だれ》なの。知り合い? どんな関係? そっちの短髪、この前のクールビューティに似ているけど、違う人だよね」  なっ……、と白井は声を詰まらせ、美琴は明らかにケンカ腰なインデックスへ、むしろ友好的とも取れる危険な笑みを浮かべ始めた。 (あーそっか。インデックスは御坂妹とは面識があったんだっけ)  上条は現実|逃避《とうひ》気味にそんな事を思い出しつつ、 (あれ? っつか、何でこの人達はこんなにギスギスした空気を放ってるんでせう?)  ややあって、現実へと帰ってきた。  インデックスと美琴は視線を交差させて、 「それで、あなたはやっぱりとうまの知り合いなの?」 「やっぱりって———ちょっと待ちなさい。じゃあアンタも?」 「……-えっと。命の恩人だったりする?」 「あー……もしかして、そっちも|頼《たの》んでないのに駆けつけてきてくれたクチ?」 「「……、」」  二人はほんのわずかに|沈黙《ちんもく》して、それから同時にため息をついた。お、なんかピリピリした気配がなくなっていくそ、と上条は|呑気《のんき》に考えていたが、 「「|とうま《アンタ》! 私の見てない所で何やってたか説明して|欲しいかも《もらうわよ》っ!!」」  単に矛先が変わっただけだった。  ひいっ! と上条は開きかけた心の扉を全力で閉める。  ニ方向からステレオで|叱《しか》られている少年の姿を見て、|風斬《かざきり》は口元に手を当てたままオロオロし始めた。上条が|可哀想《かわいそう》だとは思っているみたいだが、かと言ってあの最前線に割って入るだけの度胸もないらしい。彼女は挙動不審気味にあちこちを見回した後、一歩距離を置いた位置に白井黒子が立っている事をようやく発見する。唯一の中立勢力たる彼女に平和活動をお願いしよう、と風斬は思っていたのだが、 「(……まったくそうですか命の愚人ときましたか大体怪しいとは思っていたのですけどやはりあの殿方がお姉様の部屋にやってきた日に何かあったんですのねそれにしてもお姉様はわたくしには一言も告げなかったくせにあのヤロウには|全《すべ》てを打ち明けたとそういう風に受け取ってよろしいのかしら、うふふ。あらおかしい、うふふふふふ)」  あまりに平淡すぎる独り言に、|風斬《かざきり》のメガネがずり落ちた。  どうやらツインテールの少女は中立勢力ではなく第三勢力らしい。一人ぽつちになってしまった風斬|氷華《ひようか》はその場で立ち往生した。彼女は思う、|流石《さすが》にこの複雑に|亀裂《きれつ》の入った勢力図のど真ん中に割って入るのは不可能だと。  |上条《かみじよう》は長い長いステレオ説教から解放されると、ようやくインデックスの下から|這《は》い出る事ができた。それから|美琴《みこと》や|白井《しらい》に簡単な事情の説明を行う。もちろん、|魔術《まじゆつ》うんぬんの話は信じてもらえないだろうから割愛してある。 「ふうん。なんかよく分かんないけど、結局またアンタが何かトラブルに巻き込まれてんのね。 しかし今度はテロリストときましたか。テロリスト、ねえ。|黒子《くろこ》、やっぱさっきのキレたゴスロリと|繋《つな》がりがあると思う?」  美琴はつまらなそうに白井の方を見る。 「そうですわね。殿方|達《たち》が聞いたとされる声の特徴からしても、関与していると考えるのが妥当では? しかし、学園都市の『外』から能力者が攻めてくるだなんて。それは、天然モノの能力者がいたって不思議ではないのですけれど……」 「あるいは学園都市の|他《ほか》にも能力開発機関があるのかしら? でも、『外』の超能力のウワサなんて政府のUFO陰謀説と同じぐらい|信愚性《しんぴようせい》がないのよね」  どうも白井や美琴は魔術というものを知らないため、目の前の現象は|全《すべ》て超能力という事で納得しようとしているらしい。上条が横目で見るとインデックスがムッとしているようだったが、話がこじれると面倒になるので上条は先に片手で制して鞄いた。  白井は腕に留めた|風紀委貫《ジヤツジメント》の腕章を揺らしながらため息をついて、 「まったく、テロリストの侵入を許すだなんて、わたくしも気を入れ直す必要があるようですわね。今朝は二組の侵入者がいたと聞きますし、片方だけでこの|騒《さわ》ぎ。もう片方の侵入者の方も気になりますわ」  ん? と上条は白井黒子の言葉に違和感を覚える。 「何よ、黒子。もしかしてまだトラブルの種があるの?」 「ええ。|警備員《アンチスキル》経由の情報によれば侵入者は合わせて二人。経路や方法が異なっていた事から別口らしいとは聞きましたが、断定はできませんわね」  んー……? と上条は白井黒子の言葉に冷や汗をダラダラと流し始める。  と、インデックスがいち早くその事に気づいたのか、上条のシャツを両手で|掴《つか》んでぐいぐいと引っ張りながら、 「とうま。何か体が小刻みに|震《ふる》えてるけど、どうかしたの?」  |美琴《みこと》はそんなインデックスに小さく笑いかけて、 「くっくっ……アンタが暑苦しくて|欝陶《うつとう》しいんじゃない?」  うっとうしくないもんっ!! と叫び返すインデックスにも目もくれずに|上条《かみじよう》は、 「えっと、あの、怒らないでくださいまし。多分、もう一組の侵入者って、|俺《おれ》だと思う」  は? とその場の全員が上条の目を見た。  上条は、それらの視線|全《すべ》てから逃げるという器用な芸当をこなしつつ、 「えー、実は昨日の夜に|闇咲《やみさか》っていう不器用な男と知り合いまして。そいつの知り合いを助けるために学園都市の外へ出る必要がどうしてもあった訳で、その問題を片付けてようやく帰ってきたのが今朝の事であって、それで、あの……何だよ? |御坂《みさか》も|白井《しらい》も何でそう『分かった分かったいつもの病気だろ』みたいな目をしてため息つくんだ?」  何か話題を変えた方が良い、と本能的に察した上条はとっさに頭をフル回転させる。 「っつか、お前|達《たち》は何でここにいるんだ?」 「わたくしは|風紀委員《ジヤツジメント》ですので、閉じ込められた方達の脱出用にやってきた、という所ですの。 これでも一応『|空間移動《テレポート》』の使い手ですので」 「ふうん。じゃあ美琴は?」 「え、いや、別に私は……」 「?」 「な、何よ! 別に何でも良いでしょうが、何でも!!」  |何故《なぜ》か顔を真っ赤にして叫ぶ美琴に、上条は首を|傾《かし》げる。そんな彼の姿を見ながら、白井は片目を閉じると若干ながら不機嫌そうな顔を隠しもしないで、 「……(まぁ、わたくしの仕事に付き添ったお姉様が警備室で|特別警戒宣言《コードレツド》下の防犯カメラにあなたの姿が映っていたのを発見したから心配になって駆けつけた、とは言えませんわね。普通なら)」  上条が白井の方を見ると、彼女はぷいと顔を|逸《そ》らした。  水面下で何が展開されているか分からないまま、上条は白井の|空間移動《テレポート》について考える。  確かにその力を使えば、|封鎖《ふうさ》された地下街から地上へ抜け出すのも難しくないだろう。 「わたくし、これでも|風紀委員《ジヤツジメント》の一員ですので、そのテロリストとやらを見過ごす事はできませんけれども」白井は|薄暗《うぎら》い通路の先を一度だけ|睨《にら》み、「それ以上に、人命の方が重要ですわね。予定を切り上げて隔壁を下ろしたというのが正しいなら、もう時間はありませんわ。ここで大規模な|戦闘《せんとう》が起きるにしても、先に|避難《ひなん》を済ませませんと」  今も隔壁の辺りには逃げ遅れた学生達が数十人もいる。彼らは皆、開くはずのない鋼鉄の壁をどうにかこじ開けようと|無駄《むだ》な努力を続けていた。 「分かった。白井、お前が閉じ込められた人達を脱出させてる間は、|俺《おれ》が時間を稼ぐから、お前はあいつらを外に出してやってくれ」  |上条《かみじよう》が言った|瞬間《しゆんかん》、三方から|白井《しらい》と|美琴《みこと》とインデックスの手で同時にどつかれた。しょうもない所ばかりで気が合う、とばかりに美琴とインデックスは苦い顔で視線を交わす。ただ一人、|風斬《かざきり》だけがツッコミを入れようとしたが勇気が足りずに虚空へ手を泳がせていた。  その場の全員を代表するように、美琴は言う。 「アンタは真っ先に逃げるの。っつかアンタ|達《たち》がピンポイントで|狙《ねら》われてんでしようが。一番危険な人間を戦場に残すと思ってんのかアンタは」 「……っつってもなあ」上条は頭を|掻《か》いて、「|俺《おれ》の右手はあらゆる能力を無効化させちまう。白井の力だって例外じゃねーぞ」 「そういえば……あなたが女子|寮《りよもつ》に来た時、一度失敗していましたわね」  白井が何か思い出したように|呟《つぶや》くと、美琴の目が鋭くなった。上条はギクリとして後ずさる。 彼は諸事情あって、美琴の部屋に無断で侵入した事があるのだ。 「と、とにかくだな。俺は白井の力じゃ外に出られない。だからここに残ってヤツの相手をするしかねーんだよ」  その声を聞いたインデックスは、上条の腕にしがみつきながら、 「じゃあ私も残る!」  今度は四方から、上条と美琴と白井と風斬の手が同時にインデックスをどつき回した。引っ込み思案の風斬も勇気を振り絞ってみたらしい。ぎゅっと目を|瞑《つぶ》ったまま、しかし的確にインデックスの後頭部へ|打撃《だげき》を加えていた。  白井は両手を腰に当てて、 「わたくしの力にも限度がありまして……そうですわね。一度に運べるのは二人が限度でしょう。おチビちゃんが予想以上に重かったら話は別ですけどねぇ?」 「ふん! あなたにだけはチビとか言われたくないかも! 一番子供のくせに!!」 「な、何ですって、このまな板が知った口を……!?」  |激昂《げつこう》する白井|黒子《くろこ》を見ながら、美琴はため息をついて、 「まーまー、どうでも良いでしょそんなの。一歩離れて見てみりゃどっちも子供よ子供」 「……、」  さらに一歩離れた高校生の視点で眺めると美琴も子供に見えるのだが、彼は|曖昧《あいまい》な笑みを浮かべたまま|黙《だま》っている事にした。上条の半分は優しさでできているのだ。  ちなみに、彼はもう一歩離れた所に立って上条達を眺めている風斬|氷華《ひようか》が、子供達を見る保母さんのような|瞳《ひとみ》をしているのには気づいていない。 「しかし、運べるのは二人までか……。そんじゃ、まずはインデックスと風斬を|頼《たの》む」 「とうま。それはつまりそこの短髪と|一緒《いつしよ》に残る、と言いたいんだね?」  インデックスは微妙に平淡な声でそう言った。|突撃《とつげき》準備完了、いつでも頭に|噛《か》み付けますと言わんばかりに彼女の犬歯がキラリンと輝く。 「……、あー。じゃあ|美琴《みこと》と|風斬《かざきり》でいいや」 「ほう。アンタ、そこの|小《ち》っこいのと残りたい、と。ほほう」  今度は美琴の茶色い髪が静電気を帯びてふわふわと浮かび始めた。バチバチという青白い火花が、|暗闇《くらやみ》の中で断続して|瞬《またた》く。 「ああちくしよう! じゃあインデックスと美琴で"…」  |上条《かみじよう》が両手で頭を|掻《か》き|釜《むし》りながら叫ぶと、|白井《しらい》はため息をついた。 「はあ。ではお姉様とチビガキを連れて行きますけれど、わたくしも|一緒《いつしよ》に飛びますわよ」 「は? お前が地上と地下を行ったり来たりしても面倒じゃねえの? 地下に残ったまま一入ずつ地上に飛ばした方が早そうな気もするけど」 「わたくしが一緒にいた方が微調整が効くんですのよ。適当に飛ばして溢いて、万が一、誤差の関係でビルの壁にでも突き刺さってごらんなさい。わたくし、径しげな人柱なんて作りたくありませんので。———ではお二人とも」  いがみ合うインデックスと美琴を仲裁するように、白井はそれぞれの肩に手を置く。  |瞬間《しゆんかん》。  プン! と羽音のような音色が|響《ひび》いたと思った瞬間、インデックス、美琴、白井の三人の姿が虚空へ消えた。消える寸前、美琴が『あれ? ちょっと|黒子《くろこ》! 私は残るってば!!』とか何とか言っていたような気がしたが、おそらく後輩の白井が一人戦場に残って作業を続けるのが心配なんだろうなあと上条は考えていた。  上条と風斬は、自然と|天井《てんじよう》を見上げた。彼女|達《たち》は無事に地上へ|辿《たど》り着いただろうか? 「まずは二人、か。……悪りいな。お前を残しちまって」 「……う、ううん。私は別に……最後でも良い、です。それより……あなたの方こそ……」  言いかけた風斬の言葉は、途中で遮られた。  ゴガン"…と、再び地下街全体が大きく揺れたからだ。  だが、これまでと違って、今度は爆心地が近そうだった。|薄暗《うすぐら》い通路の先から、何やら銃声らしき爆発音と、人の怒号や絶叫らしき声色まで流れてくる。 (本命のお出ましか……。っつってもちょっと早すぎるぞ!!)  相手はすでに一度、目玉を使って地下街をスキャンしている。ならば、上条達の所まで迷わず歩を進めてきてもおかしくない。  隔壁お前に集まっていた学生|達《たち》は、遠方から届く争いの物音に再びパニックを引き起こした。いくら特殊な力を持っているとはいえ、その正体は単なる学生なのだ。彼らは少しでも危険な場所から離れようと一斉に走り出したが、|灯《あか》りの乏しい赤い非常灯の中で、何かにつまずいて将棋倒しを起こしてしまう。  上条は通路の奥を|睨《にら》み付ける。  のんびりと考え込んでいる時間は、ない。  そして、数十人もの人々がいるこの場所で|戦闘《せんとう》になれば、必ず|犠牲《ぎせい》が出るだろう。|上条《かみじよう》の右手はあらゆる異能の力を無効化させるが、これほど多くの人々を|庇《かば》い切れる自信はない。 (どの道、戦闘は|避《さ》けられねえって言うなら……)  上条の決断は早かった。 「悪い、|風斬《かざきり》。お前はここで|白井《しらい》が来るのを待っててくれ」 「え……あなたは……?」  風斬が言いかけた時、さらにゴン!! と地下街が大きく|震動《しんどう》した。今度は、近い。通路の奥から空気が押し出されるように、生温かい風が吹き込んできた。  断続的な銃声や怒号も、徐々にだが鮮明になりつつある。もう、敵との距離は遠くない。  上条は風斬の顔を見ず、目の前の|闇《やみ》に視線を投げると、 「|俺《おれ》は———あれを止めてくる」  それだけ言うと、上条は風斬の言葉を待たずに闇に向かって走り出す。  敵の正体もその強さも測れないが、耳に届く戦闘の音は|身震《みぶる》いするようなものだった。あれがここまでやってくれば、間違いなく数+名もの命が奪い去られる。その中には、風斬|氷華《ひようか》の命も含まれる。  それだけは、させる訳にはいかない。  上条は闇の奥へと走りながら、その右手を硬く握り締めた。 [#改ページ]    第三章 閉鎖化 Battle_Cry.      1  シェリー=クロムウェルは銃声と硝煙の渦巻く戦場を優雅に歩いていた。  彼女の前方には、まるで巨大な盾のように石像が立っていた。石像は地下街のタイルや看板や支柱などを無理矢理丸めて粘土のように形を整えたものだった。高さは四メートルに届いているが、あまりに背が高いせいか、石像の頭は|天井《てんじよう》に押し付けられ、斜めに|傾《かし》い。ていた。 彼女は白いオイルパステルを|薙《な》ぎ払うように宙で振るう。それが命令文となり、巨大な石像が歩を進める。  シェリーの前方には|漆黒《しつこく》の装甲服に身を固めた|警備員達《アンチスキルたち》がいた。彼らは近くの喫茶店にあったテーブルやソファなどを通路に集め、バリケードを作り、そこから顔を出すようにライフルを|撃《う》ち続けている。|装填《そうてん》の|隙《すき》を見せないよう、三人セットになって、一方のチームが装填している問は|他《ほか》のチームが|射撃《しやげき》を行っていた。まるで織。田信長の鉄砲隊だ。 (腕はそこそこだが、品がないわ)  シェリーはつまらなそうな評価を下した。  元々地下街の通路が狭いせいもあるが、石像———ゴーレム=エリスは通路を遮る、移動型の防壁のようなものだった。その後ろにいるシェリーには一発の弾丸も飛んでこない。  何百発と弾丸がエリスに直撃しようが、決定打にはならない。弾丸を受けた手足はえぐれるが、まるで磁石に吸い寄せられるように、エリスの近くにある壁のタイルが|剥《は》がれ、|壊《こわ》れた箇所を自動的に補修してしまう。  カチン、という金属音が|響《ひび》いた。  |業《こう》を煮やした|警備員《アンチスキル》の一人が、|手榴弾《しゆりゆうだん》のピンを抜いたのだ。彼は石像の盾の向こうにいるシェリーヘダメージを与えようと、石像の|股下《またした》をくぐるように手榴弾を投げようとして、 「エリス」  そのお前に、シェリーはオイルパステルを空中で|一閃《いつせん》した。  石像が地を|踏《ふ》み鳴らす。ゴドン!! と地下街の床が大波に揺られる小船のように大きく|震動《しんどう》した。折りしも|警備員《アンチスキル》が手榴弾から手を離そうとした|瞬間《しゆんかん》の出来事だった。タイミングを奪われた彼の手から、ピンの抜けた手榴弾がポトリと|己《おのれ》の足元へ落ちる。  怒号。  そして爆発。  血しぶきが舞った。|手榴弾《しゆりゆうだん》は爆風よりも破片で傷をつけるタイプのものらしく、バリケードが吹き飛ぶ事はない。仕切り一枚隔てた先から、血の|匂《にお》いが漂ってくる。かろうじて鋭い破片の|嵐《あらし》から免れた者|達《たち》も、爆風から逃れるためにバリケードの外へ飛び出してしまっている。  多くの|警備員《アンチスキル》達は、爆発の|衝撃《しようげき》でライフルを手放していた。  ビュバン!!という抜刀術を思わせるような、空気を裂くオイルパステルの音、  彼らの頭上に影が差す。まるで建設重機のようなエリスの腕が振りかぶられる。  慌てて予備の|拳銃《けんじゆう》を引き抜いても、もう遅い。  石像を相手に足止めするには、あまりにも貧弱すぎる。      2  戦場だ。  |上条《かみじよう》は地下街の通路の角を曲がった|瞬間《しゆんかん》、思わず口元を手で|覆《おお》いそうになった、  本物の戦場だ。  目お前に広がる光景は、人々が争うものでも、銃声や怒号が|響《ひび》くものでもない。傷つき、折れ曲がり、引き裂かれた人間が柱や壁に寄りかかっていた。ここは第一線ではない。敗れた者達が一時的に後退し、傷の応急手当をするための野戦病院のような所だった。  |警備員《アンチスキル》。  数にして、およそ二〇人弱。  一体どれほどの相手と立ち回ったのか、彼らの傷は尋常ではない。|絆創膏《ばんそうこう》を張るとか包帯を巻くとかいう次元を超えている。まるで破れてしまった布袋を糸で|縫《ぬ》って補修するようなイメージすら|叩《たた》きつけてきた。 (っつか、どんな野郎なんだ。こんだけの|警備員《アンチスキル》相手にここまでやる|魔術師《まじゆつし》ってのは……)  上条は絶句する。詳しい裏事情を知らない|素人《しろうと》の彼でも、何となく『科学勢力』と『魔術勢力』があるらしい事は分かっている。そして上条は、今までそれは一対一でキチンとバランスの取れたものだと思っていた。  だが、ふたを開けてみればこの有り様だ。  上条はこれまでも尋常ではない魔術師達と渡り合ってきたので、彼らの力を分かっているつもりだった。それでも、現実に上条の住む科学勢力の人間がこうも簡単にやられてしまう姿を見ると、少なからずショックを受けてしまう。  学園都市の治安を守るべき人間が、まるで|怪獣《かいじゆう》映画に出てくる|端役《はやく》みたいな扱いだった。  しかし、そこまでしてなお彼らに|撤退《てつたい》の意思はない。  少しでも体の動く者は近くの店から|椅子《いす》なりテーブルなりを運び出し、バリケードのようなものを作ろうとしていた。いや、体の動く動かないは関係ない。そんなものを問う段階は、とっくの昔に終わっている。  死ぬ気でやっているのではない。  死んでも成し遂げるという決意しか感じ取れない。 (どうして……)  |上条《かみじよう》は絶旬していた。  彼らはプロとしての訓練を積んでいるものの、その正体は『教員』……つまり学校の先生で しかない。|誰《だれ》かに強制されている訳ではないし、給料が特に高い訳でもない。総括すれば、彼ら が命を|賭《か》けて戦う理由などどこにもないのだ。彼らは国家公務員試験を突破した正規の警察官 ではない。自分の命が惜しくなって逃げ出した所で、一体誰が非難するというのか。なのに……。  と、曲がり角で|呆然《ぽうぜん》としていた少年の姿を、壁に寄りかかるように座り込んでいた|警備員《アンチスキル》が |見処《みとが》口めた。|驚《おどろ》くべき事に女性だった。彼女は傷ついた仲間の腕に巻いていた止血テープの動き を止めて、 「そこの少年! 一体ここで何をしてんじゃん!?」  怒号に、その場にいた十数名もの|警備員達《アンチスキルたち》が一斉に振り返った。上条が答えられずにいると、 大声を出した女性はいかにも|苛《いら》だたしい調子で舌打ちして、 「くそ、|月詠《つくよみ》先生んトコの悪ガキじゃん。どうした、閉じ込められたの? だから隔壁の|閉鎖《へいさ》を早めるなって言ったじゃん! 少年、逃げるなら方向が逆! AO3ゲートまで行けば後続の|風紀委員《ジヤツジメント》が詰めてるから、出られないまでもまずはそこへ|退避《たいひ》! メットも持っていけ、ないよりはマシじゃん!」  月詠、というのは|小萌《こもえ》先生の名字だ。とすると、この|警備員《アンチスキル》は小萌先生経由で上条の事を聞かされていたのかもしれない。  |警備員《アンチスキル》の女性は、怒鳴りながら自分の装備品を外して上条へ乱暴に放り投げた。彼はまるでバスケットボールを投げつけられたように、慌ててそれを両手で受け取る。 (……、)  上条はもう一度周囲を見回す。  そして、何となく知った。彼らが退かない理由を、知った。  上条は、さらに奥へと歩を進める。 「どこへ行こうとしてんの、少年! ええい、体が動かないじゃん! 誰でも良いからそこの民間人を取り押さえて!!」  |警備員《アンチスキル》が叫び、手を伸ばすが、上条には届かない。  怒号を聞いて何人もの人々が少年を止めようとするが、傷ついた彼らはそれすらもままならない。何の訓練も積んでいないはずの高校生一人すら、取り押さえる力も残されていない。  それでも、彼らは逃げ出さない。  彼らは正規の警察官ではない。どれだけプロとしての訓練を積もうが、その本質は『学校の先生』なのだ。言うなれば、子供|達《たち》の身に危険が迫るのを防ぐために夕暮れの通学路を巡回する行為の延長線上でしかない。  しかし、それ|故《ゆえ》に彼らは知っている。  それが|誰《だれ》に強要された訳でもないからこそ、自分の心の弱さに負ければ簡単に折れてしまうのを。そして心が折れた結果、 一体どこの誰がその被害を|被《こうむ》るのかを。  元々、|警備員《アンチスキル》や|風紀委員《ジヤツジメント》は|推薦《すいせん》や徴兵ではなく立候補によって成立する。  ならば話は簡単。  彼らは皆、誰に|頼《たの》まれるまでもなく、子供達を守りたいから志願してここに集まってきただけという話。 (くそったれが……)  |上条当麻《かみじようとうま》は、思わず舌打ちしていた。  少年は傷ついた|警備員《アンチスキル》達の制止を振り切って前へ進む。|闇《やみ》の先には、こんな|馬鹿《ばか》どもがまだたくさん取り残されている。それも現状を見る限り、極めて絶望的な状況で。  彼はその右手を握り締める。  そして前を見据えてただ走る。  たとえ正攻法で攻めた所で勝ち目がなくても、相手が|魔術師《まじゆつし》だというのなら、切り札たるこの右手を使えば戦局をひっくり返せるかもしれない、と考えながら。  上条がさらに通路の奥へ向かうと、何かがおかしい事に気づいた。 (物音が……しない?)  通路の奥では|銃撃戦《じゆうげきせん》が繰り広げられているはずだが、それにしては静か過ぎる。銃声も、足音も、怒号も、何も聞こえない。床を揺るがせるような|震動《しんどう》もやってこない。  上条の胃袋の辺りに、何か嫌な予感がのしかかった。  じわじわと。それはカビの菌糸が広がるように上条の全身を|蝕《むしば》んでいく。 (まさか……)  |薄暗《うすぐら》く、赤い照明に照らされた通路の先へ彼は走る。  その先にあったものは———。 「うふ。こんにちは。うふふ。うふふうふ」  |錆《さ》びた女の声が、薄暗い空間に|反響《はんきよう》した。  |漆黒《しつこく》のドレスを着た、荒れた金髪にチョコレートみたいな肌の女が通路の中央に立っている。 ドレスのスカートは長く、足首が見えないほどだった。随分と長い間引きずられていたせいか、スカートの端は汚れ、傷つき、ほころびが生まれている。  そして彼女の盾となるように、石像が立っていた。鉄パイプ、|椅子《いす》、タイル、土、蛍光灯、その他あらゆる物を強引に押し|潰《つぶ》し、練り混ぜ、形を整えたような、巨大な人形だった。  そして、その周囲。  バリケードらしきものの破片が、四方八方へ散らばっていた。まるで砲弾でも|直撃《ちよくげき》したような有り様だ。そしてその破片を浴びて、七、八人の|警備員達《アンチスキルたち》が床に倒れている。まだ息があるのか、細かく|震《ふる》えるように手足が動いていた。 「くふ。存外、|衝撃《しようげき》吸収率の高い装備で固めているのね。まさかエリスの直撃を受けて生き延びるだなんて。———まあ、おかげでこっちは存分に楽しめたけどよ」  笑みの端が、残虐な色を帯びる。  エリスの直撃、というフレーズの意味は分からなかったが、ニュアンスは伝わった。あの石像の放つ攻撃。バラバラに砕け散ったバリケードを見ればどんなものかは想像がつく。 「どうして……」  ……そんな事ができるんだ、と|上条《かみじよう》は絶句した。  対して、金髪の女は特に|感慨《かんがい》も持たず、 「おや。お前は|幻想殺し《イマジンブレイカー》か。虚数学区の|鍵《かぎ》は|一緒《いつしよ》ではないのね。あの…あの……何だったかし ら? かぜ、いや、かざ……何とかってヤツ。くそ、ジャパニーズの名前は複雑すぎるぞ」  女は面倒臭そうに金髪をいじりながら、 「別に何でも良いのよ、何でも。ぶち殺すのはあのガキである必要なんざねえし」 「何だと?」  その言葉に、上条は思わず耳を疑った。  この女がどうやら自分や|風斬《かざきり》を|狙《ねら》っているらしい事は、何となく察しはついていた。だが、 この投げやりな調子は何なのだろうか。 「そのまんまの意味よ。つ・ま・り。別にテメェを殺したって問題ねえワケ、だっ!!」  女が思い切りオイルパステルを|横一閃《よこいつせん》に振り回す。  その動きに連動するように、石像が大きく地を|踏《ふ》みしめた。ガゴン買 という強烈な|震動《しんどう》が走り、上条は大きくよろめいた。続けてもう一度石像が足を振ると、上条は耐え切れずに地面へ倒れ込んでしまう。  何らかのトリックでもあるのか、女だけは平然と立っていた。まるで風景から切り離されたように、彼女だけは揺れのダメージから完全に逃れている。 「地は私の力。そもそもエリスお前にしたら、|誰《だれ》も地に立つ事などできはしない。ほらほら、無様に|這《は》いつくばれよ。その状態で私に|噛《か》み付けるかあ、負け犬?」  勝ち誇るように暑う金髪の女を、上条は倒れたまま|睨《にら》み付ける。  だが、確かにこれは一方的な攻撃を可能とする戦法だろう。銃を持つ|警備員《アンチスキル》達も大した攻撃はできなかったに違いない。いや、下手をすると照準を狂わされ、同士討ちを引き起こした可能性すらある。  起き上がろうとする|上条《かみじよう》を|牽制《けんせい》するように、さらに女はオイルパステルを|一閃《いつせん》する。再び石像の足が振り下ろされ、地が揺れた。指先 本あの石像に触れれば|幻想殺し《イマジンブレイカー》が異能の力を|破壊《はかい》するだろうが、そもそも一歩も動けない。 「お、前……っ!」 「お前でなくて、シェリー=クロムウェルよ。覚えておきなさい……っと言っても|無駄《むだ》か。あなたはここで死んでしまうんだし、イギリス清教を名乗っても意味がないわね」  なに? と上条は|眉《まゆ》をひそめた。  イギリス清教と言えば、インデックスと同じ組織の人間だ。  そんな彼に、シェリーは|薄《うす》く笑いかけて、 「戦争を起こすんだよ。その火種が欲しいの。だからできるだけ多くの人間に、私がイギリス清教の|手駒《てごま》だって事を知ってもらわないと、ね?———エリス」  シェリーが手首のスナップを|利《き》かせてオイルパステルをくるりと回す。彼女の動きに引かれるようにエリスと呼ばれる巨大な石像が地を|踏《ふ》みしめて、その大きすぎる|拳《こぶし》を振り上げる。急造とはいえ、バリケードを|一撃《いちげき》で粉砕した拳だ。上条は|避《さ》けようとしたが、地面の|震動《しんどう》が移動を許さない。結果、死に物狂いで右手を振り回して 「離れろ、少年!」  不意に、横合いから叫び声が上がった。  傷ついた|警備員《アンチスキル》の一人が、倒れたままライフルを|掴《つか》んでいた。  上条が何か行動を起こお前に、小さな銃口が勢い良く火を噴いた。銃声と閃光が|薄暗《うすぐら》い地下 街の通路を塗り|潰《つぶ》す。空を引き裂く弾丸は、エリスを転倒させるために、次々と石像の脚部へ 激突する。  が、 「うわっ!?」  |頬《ほお》のすぐ横を突き抜けた烈風に、上条は思わず声を上げた。  通路を遮るエリスの体は鉄やコンクリートの寄せ集めだ。そんなトン単位の重量を持つ壁に向かって弾を放てば、ピンボールのように跳ね返るに決まっている。  |警備員《アンチスキル》はエリスから上条を守ろうとし、実際にエリスの歩はそこで止まっている。脚部を集中的に|狙《ねら》われているためか、地を踏み鳴らす事もない。|迂闊《うかつ》に足を動かせば、その後ろにいる シェリーに弾が当たりかねないからだ。  しかし、同時にエリスの体から反射する弾丸は四方八方へ無秩序にばら|撒《ま》かれる。結果として、上条は地に伏したまま一歩も動けなくなった。|警備員《アンチスキル》は一心不乱に銃を|撃《う》ち続けている。 上条はいつ直撃するか分からない跳弾に|怯《おび》えながら、両手で頭を守るしかない。 (くそ、少しでもあのデク野郎に触れる事ができれば……ッ!!)  上条とエリスの距離は三メートルもない。かと言って迂闊にエリスに接触する事はできない。当然ながら、エリスに近づけば近づくほど跳弾に当たる確率は高くなるからだ。  |狙《ねら》うとすれば、|装填《そうてん》の|瞬間《しゆんかん》しかない。 |警備員《アンチスキル》の持つライフルでは到底あの石像は倒せないだろう。あの銃の弾数は無限ではない。そう遠くない内に弾切れになる。新しい|弾層《マガジン》を差し替える数秒間のみは、必ず弾幕は途切れる。その時を狙ってエリスの|懐《ふところ》へ飛び込むしかない。  |上条《かみじよう》は、いつでも飛び出せるように、全身に力を行き渡らせ、  カツン、と。  唐突に、上条の後方から小さな足音が聞こえた。  連続する銃声が鼓膜を|叩《たた》く中で、その弱々しい足音は|何故《なぜ》か上条の耳に残った。  彼は跳弾を|避《さ》けるために倒れ込んだまま、首だけ動かして背後を見る。  非常灯の赤い光は|頼《たよ》りなく、とてもではないが地下街全体を照らし出す事はできない。最低限の順路のみを示す非常灯が照らし切れない|闇《やみ》が、通路の奥に広がっている。  足音は、その闇から|響《ひび》いてくる。  訓練された人間の足取りとは思えない。新たな敵であるような不敵さもない。まるでお化け屋敷の中をおっかなびっくり歩いているような、夜の学校へ忘れ物を取りに来た子供のような、そんな頼りない、ビクビクした足音だった。  上条の胸の中に、とてつもなく嫌な予感が|湧《わ》き上がる。  そんな彼の不安に|応《こた》えるように、 「……あ、あの……」  聞こえたのは、少女の声だった。  闇の中から赤い非常灯の下へ、声の主のシルエットが浮かび上がる。上条の見慣れた少女のものだった。|太股《ふともも》に届く長いストレートにゴムで束ねた髪が横から=房飛び出し、線の細いメガネをかけた———|風斬氷華《かざきりひようか》が、通路の真ん中を歩いてきた。 「|馬鹿《ばか》野郎!! 何で|白井《しらい》を待ってなかった!?」  銃声の渦に負けないような叫び声が地下街に響き渡る。  上条は無防備に突っ立ったままの風斬の元へ駆け寄りたかったが、跳ね回る弾丸のせいで立ち上がる事もできない。  対して、風斬は状況が|掴《つか》めていないのか、 「……あ。だって……」 「良いから早く伏せろ!!」 「……え?」  上条の叫び声に、風斬がキョトンとした顔をした直後、  ゴン!! と。彼女の頭が、大きく後ろへ跳ねた。 「あ?」  |上条《かみじよう》は、思わず間の抜けた声をあげていた。  当然ながら、人間の目は飛び交う弾丸を追い駆けられるほど高性能ではない。だが、何がどうなったかなど、|誰《だれ》でも予測できる。  エリスの体に当たって跳ね返ったライフル弾の一発が、|風斬《かざきり》の顔面に|直撃《ちよくげき》したのだ。  なにか、肌色のものが飛び散った。メガネのフレームが|千切《ちぎ》れ、吹き飛ぶ。  だが、そうと分かっていても認識できなかった。したくなかった。上条の頭が極度の混乱のせいで真っ白に飛びかける。銃声が、いつの間にか|止《や》んでいた。|警備員《アンチスキル》が、|呆然《ぽうぜん》とした様子で|撃《りつ》ち抜かれた少女を見ていた。シェリーは己のターゲットが突然目お前にやってきて思わ組形で自滅した急な展開に、若干ながら|眉《まゆ》をひそめていた。  そんな中で。  風斬は大きくブリッジを描くように後方へ|仰《の》け反り、  そのまま何の抵抗もなく、人形のように倒れ込んだ。  彼女の顔を構成するパーツが|壊《こわ》れる音が聞こえた。  バラバラ、と。長い髪の毛がついたままの頭の体表面らしきものが床に飛び散る。弾丸は顔の右側に直撃したみたいだが、|頭蓋骨《ずがいこつ》の形が変わったかのような|破壊《はかい》だった。砕けたメガネのフレームが地面を転がった。フレームの端には、千切れた耳のパーツが片方、そのままくっついていた。 「か、ざ———きりィ!!」  上条は慌てて立ち上がると、風斬の元へと走り出した。混乱のあまり、酔っ払いのようにメチャクチャな足取りになっている。  彼女の|側《そば》まで駆け寄った時、上条の足がビクンと止まっていた。  彼の顔が、|驚愕《きようがく》の一色で塗り|潰《つぶ》される。  そのあまりの惨状に、ではない。  確かに風斬の傷はひどかった。何せ、頭の右半分が根こそぎ吹き飛ばされている。弾丸が当たったというより、体内に埋め込んだ爆薬が起爆したようなメチャクチャな傷だった。日常的な暴力の|範疇《はんちゆう》を完全に|逸脱《いっだっ》しているせいか実感が|湧《わ》かず、ともすれば笑いが込み上げてきそうなほどに、圧倒的な破壊だった。  しかし、問題なのはそこではない。  それほどの出来事が問題にならないぐらいの、巨大な問題が立ち|塞《ふさ》がっている。  上条は、改めて風斬の傷口を見る。  頭の半分を吹き飛ばすほどメチャクチャな傷———だが、その中身はただの空洞[#「ただの空洞」に傍点]だった。  肉も骨も|脳髄《のうずい》も、何もない。  |風斬氷華《かざきりひようか》の傷口からは、一滴の血も流れていなかった。  まるで紙で作ったハリボテのような、ポリゴンで作った3Dモデルのような、そんな感じだった。表から見ると精巧な人の|皮膚《ひふ》であるのに対し、空洞から裏を見ると、それは淡い紫色の、のっぺりとしたプラスチックのような板でしかなかった。  空洞となった頭部の中心点に、磁石でも使っているように小さな物体が浮かんでいた。それは肌色の三角柱だった。底は一辺がニセンチ弱の正三角形で、高さは五センチ弱。その場に固定されたまま、ひとりでにくるくると回転する小さな三角柱の側面には、縦一ミリ横ニミリの長方形の物体がびっしりと収められている。超小型のキーボードのように見えた。カチャカチャと見えない指が走るように、三角柱の側面で長方形のキーがせわしなく進退している。 (なんだ、これ……)  |上条《かみじよう》は困惑した。目の前の光景があまりに非現実的で、『痛そう』とか『苦しそう』とか、そういう一般的な思考に結びつかない。  これも、能力の一つなのか。風斬氷華の『|正体不明《カウンターストツプ》』とは、こういう現象を引き起こす能力なのか。  単なる能力者と呼ぶには、風斬の姿はあまりに異様すぎる。例えば学園都市で七人しかいない|超能力者《レペル5》の|超電磁砲《レールガン》や|一方通行《アクセラレータ》にしたって、その肉体のべースが人体である事に変わりはない。それに対して、風斬はすでに根本の部分が人間からズレてしまっているように見える。 「う……」  どうして良いか分からない上条の前で、風斬が小さな|陣《うめ》き声をあげた。  意識が戻った事に反応してか、頭部中心の三角柱がくるくると回転し、側面のキーボードが高速で|叩《たた》かれていく。電動ミシンのような勢いだ。 (いや……)  上条はここにきて、ようやく現実的な寒気を覚え始めた。 (これ、逆なんじゃ……)  風斬の動きに合わせて三角柱が反応しているのではなく、三角柱の動きに合わせて風斬の仕草や表情が作られているような気がする。  あのシェリーですら攻撃を忘れ、その光景にギョッと肩を固まらせた。  三角柱側面からカチャカチャガシャガシャとキーボードを叩く音が豪雨のように|響《ひび》き渡る。トラックボールのホイールを回すように三角柱が回転していく。それがどう変換されているのか、顔の欠けた少女はゆっくりと顔を上げる。  風斬の、片方しかない目がぼんやりと上条の顔を見る。  まるで寝起きのような仕草で、痛みを訴えているような気配はない。  彼女はゆっくりとした動作で、上体だけ地面から起こすと、 「あ……れ? ……めがね。眼鏡は、どこ、です……か?」  自分がメガネをかけていた辺りを指で触れようとして……何かに気づいたらしい。一度、熱湯に触れたかのように手を引っ込めると、今度は恐る恐る自分の顔に指を近づけていく。 「な、に……これ?」  彼女の指が、その空洞の縁を、ゆっくりとなぞる。 「い、や……」  彼女の目が、すぐ|側《そば》にある喫茶店のウィンドウを|捉《とら》えていた。  そこに映る己の顔に気づいたのだろう。欠けてしまったその顔から、血の気が引いていく。残った眼球がせわしなく動き、内面の|焦《あせ》りや不安がそこに表出していた。 「いや……ァ! …な、に……これ!? いやぁ!!」  抑えていたものが爆発したような感じで、|風斬《かざきり》は髪を振り乱して思い切り叫んだ。上条の息が詰まる。風斬はまるでバランス感覚を失ってしまったかのような危うい動作で立ち上がると、ガラスに映る自分の姿から逃げるように走り出す。よほど混乱しているのか、あろう事か巨大な石像———エリスのいる方向へと。  彼女の動きにシェリーは我に返るとオイルパステルを横へ|一閃《いつせん》する。  石像のコンクリートでできた腕が|捻《うな》る。  羽虫を振り払うような|裏拳《うらけん》気味の|拳《こぶし》が、|風斬《かざきり》の腕と|脇腹《わきばら》を巻き込むように|直撃《ちよくげき》した。前へ進んでいたはずの風斬の体が真横へ吹き飛ぶ。そのままノーバウンドで三メートル近く宙を舞うと、その|華奢《きやしや》な体が勢い良く支柱へと激突した。そればかりか、風斬の体はピンボールのよ うに跳ね飛び、柱を支点として『く』の字を描くような軌道でエリスの後方———シェリーの足元まで転がった。  ぽとり、という生々しい音。  見れば、エリスの一撃を受けた風斬の左腕が、半ばからねじ切れていた。その脇腹も、まるで|踏《ふ》みつけられた菓子箱のように大きく形を変えてしまっている。 「あ……」  それでも。  それでも、風斬|氷華《ひようか》の体は、もぞりと|蠢《うごめ》いた。 「あ、あ、ア、ぁ、あああああああああああああああああああああああああああああああああ ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ あああああああああああああああああああああああああ!!!???」  |壊《こわ》れかけたその細い体から|送《ほとぼし》る絶叫に、|流石《さすが》のシェリーも|驚《おどろ》いたようだった。初めて風斬へ注意を向けるようにオイルパステルを構える。  だが、風斬にはそれが見えていなかった。見るだけの余裕すらもなかった。彼女は|千切《ちぎ》れた腕の中が空虚な空洞である事を知ると、まるで体についた虫を振り払おうとするような動きで手足を振り回して、そのまま通路の奥に広がる|闇《やみ》の中へと逃げるように走って行く。 「エリス」  シェリーが|呟《つぶや》いてオイルパステルの表面を軽く指先で|叩《たた》くと、エリスは近くの支柱を|殴《なぐ》りつけた。ガゴン!! と地下街全体が揺らぎ、|天井《てんじよう》がミシミシと音を立てる。  |瞬聞《しゆんかん》、ライフルを構える|警備員《アンチスキル》の真上の建材が崩れ、勢い良く降り注いだ。 「ふん、面白い。行くそ、エリス。無様で|滑稽《こつけい》な|狐《きつね》を狩り出しましょう」  |上条《かみじょう》と、生き埋めになった|警備員《アンチスキル》には目も向けず、シェリーは手の中でオイルパステルをくるくる回しながら、エリスを操りつつ闇の奥へと引き返す。おそらくは、風斬を追うために。 (かざ、きり……)  上条は、しばらく|呆然《ぽうぜん》と立ち尽くしていた。  今見た光景が、あまりにも鮮烈に焼きついていた。      3  |白井黒子《しらいくろこ》は戸惑っていた。  あの小憎たらしいシスターとお姉様を地上へ運んだ後にもう一度地下街へ戻ってみれば……|上条当麻《かみじようとうま》と、影の|薄《うす》そうな少女の姿がどこにもない。 (困りましたわね……。辺りを捜しても良いのですけれど)  幸い、今の所は|戦闘《せんとう》らしき物音は途絶えているが、いつまた再開されるか分からない。そして、この場には民間人が数十人もいる。  危険度で言えば、当然ながら直接|狙《ねら》われている上条|達《たち》の方が高いだろう。かと言って、流れ弾に当たるかもしれない彼らを丸っきり無視して良いはずがない。  捜しても見つかるかどうか分からない当事者達と、とりあえず目お前にいる部外者達。  少しだけ考えて、|白井《しらい》は目お前にいる人達を先に|避難《ひなん》させる事にした。 (命の価値に大小はない、ですわね。お姉様が心配するから探しに行きたいのは山々ですけれど、かと言ってこの人達を置き去りにするのも違う気がしますわ)  白井はため息をつきながら、閉じ込められて|怯《おび》える学生達の元へと歩み寄った。  天井から降ってきた建材は意外に軽く、生き埋めにされた|警備員《アンチスキル》も特に大きな|怪我《けが》はなかった。周囲に倒れている|警備員《アンチスキル》達も負傷こそしているものの死者は出なかったらしく、傷口に包帯を巻いたり針と糸で|縫《ぬ》いつけたりしている。  上条は|警備員《アンチスキル》の上から建材をどかすのを手伝うと、制止する彼らの声を振り切って、|風斬《かざきり》やシェリーを追うために通路の奥へと走り出した。この辺りは多くのデパートが立ち並んでいるらしく、デパート地下同士を複雑に通路が|繋《つな》げていた。先ほどまでの一本道とは違い、|蜘蛛《くも》の巣のように入り組んだ構造をしている。 (くそ、一体何がどうなってんだ……?)  シェリーがイギリス清教の人間だと名乗ったのも気になるが、それが吹き飛ぶぐらいに風斬|氷華《ひようか》が気にかかる。  彼女は自分の身に宿る異常な部分に、気づいていないようだった。  鏡に映る己の姿を化け物のように見て、悲鳴をあげたのだ。  上条には、彼女が今日この日のこの|瞬間《しゆんかん》に初めてその事実を突きつけられてパニックを引き起こしたように見えた。 (……って事は、やっぱりあれは風斬の能力じゃねえのか? それとも、あいつ自身が自覚していない能力者なのか? ちくしょう、何にも分かんねえな。そもそも、あいつはあのままで|大丈夫《だいじようぶ》なのか? |治療《ちりよう》するにしても……どうすれば良い?)  そこまで考えて、上条は思わず立ち止まってしまう。  風斬の、あの異様な姿が脳裏に浮かぶ。彼女を助けるにしても、どういう方法を取れば助け た事になるのか。そこでもう疑問が生まれてくる。 (シェリーを止めるか、逃げた風斬と合流するのが先か。くそ、どうする?)  |上条《かみじよう》は悩んだ末に、携帯電話を取り出した。  とにかく、|風斬氷華《かざきりひようか》には分からない問題が多すぎる。そして能力について、科学サイドの 人間で、上条よりも確実に知識を持っている人間となれば、あの人しかいない。  |月詠小萌《つくよみこもえ》だ。  彼女なら何か知っているかもしれない、と上条は考えたが、携帯電話は圏外だった。そういえば、ゲームセンターで電話がかかってきた時も、まともに会話ができなかった。 (まずは、地下街に設置されたアンテナの近くまで行かねーと)  上条が周囲を見回しながら歩いていると、少し離れた所にスポーツ用品店が見えた。その壁に、アンテナらしきものが取ウ付けてある。  彼はそのアンテナの真下まで行くと、ようやく携帯電話を操作する。  コール音は二回で、小萌先生は電話に出た。 『あっ! 上条ちゃんですか!? やったやった、ようやく|繋《つな》がったですー。上条ちゃん、今までどこにいたんですかー?』 「? 先生、|俺《おれ》の事捜してたんですか?」 『|姫神《ひめがみ》ちゃんが一度そっちに電話かけたはずなんですけど、電波の調子が悪かったそうなのですよー?』  上条は首を|傾《かし》げた。そうなると、ゲームセンターでのあの通話は姫神からのものだったんだろうか。 『上条ちゃん上条ちゃん。ちょっと大事な始話があるのです。あのですね』 「先生。悪いけどこっちも立て込んでるんだ。先にこっちの話から済ませてくれませんか?」 『え? ……本当に大事なお話なのに。まあいいのです。何なのですかー?』  あっさりと|退《ひ》いてくれた小萌先生に、上条は心の中で真剣に感謝する。  上条は小萌先生に、風斬の状態についてかいつまんで説明した。もちろん風斬の名前とか|銃撃戦《じゆうげきせん》などと言った部分は隠して、『これこれこういう症状があるんだけど、そういう能力はあるのか?』というだけだが。  なのに、小萌先生はほんの少しだけ考えるような間を空けると、 『……上条ちゃん。それはもしかしてカザキリヒョウカさんの事じゃないですか?』  たった一言で、言い当ててしまった。  上条が思わず絶句すると、小萌先生はやや|緊張《きんちよう》を解いた声で、 『んーっと。実は先生の大事なお話というのも、彼女についてなのです』 「え? 何で先生が、風斬について調べてるんですか?」 『あのですね、上条ちゃん。学校にはセキュリティというものがあるのです。能力開発用の機密情報もありますし、嫌な犯罪も増えてますからねー。転入生でもない部外者さんが勝手に校内に入ってきちゃったら、身元を調べられても文句は言えないのですよ?』  シスターちゃんは面識あるのでチェック甘いですけどねー、と|小萌《こもえ》先生は言う。  ふと、|上条《かみじよう》は昼過ぎに校門の近くで|姫神《ひめがみ》から言われた言葉を思い出した。  ———でもね。記録では。転入生は私一人しかいないはずなのよ。 『それで、上条ちゃんの疑問に対する答えですけど……確かにそういった能力者はいます。例えば|肉体変化《メタモルフオーゼ》。自分の体を、自分の思った通りに作り変える能力者さんですね』 「じゃあ、|風斬《かざきり》は……」 『いいえ。|肉体変化《メタモルフオ ゼ》は大変|稀少《きしよう》な能力で、学園都市でも三人しかいないんです。その中に、カザキリヒョウカなどというお前は存在しません』小萌先生の声が、わずかに硬くなる。『そもそも、ただの|肉体変化《メタモルフオーゼ》能力者では、説明がつかないのですよ』 「何ですか、それ」  上条は何となく嫌な予感がした。  その予感が正しいものかどうか、丸っきり判別できないが。 『上条ちゃん。さっきも言った通り、学校にはセキュリティがあるのです。敷地の周囲に防犯カメラの|類《たぐい》がですねー』  ですが、と小萌先生は一度言葉を切って、 『|件《くだん》のカザキリヒョウカさんは、どのカメラにも映っていませんでした。|警備員《アンチスキル》側に連絡して衛星写真を確認してもらいましたが、やはり怪しい影はありません。……あの時、上条ちゃんの|側《そば》でにこやかに会話していたカザキリヒョウカさんは、一体どこから進入してきたのでしょうか?』 「な……」 『彼女が食堂から姿を消した時、上条ちゃんはそれに気づきましたか? 先生は気づけませんでした。まるで、突然虚空へ消えてしまったように見えたのですよー[#「突然虚空へ消えてしまったように見えたのですよー」に傍点]』 「ちょ、ちょっと待ってください! じゃあ何ですか、風斬は|肉体変化《メタモルフオーゼ》と|空間移動《テレポート》の両方を持った能力者だっていうんですか!?」 『上条ちゃん。|多重能力者《デユアルスキル》は脳への負担が大きすぎるため実現不可能と断じられてますよー。もっとも、小萌先生の仮説はそれ以上に現実離れしているのですけどねー』  |何故《なぜ》だか、先を聞くのがためらわれた。  しかし、進まない事には始らない。、上条はごくりと|喉《のど》を鳴らしたあと、 「……小萌先生は、どう考えてんですか?」  先生の考えはですねー、と小萌先生は間延びした声を出した後に、 『AIM拡散力場。これが深く|関《かか》わってると思うのですよー』  言われた所で、上条にはいまいちピンと来なかった。 「AIMって、あれですか? 能力者が無意識の内に放ってる力だとか、何とか」 『ですです。加えて言うなら、AIM拡散力場は機械で計測しなければ分からないほど微弱なもので、能力者によって放たれる力の種類も異なる、という所ですー』 「??? それが、|風斬《かざきり》とどう関係あるんですか。まさか、風斬が無意識の内に放ってる力が |無茶苦茶《むちやくちや》な|代物《しろもの》だとでも?」  |上条《かみじよう》の問いに|小萌《こもえ》先生は答えず、 「先生は言いましたよね、今朝。大学時代の友人の研究に付き合って、AIM拡散力場について調べていると』何か紙をめくるような音がぱらぱらと聞こえ、『入様の論文内容を漏らすのは本来ご|法度《はつと》なんですけど、上条ちゃんの口が堅いのを信じてます。……その研究内容はあれです、複数のAIM拡散力場がぶつかった時に生まれる、余波についてですね』  ますます何が言いたいのか分からなくなってくる。それは本当に風斬|氷華《ひようか》と関係があるのか。ひょっとしたら妙な|愚痴《ぐち》や世間話に巻き込まれてないか? と上条が首をひねっていると、 「上条ちゃん。人間って、機械で測ったらいろんなデータが採れますよね?』 「え?」 『熱の生成・放出・吸収。光の反射・屈折・吸収。生体電気の発生と、それに伴う磁場の形成。酸素の消費と二酸化炭素の排出。もっと基本的な所なら質量や重量。……その他、あげればキリがないと先生は思いますー。それこそ扱う機械の種類に応じて、数千数万ものデータが採れるはずですよ』 「それが、どうかしたんですか?」  上条は周囲の|暗闇《くらやみ》に気を配りつつ、先を促す。 『あくまで推測なのですけど』小萌先生は少しだけ間を空けて、『逆に、それら人間らしいデータが全て揃ったとしたら[#「それら人間らしいデータが全て揃ったとしたら」に傍点]、そこに「人間」がいる事にはなりませんかー?』  な……、と上条の声が詰まった。 『学園都市には、様々な能力者がいます。そして、彼らは常に無意識の内に微弱な力を放出し てしまう。一人一人は|些細《ささい》な力でしかなくても、それがいくつも重なり合って、一つの意味をなすとしたらどうでしょうか。ほら、アルファベットってBとかPとか一文字だけじゃ何の意味もないじゃないですか。それをいくつもいくつも並べていくとSELECTとかSTARTとか意味のある言葉になりますよねー。それこそがカザキリヒョウカさんを作っている基盤だとしたらどうでしょうか、思うに、「風斬氷華」とは無数のアルファベットを並べ作った|命令文《コマンド》が集まったプログラムコードのようなものなのですよー、、街中にいる学生さん|達《たち》がアルファベットを一文字ずつ刻み付けてしまっているんですねー。そのアルファベットが|命令文《コマンド》を作り、それら|命令文《コマンド》が合わさってプログラムを作り上げているのです』  小萌先生は言った。  風斬氷華は、まるで突然虚空に消えてしまったようだと。  そうではなく。  実は、初めから風斬氷華なんていう人間が存在しなかったとしたら[#「初めから風斬氷華なんていう人間が存在しなかったとしたら」に傍点]?  プロセスは逆で、  人がいるから体温を感じていたのではなく、体温が計測されたからそこに人がいると思い込んでいただけだとしたら?  発火能力者が体温を作り、念動能力者が肌の感触を作り、音波能力者が声の音を作り。  それらの様々なAIM拡散力場が無数の数字やアルファベットを並べて|命令文《コマンド》を作り、それを組み合わせて入力される『プログラム』のように、この世界に|完壁《かんぺき》な人の形を作り出してしまっているとしたら。 「ちよ……待ってください! いくら何でも暴論すぎますよ! 人聞らしいデータって簡単に 言いますけどね。さっき先生が自分で言ったじゃないですか。そんなの数千数万ものデータが必要になるって!」 『ですー。けど、学園都市には二三〇万人もの能力者さんがいますよ? 例えば体温は|発火能力者《パイロキネシス》が、生体電気は|発電能力者《エレクトロマスター》が、それぞれ知らない間に担当してしまっているのです。それらがカザキリヒョウカさんというアプリケーションを作ってしまっているのですー』  一秒のためらいもない確信めいた声に、|上条《かみじよう》は息を詰まらせる。  指先から体温が消失していく。  今立っているこの場所が、敵の|潜《ひそ》む戦場である事すら忘れそうになる。  確かに念動力を使って上手に指を押し返せば、何もない所に人の肌の弾力を感じるようにな るかもしれない。空気の振動を操れば『声』が聞こえるようになるだろうし、光の屈折を操れ ばその姿を『見る』事もできるだろう。 『|姫神《ひめがみ》ちゃんの話では、不完全なカザキリヒョウカさん[#「不完全なカザキリヒョウカさん」に傍点]の|目撃談《もくげきだん》は昔からあったそうなのです。おそらく当時のカザキリヒョウカさんは、|幽霊《ゆうれい》みたいな|曖昧《あいまい》な存在だったと思います。プログラムコードで言うならアルファベットの種類や数が欠けた|命令文《コマンド》だったためまともに機能できず、視覚や|嗅覚《きゆうかく》など五感で|捉《とら》える事はできなかったのですねー。五感で感じ取れないのに気配などは感じ取れたのかもしれませんけど。|霧ヶ丘《きりがおか》にあると言われるカザキリヒョウカさんの研究室というのは、元々この幽霊みたいに曖昧な存在を詳しく調べるためのものだったのではないでしょうか、あるいはAIM拡散力場の応用研究かもしれませんけどー』  幽霊みたいに曖昧な存在。  上条は|風斬《かざきり》の頭部に空いた空洞を思い浮かべてゾッとしたが、同時に思い出す。 「けど、風斬自身はその事に気づいてなかったみたいなんですよ。自分はあくまで普通の人間で、だから自分の異常な正体に気づいた時は|怯《おび》えて逃げ出した。本当に風斬がそんな、生まれた時からずっと人聞以外のモノだとしたら、おかしいじゃないですか」 『どこがですかー?』 「どこがって……」 『ですから、生まれた時からずっと自分が人間だと思い込んでいれば[#「生まれた時からずっと自分が人間だと思い込んでいれば」に傍点]、彼女は自分の存在に何の疑問も持たないはずですよー?』 「な———」  ———んだ、それは……と|上条《かみじよう》は|驚愕《きようがく》する。  |小萌《こもえ》先生の話では、|風斬氷華《かざきりひようか》とは学園都市に住む二三〇万人分のAIM拡散力場によって生み出された存在……らしい。  つまり、そこに彼女自身の意思は関係ない。  彼女の信じる|想《おも》いすらも、外部の手によって勝手に作り出されただけ。 『結論を言ってしまえば、カザキリヒョゥカさんは人間ではありません。AIM拡散力場が生み出した、物理現象の一つという事になりますねー』  小萌先生の言葉に、上条の全身から血の気が引いた。 「ちくしょう……そんなのって、アリなのかよ。ひどすぎる」 『ひどい、ですか? 上条ちゃん、それは間違っているのですよ』 「……? 何ですか、それ。まさか、単なる自然現象に感情移入するのは|馬鹿馬鹿《ばかばか》しいとか、そういう話をしたいんですか、先生」 『逆ですよ、上条ちゃん。あんまりそういう事を言ってると、先生は本格的にお説教しなくてはなりません』  小萌先生は、|何故《なぜ》か怒っているようだった。 『よいですか上条ちゃん。仮説が正しければカザキリヒョウカさんは入間ではありません。人間に必要な要素を|全《すべ》て兼ね備えていても、やはり彼女は人間とは呼べません。どれだけあがいても、どんなに努力を重ねても、彼女の本質は触れれば消えてしまうような、|修《はかな》い幻想なのです』  ですが、と小萌先生は一度言葉を切って、 『そもそも、ヒトでないといけない理由は何ですか[#「ヒトでないといけない理由は何ですか」に傍点]?』  はっきりと。迷わずに言い切った。 『先生はカザキリヒョウカさんとお話をした事がありませんから何とも言えませんけど、上条ちゃんの目から見て、どうでしたかー? カザキリヒョウカさんは、ただそこに|仔《たたず》んでいるだけの命も心もない幻想にすぎませんでしたか? 』 「……、」  違う。そんな事はない。上条は思い出す。インデックスと|一緒《いつしよ》にいた風斬は、確かに楽しそうだった。上条の言葉にいちいち|怯《おび》える仕草を見せる風斬は、確かに自分の意思で何かを考えて、自分の意見で行動していた。 『カザキリヒョウカさんは、簡単に失われて良いほど軽い存在でしたか? 人間だとかそうでないとか、本物だとか|偽物《にせもの》だとか、そんなくだらない理由だけで仲間外れにして良いような存在でしたか?』 「……、」  違う。そんな訳があるか。|上条《かみじよう》は断言する。|風斬《かざきり》は、苦しそうだった。自分も知らない正体を突きつけられて、その事実を受け入れられなくて、どうして良いかも分からずに、|闇《やみ》の中へ逃げるしか道のなかった、たった一人の少女。  上条は奥歯を|噛《か》み締める。  彼女が見殺しにされても良い事になんか、なってたまるか。  たとえそれが、右手で触れれば消えてしまうような幻想に過ぎなくても、  彼女が消えても良い理由になんか、なってたまるか。 『うふふ、それでよいのです。先生はまっすぐな方向に育ってくれる子羊ちゃんは大好きなのですよー』  |小萌《こもえ》先生の笑い声に上条はホッとしたが、別の疑念が|湧《わ》いてきた。  確か、小萌先生は大学の友人の手伝いでAIM拡散力場の事を調べていたはずだ。 「先生。一個だけ尋ねたいんですけど、先生の友達っていうのは風斬の正体を調べているんですか?」 『どうなんでしょうねー。確かに複数のAIM拡散力場による|影響《えいきよう》を調べているようですけど、こんな事まで気づいているかどうかは分からないです。少なくとも先生が今まで聞いてきた話の中にはカザキリヒョウカさんにまつわる内容はなかったですねー。この仮説はあくまで友人のデータを元に、先生が自分で組み立てたものですよー』 「……、」 『あれ、どうしたんですか|黙《だま》り込んじゃって。あ、|大丈夫《だいじようぶ》ですよー。友人にはこの話は伏せておきます。そんな報告をしなくても別に論文の完成に影響はありませんしね』 「でも、|俺《おれ》には価値が分からないけど、これって研究者にとっては結構重要な発見なんじゃないですか。その友人だって、風斬の正体を知れば|黙《だま》ってないんじゃ……」 『あはは。確かに仮説通りだった場合、彼女の存在はAIM分野に溢いては革新的な発見です。発見者は歴史に名前が載るかもしれませんねー。その代わり、カザキリヒョウカさんは冷たい部屋に閉じ込められちゃいますけど。上条ちゃん、あなたはまさか先生がそんな展開を望んでいるとでも思っているんですか?』 「それは……」 『思っているのだとすれば、先生は少々真剣に落ち込んでしまうのです。上条ちゃんは小萌先生を|誰《だれ》だと思っているんですか? よいですか、小萌先生は先生なんです。|馬鹿馬鹿《ばかばか》しいほど単純ですけど、小萌先生にとってはそれが一番強力な心の柱です。そして先生のお仕事には、自分の生徒の大事な治友達を売り渡して名声を得る事など含まれないのです』  小萌先生は、『大事なお友達』と言ってくれた。  そこにどれだけの意味が含まれているかを、|上条《かみじよう》はようやく知った。 『うふふ。くれぐれもカザキリヒョウカさんを泣かさないようにしてくださいねー』  それではなのです、と彼女は言って通話が切れた。 「……、」  上条はしばらく携帯電話に視線を落としていたが、やがてパチリと折り畳むとズボンのポケットにねじ込んだ。  やるべき事は分かっている。  どこへ行くべきかも理解している。 「けど……」  上条は思わず奥歯を|噛《か》み締めた。  あの石像。とてもではないが一人では|太刀打《たちう》ちできない。同じ土俵にも立てない。ヤツが足を|踏《ふ》み鳴らして起こす強大な|震動《しんどう》だけで、上条は立っている事もできずに地に伏せる羽目になってしまう。 (考えろ、落ち着け。そして迅速に答えを導き出せ。くそ、|俺《おれ》の失敗の結果が跳ね返るのは|風斬《かざきり》の方かもしんねーんだぞ!)  元より容易に解決策が浮かぶはずがないのは認識している。とにかく思考を停滞させるな、とばかりに彼は思いつく限りのあらゆる可能性を頭の中に走らせていく。  |奇襲《きしゆう》。 (ダメだ。あの踏み付けの震動はでかい石像を中心に、全方位へ放たれる。後ろへ回った所で|避《さ》けられるような|攻撃《こうげき》じゃねえ!)  武器。 (これもダメ。大体、あんなトン単位の巨重の塊を吹き飛ばす武器って何だ? ナイフや金属バットでどうにかできる相手じゃねえんだよ! |警備員《アンチスキル》辺りならロケットランチャーでも持ってるかもしんねえけど、そんなもんただの高校生に扱える訳ねーだろ!)  上条は|焦《あせ》りのあまり両手で頭を|掻《か》き|雀《むし》った。それで何か解決策が浮かぶなら一本残らず髪の毛を引き抜いてやっても良いと思う、一秒一秒時間が経過していくごとに|緊張《きんちよう》の汗の量が増えていき、その気持ちの悪さに上条は思わず|獣《けもの》のように|吼《ほ》えそうになって、 ふと、ガラスのウィンドウに映る自分の背後に|誰《だれ》かが立っていることに気づいた。 「!?」  風切り音が鳴るぐらいの勢いで上条は振り返る。  そこにいたのは、 「は、」  上条は、思わず笑っていた。いや、肺に|溜《た》まっていた息を吐いたら、自然と笑い声になっていた。完全に、己の意思とは無関係に表情が動いている。  しばらく彼は信じられないという顔をしていたが、やがて今度は自らの意思で笑みを作った。 「そうだよなあ————」  少年は笑う。 「———くっだらねえ。そりゃ|誰《だれ》だってそう思うだろうさ。なあ、|上条当麻《かみじようとうま》?」  少年は不敵に笑って、覚悟を決めた。  あの巨大な石像に対する最後の切り札が、彼お前にあった。      4  |風斬氷華《かざきりひようか》は、今になってようやく焼けるような痛みを感じ始めていた。 「う、ぐうう……っ!?」  顔面の半分、左腕、左の|脇腹《わきばら》。それぞれに|灼熱《しやくねつ》で溶けた鉄を流し込まれたような激痛が|襲《おそ》いかかる。風斬は走るどころか立っている事もできず、冷たい地面に倒れ込んだ。少しでも気を紛らわせるためか、彼女は両足を振り乱し、地面の上を転がり回る。  常人ならば文字通り死んでいてもおかしくないほどの痛覚情報を|叩《たた》きつけられながら、死への|逃避《とうひ》すらも許されない。生き地獄とはまさにこの事だった。  だが、それも長くは続かない。 「あ……?」  恐るべき変化が起きる。  ぐじゅり、と。ぜリーが崩れるような音と共に、傷口が|塞《ふさ》がり始めたのだ。まるでビデオの早送りのように、人間ではありえない速度で、あっという間に開いた空洞が修復されていく。  発狂すると思うほどの激痛が、熱が冷めるように引いていく。  明らかに致命傷のくせに。  生きていては、おかしいはずなのに。  肌だけではない。吹き飛ばされたはずのメガネや、破れたはずの衣服の端々が、ゆっくりとした動きでじわじわと元に戻っていく。 「あ、ああ……っ!」  痛みが引いていくと同時に、それまで考える余裕すらなかった頭が、思い出したように思考を再開させてしまう。  自分の体の中は、空っぽだったという事実が。  普通だと思っていた自分の正体が、異常な存在だったという真実が。  封じた|記憶《きおく》の|蓋《ふな》が開くように、彼女の意識を埋め尽くす。 「あがっ……ぎっ! が、ぐ……う、うううう!! げほっ、ぐ……うえ、かっ……ぎ、ぎぎ……っ! ひひゅ、がっ、ご、ぐぐ……い、ぎっ! い、ぃ、うう……が、ぁあああ!!」  言葉を組み立てるほどの余裕もなく、かと言って叫ばずにはいられないほどの巨大な重圧が |風斬氷華《かざきりひようか》の心を押し|潰《つぶ》す。  と、そんな風斬の絶望に引き寄せられるように、さらなる絶望が現れる。  ズシン!! という地下街全体を揺るがす|震動《しんどう》。  まるで暴れ馬に振り落とされるように宙を舞う風斬は、それでも|暗闇《くらやみ》の先へ目を向ける。  そこに、鉄とコンクリートで固めた、|歪《いびつ》な化け物がいた。  その化け物の後ろには、さらに恐ろしい金髪の女が立っている。  彼女は笑っている。  人間の方が、よっぽど|歪《ゆが》んだ笑みを浮かべる事ができると言わんばかりに。 「ひ、……あ……っ!」  風斬は、あの化け物の大木のような腕で|殴《なぐ》り飛ばされた激痛を思い出して、反射的に逃げ出そうとした。だが、恐怖と|焦《あせ》りのあまり、思うように足を動かせない。  対して、女は何も告げない。  無言で白いチョークのようなオイルパステルを振るうだけで、石像は風斬の背中を|狙《ねら》って|拳《こぶし》を放つ。  風斬はとっさに地面に伏せようとした。  だが、一歩遅れてなびいた長い髪が石像の拳に引っかかる。まるで頭皮を丸ごと引き|剥《は》がすような激痛と共に、彼女の体は砲弾のように飛ばされる。 「げう……ッ!?」  ゴンギン!! と風斬の体の中で|凄《すさ》まじい音が鳴り|響《ひび》く。恐るべき勢いを借りて地面を滑った風斬は、まるで巨大なヤスリに全身を削られたような痛みに|襲《おそ》われた。 「あ、あ、あ……ッ!」  地面には何メートルもの長さにわたって強引に剥がされた|皮膚《ひふ》の破片や長い髪の毛などが一直線に走っていた。  ぐずぐずと、風斬の顔から異音が聞こえた。  彼女が己の顔を手で触れてみると、顔の表面が不気味に波打っていた。地面を引きずり回され剥がされた顔の部品が、再び元に戻ろうとしているのだ。 「何なのかしらねぇ、これ」  金髪の女が、ようやく声を発した。目の前の光景がおかしくておかしくて仕方がないという風に笑いながら。 「虚数学区の|鍵《かぎ》とか言われてどんなものかと思ってみれば、その正体はこんなもんかよ! あは、あはは! こんなものを後生大事に抱え込むなんざホントに科学ってのは狂ってるよなぁ!!」  げらげらと笑い続ける女の前で、風斬の体の修復が始まる。べちゃべちゃと湿った音を立て、ものの数十秒もしない内に顔の形が整ってしまう。 「ぃ、ひっ!?」  |風斬《かざきり》は自分の体に恐怖と|嫌悪《けんお》を覚え、シェリーは愉快げに言い放つ。 「くっく。しかしこれって殺すのも面倒臭そうね。ああ、それなら試してみるか。ひき肉になるまでぐちゃぐちゃに|潰《つぶ》しても元に戻るかどうか」 「ど、どう……して……?」 「あん?」 「どうして、何で……こんな、こんな……ひどい、事……っ!」 「んー? 別に、理由なんかないけど?」  あまりと言えばあんまりな言葉に、風斬は言葉を失った。 「別にあなたでなければならない理由なんてないの。あなたじゃなくてもいいの。でも、あなたが一番手っ取り早そうだったから。理由はそんだけ。な、簡単だろ?」  何だそれは、と風斬が思お前に、女はオイルパステルを振るい、石像エリスが倒れたままの風斬に|拳《こぶし》を放つ。彼女は何とか横へ転がったが、エリスの拳が地面を砕き、その破片が彼女の全身に突き刺さった。風斬の体が|衝撃《しようげき》に跳ね飛ぶ。|凄《すさ》まじい音が|響《ひび》き、体のどこかがねじ曲がった。あまりの痛みに頭が真っ白になる。だが、それも地面をごろごろと転がっている間に、みるみる修復されていく、遠く離れた十字路の辺りまで吹き飛ばされたのに、それでも彼女は息をしている。  また死に損なった。  なのに、自分を殺そうとしているはずの女は、失敗しても表情を変えない。  まるで生きようが死のうがどっちでも良いと告げているかのごとく。  己の命をあまりにも軽々しく扱われて、屈辱のあまり風斬の|瞳《ひヒみ》から涙が|浴《あふ》れた。悔しいと分かっていても事態を打開できない自分の弱さが、さらに腹が立った。  そんな風斬の顔を見て、金髪の女は興が|削《そ》がれたような顔を浮かべて、 「おいおい。何なのようその|面構《つらがま》えは?  えー、なに? ひょっとしてあなた、自分が死ぬのが怖いとか言っちゃう人かしら?」 「え……?」 「おいおいおいおい。ナニ当然ですっつ!顔してんだよ。いい加減に気づきなさいっての。ここまでやられてピンピンしてるテメェがまともな人間なはずねえだうが」 「……、」 「なーに顔を真っ青にしてんだよ。それで保護欲あおってるつもりか、そんなんありえないでしょう。この世界からあなたの存在が消えた所で何か損失がある訳? 例えば、ほら」  金髪の女は、手の中にあるオイルパステルの側面を人差し指で軽く|叩《たた》く。  |瞬間《しゆんかん》、石像が真横に拳を振るった。壁に直撃したその腕が、真ん中から|千切《ちぎ》れ飛ぶ。 「私があなたにしている事って、この程度でしょう[#「この程度でしょう」に傍点]?」 「あ……」 「化け物の手足が|壊《こわ》れた程度で、お涙|頂戴《ちよ つだい》なんてありえねーっつってんの。分かってんのかお前? 何を物体に感情移入してんだよ。モノに対して|擬人化《ぎじんか》して涙なんか浮かべっと思ってんのか気持ち|悪《わ》りいな。私は着せ替え人形の服を脱がして|興奮《こうふん》するような変態じゃねえんだよ」 「あ、ぅあ……っ!!」  絶望する|風斬《かざきり》の前で、石像の壊れた腕が再び再生していく。周囲のガラスや建材を巻き込んで元に戻っていくその姿は、奇しくも彼女と良く似ていた。  これが、風斬|氷華《ひようか》の本質。  人の皮を|剥《は》いだ後に残る、|醜《みにく》い醜い本当の姿。 「これで分かったでしょう? 今のあなたはエリスと同じ化け物。あなたに逃げる事なんてできない。そもそもどこへ逃げるの? あなたみたいな化け物を受け入れてくれる場所ってどこかしら? だから分かったろ。分かれよ。何で分からないの? テメェの居場所なんかどこにもないって事が」  女の手の中でオイルパステルがふらふらと揺れる。石像がゆっくりと迫り来る。  風斬氷華は吹き飛ばされたまま、十字路の真ん中で、ただそれを|呆然《ぼうぜん》と見る。  動けない。  肉体的な損傷がある訳ではない。体の傷などとっくに治っている。  精神的な恐怖という訳でもない。心は逃げうと現在も叫んでいる。  しかし  一体、どこへ逃げれば良いのだろう?  風斬は思い出す。  ———学校へ行くのは、今日が初めてだった。  だからこそ、彼女は自分が転入生だと思い込んでいた。  ———給食を食べるのも、今日が初めてだった。、  だからこそ、彼女は学食レストランに入ってみたいと言ったのだ。  ———男の人と話すのも、今日が初めてだった。  だからこそ、彼女はあの少年が何となく苦手だと信じていた。  ———自販機でジュースを買うのだって、今日が初めてだった。  ジュースの買い方は知識として知っているくせに、飲んだという経験が[度もないという異常な状態を、今までどういう理属で納得していたのか。  初めて。初めて。初めて。初めて、初めて、初めて、初めて初めて初めて。一つ残らず、全部まとめて、片っ端から、何から何まで、|全《すべ》てが初めて。  どうして、その時点で気づかなかったのか。じゃあ、自分は今まで一体何をしてきたのだという疑問に。まるで、それまでの過去が存在しないようだという事に。自分が、この存在が、たった今、|霧《きり》に浮かんだだけの幻影のようなものに過ぎなかったという事実に。  目を|逸《そ》らしても、意味はないのに。  傷を見ないようにした所で、痛みが消えるはずがないのに。  何を思った所で、もう遅い。|風斬《かざきり》には逃げ場などない。隠れる所なんてない。自分で自分の正体も分かっていないような、こんな|醜《みにく》い自分を温かく迎えてくれるような、そんな楽園はこの世界に存在しない。  スカートのポケットには、ある白い少女と|皿緒《いつしよ》に写った写真シールが入っている。  だけど、そこで楽しそうに笑っているインデックスは、知らない。  風斬|氷華《ひようか》の正体がこんな化け物である事なんて、知らない。  あの子は。  この皮一枚下にある正体を知ったら。  きっと、もう笑ってはくれない。それどころか、何も知らずに風斬へ笑みを向けていた事そのものを、|忌《い》まわしき|記憶《きおく》のように思うかもしれない。同じく写真の中で|微笑《ほほえ》んでいる風斬氷華は、もうどこにもいないのだから。ここには人の殻を破って脱皮した、醜い化け物しかいないのだから。  風斬のまぶたに、涙が浮かぶ。  温かい世界にいたかった。|誰《だれ》かと一緒に笑っていたかった。一分でも良い、一秒でも構わない。少しでも|穏《おだ》やかな時間が過ごせるならば、死にもの狂いで何にでもすがりたかった。  けれど、結局。  彼女がすがって良いものなど、何もなかった。 「泣くなよ、化け物」  金髪。の女が、|嘲笑《あざわら》うように告げてオイルパステルを振り回す。 「アナタガナイテモ、キモチガワルイダケナンダシ」  大木すら|叩《たた》き折る事のできそうな石像の腕が、ゆっくりと迫る。  ああ……、と風斬氷華は絶望の中で思う。  確かに、自分は死にたくない。  だけど、それ以上に、これから先誰にも必要とされないで、顔を合わせただけでみんなから石を投げつけられるような、そんな化け物として扱われるぐらいなら、ここで死んだ方がマシかもしれないと。  彼女はぎゆっと両目を閉じる。  これから|襲《おそ》い来るであろう、地獄のような激痛に身を固めていたが、  |衝撃《しようげき》は、来ない。  いつまで|経《た》っても、何の音も聞こえない。  しかし不気味なはずの|沈黙《ちんもく》は、優しく|風斬氷華《かざきりひようか》の体を包み込んでいた。まるで暴風雨の屋外から、屋根のある温かい部屋の中へと帰ってきたかのように。 「……?」  風斬氷華は、恐る恐るまぶたを開ける。  すぐ近くに、見知った|誰《だれ》かが立っているような気がした。だが、涙が視界を遮り、ぼんやりとした像でしか|捉《とら》える事ができない。  その人影は、少年のようであった。  風斬は十字路の真ん中にいる。そして少年は、|対峙《たいじ》する風斬と石像を遮るように、横合いの通路から歩いてきたらしい。人影の横顔が、おぼろげに見える。  石像の動きが、止まっていた。  少年が何気なく差し出した右手が、石像の巨大な腕を|掴《つか》んでいた。戦車でも|薙《な》ぎ払えそうなほど強大なその|拳《こぶし》を、まるで|掌《てのひら》で受け止めるように。  ただそれだけで石像の動きは止まり———あまつさえ、ビシリ、と音を立てて|亀裂《きれつ》が走る。 「エリス?」 どこか遠くで、女の声が聞こえる。 「エリス。反応なさい、エリス! くそ、何がどうなっているの?」  珍しくうろたえたような女の声に、しかしその少年は見向きもしない。  彼はただ|真《ま》っ|直《す》ぐに、風斬氷華の顔を見ている。 「待たせちまったみたいだな」  その声に、彼女はビクリと肩を|震《ふる》わせた。涙でその姿は見えないが、その声には聞き覚えがあった。元より、彼女の知る人物の数などたかが知れている。  その声は、力強かった。  その声は、温かかった。  その声は、|頼《たの》もしかった。  そして何より、  その声は、優しかった。  少年は、告げる。 「だけど、もう|大丈夫《だいじようぶ》だ。ったく、みっともねえな。こんなつまんねえ事でいちいち泣いてんじゃねえよ」  風斬氷華は子供のように、ごしごしとまぶたをこする。  涙の膜が晴れる。  その先に、彼はいた。  |上条当麻《かみじようとうま》は立っていた。  まるで、この上ない友達に向けるような笑顔を見せて。  彼の背後にいた石像の全身に|亀裂《きれつ》が走り回り、そしてガラガラと崩れていく。  まるで、|何人《なんぴと》たりとも通さぬ絶望の壁が突き破られるように。 「エリス……。|呆《ほう》けるな、エリスッ!!」  怒りを内包する、|震《ふる》えた絶叫。  金髪の女は白いオイルパステルを握り|潰《つぶ》しかねない勢いで|掴《つか》むと、抜刀術のような速度で壁に何かを書き|殴《なぐ》った。同時、彼女は何事かを早口言葉のようにまくし立てる。  コンクリートの壁が乾いた泥のように崩れ落ちた。それは見えない手で粘土をこねるように形を整えられ、ものの数秒で|天井《てんじよう》に頭を|擦《こす》り付ける石像が完成する。  彼女の顔には|焦《あせ》りが浮かんでいたが、まだ平静を失ってはいなかった。  いくら|壊《こわ》された所で、何度でも作り直す事ができる切り札。それこそが、金髪の女の最大の強みなのだろう。盾も|囮《おとり》も特攻も自爆すらも思いのままだ。  上条当麻は、振り返る。  追い詰められた少女を守るように、|歪《いびつ》な石像お前に立ち|塞《ふさ》がるように。  その光景に|風斬《かざきり》は|驚《おどろ》き、金髪の女は笑みを引き裂く。 「くっ、はは。うふあはは!何だあこの笑い話は。おい、一体何を食べたらそんな気持ち悪い育ち方するんだよ! ははっ、喜べ化け物。この世界も捨てたものじゃないわね、こういう|馬鹿《ばか》が一人ぐらいいるんだから!」  その|錆《さ》び付いた声に、風斬は肩を|震《ふる》わせた。  そう、この少年が来てくれたのは|嬉《うれ》しい。でも、化け物同士の戦いに彼を巻き込むなど耐えられない。風斬|氷華《ひようか》が望んだあの温かい日常が、それを作る少年が、この場で倒れるなど。  しかし、|標然《りつぜん》とする風斬をよそに、少年は巨大な石像お前にしても少しも動じない。  彼は言う。 「一人じゃねえぞ」  は? と金髪の女が間の抜けた声を上げかけたその|瞬聞《しゆんかん》、  ドガッ!! と、|眩《まばゆ》いばかりの|閃光《せんこう》が|襲《おそ》いかかった。 「!?」  風斬は目を|潰《つぶ》すような白い光の渦に、思わず両手で自分の顔を|庇《かば》った。  彼女は十字路の中心に座り込んでいる。そして、光は金髪の女がいる通路以外の三方|全《すべ》てから放たれていた。風斬は眩い光に頭痛を感じながらも、かろうじて目を細めて辺りを見回す。  まるで車のヘッドライトのような強烈な光。  それは、銃に取り付けられたフラッシュライトのものだった。一丁、二丁どころではない。 三〇人から四〇人にも及ぶ人々が、この場に集まっていた。  |警備員《アンチスキル》。  彼らは一人として、無傷な者などいない。腹や頭に包帯を巻き、腕や足を引きずっていた、病院のベッドにいてもおかしくなさそうな人|達《たち》ばかりだ。  それでも、彼らは|臆《おく》さない。  己の危険を省みず、痛みに対して泣き言の一つも告げず、死地とも呼べる場所へと何のためらいもなく駆けつけてきた。彼らはアクション映画の主人公みたいな屈強な男性ばかりでなく、中には女性まで混じっていた。透明な盾を構えるその彼女は、しかし自身の傷など気にも留めず不敵な笑みを浮かべている。もう|大丈夫《だいじさつぶ》だぞと、その目で語るように。 「……どう、して……?」  むしろ不思議そうに、|風斬氷華《かざきりひようか》は問いかけた。  彼らが風斬の正体をどこまで知っているかは分からない。が、少なくとも一般人ではない事ぐらい|掴《つか》んでいるはずだ。跳弾を浴びて顔が|壊《こわ》れたその姿を、あの石像に|殴《なぐ》られてもむくりと起き上がったその姿を、彼らは|目撃《もくげき》しているはずなのだから。  だから、彼女は問い|質《ただ》したのだ。  どうして、と。  自分の体ごとあのテロリストに弾丸の雨を浴びせてしまえば良いのに、どうして自分を守るように前へ出てきたのだろうと、風斬氷華は疑問に首を|傾《かし》げて。 「ばっかばかしい。理由なんていらねえだろうが」  対して、少年は一秒すら待たずに答えた。  化け物であるはずの風斬から、たったの一秒すら目を|逸《そ》らさずに。  まるで、ゲームセンターで話しかけてもらった、あの時の表情のままに。  光の中で、彼は言う。  いつものように。それ|故《ゆえ》に、一片の|騎《かげ》りもなく。 「別に特別な事なんざ何もしてねーよ。|俺《おれ》はたった一言、あいつらに言っただけだ」  |溢《あふ》れんばかりの光の中で、彼は言う。 「俺の友達を、助けて欲しいって」  風斬氷華は|一瞬《いつしゆん》、その言葉の意味が理解できなかった。  だって、彼女は人間ではない。化け物なのだ。体の中は空洞で、|皮膚《ひふ》一枚の下には何にもなくて、鉄砲で|撃《う》たれても石像に|殴《なぐ》り飛ばされても死なないような、医者や学者が見たらびっくりするような体なのに。  彼らは、それをどうでも良いと一言で切り捨ててくれるのか。  |風斬《かざきり》自身でさえ、絶望したこの|正体不明《カウンターストツプ》の体を。  あるいは、それはこの街だからこそなのかもしれない。住人の八割が学生で、その全員が何らかの能力に|覚醒《かくせい》していて、みんながみんな、自分が少し変わっている事を自覚しているから。だからこそ、人とは違う[#「人とは違う」に傍点]風斬|氷華《ひようか》を受け入れられるだけなのかもしれないけれど。  自分は、ここにいても良いのだろうか。  彼らは、自分という存在を笑って認めてくれるのだろうか。  |呆然《ぼうぜん》とする風斬に、少年は言う。 「涙を|拭《ぬぐ》って前を見ろ。胸を張って誇りに思え。ここにいる全員が、お前に死なれちゃ困ると思ってんだ」  風斬は、顔を上げる。  あれだけ|闇《やみ》に包まれていたように見えた世界は、もうどこにもない。 「今からお前に見せてやる。お前の住んでるこの世界には、まだまだ救いがあるって事を!」  彼女は知る。  確かに、あの金髪の女は暴虐の|嵐《あらし》によって、この地下街を闇に閉ざした。  けれど、彼らは光を用いて闇に立ち向かう。  暗がりの中で|溺《おぽ》れる、|誰《だれ》かの手を|掴《つか》むために。  少年は告げる。 「そして教えてやる! お前の|居場所《げんそう》は、これぐらいじゃ簡単に|壊《こわ》れはしないって事を!!」      5 「エリス———」  石像の陰に隠れたシェリーは、ぶるぶると怒りに|震《ふる》えた声で、 「———ぶち殺せ、一人残らず! こいつらの肉片を集めてお前の体を作ってやる!!」  叫ぶと同時、オイルパステルが宙を引き裂く。何重にも重ねた線が石像を操る糸と化す。 「させん!! 配置B! 民間人の保護を最優先!!」  一人の怒号を皮切りに、|全《すべ》ての銃ロが一斉に火を噴く。  |警備員達《アンチスキルたち》は|透明な盾《ポリカーボネイド》を持つ前衛とライフルを|撃《う》つ後衛の二人組で動いていた。盾はエリスの|攻撃《こうげき》ではなく、跳弾を防ぐためのものだ。  鼓膜を突き破るような銃声の|嵐《あらし》と共に、|上条《かみじよう》と風斬は近くにいた|警備員《アンチスキル》の女の手で地面へ引きずり倒された。その|警備員《アンチスキル》は上条達を守るように透明な盾をかざす。  ギギギザザザギギ!! と目の前の盾が悲鳴をあげる。  |上条《かみじよう》は|驚《おどろ》いて目を|剥《む》いた。エリスの体にぶつかり、乱反射した弾だけでこの有様だ。一度そ の身に跳弾を浴びているせいか、|風斬《かざきり》は雷に|怯《おび》える子供のように|震《ふる》えている。  上条は前方にいる石像の姿を見る。  まるで虫|眼鏡《めがね》で太陽光を集めているがごとく集中砲火を浴びるエリスの足が、止まっていた。 暴風の中、強烈な向かい風に向かって必死に歩こうとしているように。その体が壁のように広がっているからこそ、ヨットの帆のように強い風に|翻弄《ほんろう》されているように見える。エリスの体を構成するコンクリートやガラス片などが次々と|剥《は》がれ落ちていくが、周囲の床や壁、果ては|撃《たつ》ち込まれた弾丸さえも利用して即座に修復されていく。 「チィッ!!」  銃声のカーテンの向こうから、シェリーの怒号が聞こえる。 「『|神の如き者《ミカエル》』『|神の薬《ラフアエル》』『|神の力《ガブリエル》』『|神の火《ウリエル》』! 四界を示す四天の象徴、正しき力を正しき方向へ正しく配置し正しく導け!!」  オイルパステルによって|歪《ゆが》んだ十字架が空気中に走り書きされていく。  ぎぢっ……、と。エリスの体から、|軋《きし》んだ音が|響《ひび》く。  それは悲鳴だった。  声を発する口もない石像が、全身の関節から漏らす苦痛の声。無理矢理な命令によって、まるで布を|噛《か》んでしまった歯車を強引に動かそうとしているように、石像の巨大な体がぎしぎしみしみしと危うい音を立てる。  それでも、エリスは動いた。  ぎちぎちと不気味な音を立てながら、その体が一歩、前へと出る。  ズン、と。重たい音色が地面をわずかに|震《ふる》わせる。  シェリーはその光景に歓喜したように、さらに激しくオイルパステルを振り乱す。 「あ……あ、そんな……」  火薬の爆音の中、風斬は思わず声を上げるが、 「ここまでは、予想通りってトコだな。悪い予想の方ってのが気に入らねえが。ま、できれば押し返すなり|拮抗《きつこう》してくれるなりしてくれれば文句なしだったんだけどな」  上条の言葉に、彼女は耳を疑った。  さらに、今度は透明な盾を構えている女の|警備員《アンチスキル》が、 「少年。本当にやる気なの? |怖気《おじけ》づいたって言っても|誰《だれ》も|咎《とが》めないじゃん?」 「やらなきゃなんねえってのが正しいけどな。アンタもさっき見たろ、|俺《おれ》の右手が触れただけであのゴミ人形をぶっ|壊《こわ》した所。俺の右手にはそういう能力が備わってんだ」 「そりゃあ、確かに|月詠《つくよみ》先生もそんな事は言っていたけど……」  風斬は、じわじわと指先から力が抜けていくのが分かった。  何だろう、と彼女は思う。何か自分の知らない所で、とんでもない事が決まりつつあるような気がする。 「どの道、このままじゃいつかアレはここまで歩いてくるぞ。そう。てなくても、弾は無限じゃねえんだろ? 盾持ってるアンタの手だってそう長くは|保《も》たないんじゃねーのか」 「切り札は一度きりじゃん。それで失敗しても、ウチらは少年を回収できない。その時は弾幕を張るしかないじゃんか。そうなると少年ごとあの石像を|撃《 つ》つ事になるけど」  |警備員《アンチスキル》の言葉に、|風斬《かざきり》は|愕然《がくぜん》とした。 「……待って、ちょっと……待って、くだ、さい。……あ、あの……何を……」 「決まってんだろ」|上条《かみじよう》は、間を空けずに、「これから、あの化け物を止めてくる」  ズン、という石像の重たい足音が|響《ひび》いた。  先ほどよりも、強い。シェリーとエリスは、早くもこの弾幕に慣れつつある。 「ダメ、です……そんな……っ! 危険、すぎ……!!」 「っつっても、|俺《おれ》の力は右手で直接触らないと効果が出ないんだ。そりゃ、どっかの|超電磁砲《レールガン》みてーに遠距離|攻撃《こうげき》できりゃあ俺も気が楽なんだけどな」  ゴン! と、さらに地面が揺れる。  じりじりと、北風に|抗《あらが》う旅人のように石像は少しずつ歩を進めていく。  その距離は、もう一〇メートルもない。 「指示を出す。最後に少年に確認するけど、構わないの?」 「……、ああ」  何をすべきかは、ここに来お前に打ち合わせてある。  |故《ゆえ》に、彼の答えは一言で良い。余計な言葉などという未練は一切ない。 「無理しやがって、格好良すぎるぞ少年。あーあ、やっぱセンセは生徒に恵まれてんじゃん」  小型の無線機を取り出した|警備員《アンチスキル》は小さく笑った。 「いいよ、付き合ってやろうじゃん。代わりに何があっても成功させろ。そして生きて帰ってこい。そのための協力ならいくらでもしてやる」  その言葉に、上条も口元にわずかな笑みを浮かべた。  彼の体が、必死に|震《ふる》えを抑えようとしている事に、ようやく風斬は気づく。 「|準備せよ《プリパレーシヨン》。———カウント3|」  |警備員《アンチスキル》が無線機に向かって何かの命令を下した。  風斬はゾッとした。まさかと思うが、この少年は本当に盾から飛び出して、石像の元まで走るつもりなのか。あんなピンボールみたいに弾が跳ね返って、撃った本人すらも軌道が読めないような銃弾の暴風雨の中へ。  一発でも当たったら死んでしまうのに。  怖くないはずがないのに。 「———カウント2」  今まで床に伏せていた|上条《かみじよう》が、ほんのわずかに上体を起こした。 「待って……だめ、です! ……これじゃ、絶対、助からない……っ! そんなの……そんなの……いや、です! 私……っ!」 「止めるなよ、|風斬《かざきり》」  ほとんど|錯乱《さくらん》しかけている風斬に対し、一番危険なはずの上条の方が落ち着いた声を出す。 「お前が|俺《おれ》の事を|避《さ》けてた理由な、きっとこの右手にあるんだと思う。この右手は、異能の力なら豊量心を問わず、あらゆる力を打ち消しちまうから。きっと、お前の事も例外じゃない」  だから不用意に手を伸ばして押し|留《とど》めようとするな、と上条は言う。  風斬は、|衝撃《しようげき》を受けたように息を詰まらせた。 「———カウント1」  シェリーも何か仕掛けてくる事に勘付いたのか、さらに狂ったようにオイルパステルを振り回す。銃弾の雨に押されているエリスの足が、より力強く前へ|踏《ふ》み出される。  しかし、この|瞬間《しゆんかん》だけは、上条はシェリーの事など視界に入れていなかった。  彼はただ、目お前にいる少女の顔を見ていた。  上条の右手の力を知り、自分が少年を避けていた理由を知って|驚《おどろ》いた風斬の顔を。 「そんなに気にすんなよ。別に触れ合う事ができなくったって、お前が友達だって事にゃ変わりないだろ? それと、簡単に死ぬなんて|諦《あきら》めんな。俺は必ず帰ってくる。いいか、必ずだ」 「……あ。帰って、くる……?」 「おう。またインデックス連れて三人で、どっかに遊びに行きたいしな」  そう言って、彼は一度だけ笑った。  それから、彼は前方へ視線を移す。  風斬との最後の|繋《っな》がりを断ち切るように、|警備員《アンチスキル》は告げる。 「———カウント0」  瞬間。  エリスに向かって銃弾をばら|撒《ま》いていた警備員|達《たち》が———一斉に[#「一斉に」に傍点]、撃つのをやめた[#「撃つのをやめた」に傍点]。  シェリーにとっては予想外の展開だろう。  何せ、銃弾は|警備員《アンチスキル》の身を守る最後の|砦《とりで》だ。その手を休めれば、次の瞬間にはエリスの|拳《こぶし》の|餌食《えじき》となる。普通に考えればそんな自殺行為に出るはずがない。  しかし、確かに効果はあった。  エリスの鈍重な体が、突お前につんのめったのである。  強烈な北風に向かって全力を振り絞って歩いていた所で、いきなりピタリと風がやんだようなものだ。自ら生んだ余分な力のせいで、エリスは大きく前ヘバランスを崩したのだ。  |上条《かみじよう》はハードルのように透明な盾を飛び越し、一気に走る。  エリスとの距離はおよそ七メートル。 「くそ。やりなさい、エリス!!」  矢のように走る上条に対し、シェリーは慌てたようにオイルパステルを振るう。  その命令に忠実に従い、エリスは|拳《こぶし》を握る。だが、どう考えてもバランスが悪い。今にも前へ倒れそうな姿勢のまま無理に拳を振るおうとすれば、それだけでエリスは転倒するだろう。そうなれば上条が手を下すまでもない。盾を失ったシェリーは銃口から逃げられない。上条は流れ弾が当たらないようにその場で伏せれば良いだけだ。  それなのに、エリスは拳を振り上げる。  案の定、失いかけていた体のバランスは完全に崩れ、エリスは前のめりに地面へ倒れていく。石像の身長は四メートル強。元の距離が七メートルである事を考えると、上条は絶対に巻き込まれないはずだ。  上条は、エリスが地面に倒れた所を|狙《ねら》おう、と拳を握り締めて、  ズドン!! と、エリスは|殴《なぐ》りつけた。  前方へと倒れ込みながらも、上条を無視して[#「上条を無視して」に傍点]、その地面に向かって[#「その地面に向かって」に傍点]。 「なっ……!?」  エリスの拳を中心に、地面に半径八メートル強の|蜘蛛《くも》の巣状の|亀裂《きれつ》が走る。トランポリンの ように地盤が揺らぎ、上条の体は宙に投げ出された。みしみしぎしぎしと、壁や|天井《てんじよう》、支柱 などから不気味な|軋《きし》みが地下街に|響《ひび》き渡る。  そして、地面を転がる上条は見た。  ゴーレム=エリスは、己の放った拳の反動を利用して、バネ仕掛けのように起き上がってい るのを。  シェリーの右手が|一閃《いつせん》する。  その巨大な拳が、地を|這《は》う虫を押し|潰《つぶ》さんと再び大きく振り上げられる。 「くそ……っ!!」  上条の背後で|警備員達《アンチスキルたち》がライフルを構えたのか、小さな金属音が聞こえた。だが、彼らは銃を|撃《う》てない。ここで豪雨のように銃弾をばらまけば、間違いなく跳弾が上条を|襲《おそ》う。 (ちくしょう、ふざけやがって! 考えろ……っ!!)  エリスはちょうど上条に|覆《おお》い|被《かぶ》さるような体勢で拳を振り上げている。この状態で右手を使って受け止め、エリスの拳を|幻想殺し《イマジンブレイカー》で打ち消した所で、数トンにも及ぶ|瓦礫《がれき》の山が|雪崩《なだれ》のように上条へ襲いかかるだろう。  逃げるにしても、せいぜいが一歩。ただし、身長が四メートルを超すエリスは、片腕だけで二メートル強もの長さを誇る。左右へ跳ぼうが後ろへ転がろうが射程圏外へ逃れる事はできない。 (くそ、ちくしょう! 何か、何か方法は……っ!)  全体重を込めたエリスの|拳《こぶし》が、真上から|上条《かみじよう》へと|襲《おそ》いかかる。少なくとも、右手で受け止めるのは自殺行為だという事ぐらいは分かる。彼は足のバネに全神経を集中させると、祈るような気持ちでとっさに跳んだ。  右でも左でも後ろでもなく、前へと。  エリスの身長は四メートル強。  つまり|懐《ふところ》の死角も人間より大きく、また両足の間にはニメートル弱もの高さの空洞がある。 それでも、普通の状態ならば足の下を|潜《くぐ》ろうとすれば即座に|蹴《け》りで|迎撃《げいげき》されるだろう。  しかし、拳を放つその|瞬間《しゆんかん》。  全体重を拳にかけた不安定なその一瞬だけは、エリスは両足を使って|踏《ふ》ん張り、その体を支えなくてはならない。実際、ケンカ慣れしている上条には分かる。例えば大振りな一撃は威力も強く見た目も派手に映るかもしれないが、反撃を受けやすいという欠点もある。それは攻撃を放っている最中は重心の関係上、|回避《かいひ》行動を取るのは不可能だからだ。  エリスは拳を振り終えるまでは、足を動かす事ができない。  なまじ無理矢理に人間としてのバランスを保とうとしたのが失敗だったのだ。  上条は身を|屈《かが》めるようにして、ほとんど地面を|舐《な》めるような姿勢で、一気に前へ跳んだ。まるで放たれる矢のような勢いで、そのままエリスの足の間を突き抜ける!!  直後、  ガガガガギギギ!! と、エリスの体から火花が散った。ライフルを構えていた|警備員達《アンチスキルたち》が銃撃を再開したのだ。  エリスの動きが再び拘束される。  そして皮肉にも、その背後に立つ上条に弾は当たらない。  上条はゆっくりと立ち上がって、それからエリスの背中に右手で触れようとしたが、少し考えて、やめた。彼はエリスから目を離し、背後を振り返る。  そこに、シェリー=クロムウェルがいた。 「え、エリス……」  彼女は|焦《あせ》りと|緊張《きんちよう》の入り混じった声を出す。が、シェリー自身、分かっている事なのだろう。 エリスを下手に動かせば、|警備員《アンチスキル》の放つ弾丸を浴びる羽目になるかもしれない。同じ理由で、シェリーはエリスの陰という狭い|闘技場《リング》から逃れられない。  彼女の手の中にあるオイルパステルが、不器用に宙を泳いでいた。これまでのような意思は感じられない。どういう風にエリスを操作すれば良いのか分からないのだ。  もはやシェリーは、|誰《だれ》にも救いを求める事はできない。  最強の兵器は目お前にあるのに、それを動かせないどころか敵である|上条《かみじよう》さえ銃弾から守ってしまっている。 「さって、と」  上条は言う。  まるで肩の調子を確かめるように、右腕を大きく回す。 「は、」  絶望的な状況に、シェリーは思わず引きつった笑みを浮かべていた。 「はは。何だ、そりゃ。これじゃ、どこにも逃げられないじゃない」 「逃げる必要なんかねえよ」  |響《ひび》く銃声の真ん中で、上条は片目を|瞑《つぶ》り、 「テメェは|黙《だま》って眠ってろ」  上条は、一切の手加減なしにシェリー=クロムウェルを|殴《なぐ》り飛ばす。  彼女の細い体は、風に流される紙クズのように地面を何度も転がった。      6  銃声はまだやまない。  シェリーが倒れた事でエリスはその動きを止めているが、かと言ってエリスに決定打を与えた訳ではないのだ。|警備員達《アンチスキルたち》が|攻撃《こうげき》の手を止めないのも当然だろう。上条は五メートルほど離れた所で倒れたシェリーから目を離し、エリスの方へと向き直った。 (しっかし、これを急に|壊《こわ》したら……流れ弾とか飛んでこないだろうな?)  恐る恐るという感じで、上条はエリスの背中へと右手を伸ばしていき……。 「ふ。うふふ」  そこで、女の笑い声を聞いて、上条は勢い良くシェリーの方へ振り返る。 (浅かった? まさかコイツ、自分から後ろに跳んでたのか……っ!?)  彼女は笑っている。倒れたまま笑っている。  ただし、その手に白いオイルパステルを握り締めて。 ビュバン!! と、まるで抜刀術のようにオイルパステルが地面に走る。模様のような記号のような、判読不能の何かが勢い良く床へと書き|殴《なぐ》られる。 「な……ちくしょう! 二体目を作る気か!?」  |上条《かみじよう》は阻止するために慌てて走ろうとしたが、 「うふふ。うふうふ。うふうふうふふ。できないわよ。ああしてエリスが存在する以上、二体同時に作って操る事などできはしない。大体、複数同時に作れるのなら始めからエリスの軍団を作っているもの。無理に二体目を作ろうとした所で、どうやっても形を維持できない。ぼろぼろどろどろ、腐った泥みてーに崩れちまう」  けどなあ、とシェリーは|檸猛《どうもう》に笑って、 「そいつも上手く活用すりゃあ、こういう事もできんのさ[#「こういう事もできんのさ」に傍点]!!」  |瞬間《しゆんかん》、シェリーが描いた文字を中心点にして、半径ニメートルほど、彼女が倒れている地面が丸ごと崩れ落ちた。シェリーは崩落に巻き込まれ、まるで地面に|呑《の》み込まれるように姿が消える。 「くそっ!!」  上条が慌てて駆け寄ったが、そこには空洞しかなかった。穴は深く、何メートルあるかも分からない。ただし、底の方から空気の流れのようなものを感じる。 (やられた。下に地下鉄の線路が走ってやがる……)  上条が舌打ちすると同時に、動きの止まっていたエリスが、バラバラと音を立てて崩れていった。二体同時に作れないとの事だから、古い人形を|壊《こわ》して新しい人形を作り直しているのかもしれない。旧エリスの|崩壊《ほうかい》に応じて、銃声の渦もピタリと止まる。 (しかし、妙だな)  暗い穴の底を|覗《のぞ》きながら、上条はふと疑問に思った。  シェリー=クロムウェルはターゲットに対してあまりに執着心が少なすぎる。これまで会ってきた|魔術師《まじゆつし》とは明らかにタイプが異なる。彼らならば、|風斬氷華《かぎきりひようか》(と、上条も含まれているようだが)という目的が目お前にある状況で、そうそう簡単に逃げに入る事などないだろう。 (思い出せ。何が引っかかってるんだ?)  上条はシェリーの放っていた言葉の切れ端を集めていく。しばらくは難しい顔をして|傭《うつむ》いていたが、不意に彼は顔を上げた。 『おや。虚数学区の|鍵《かぎ》は|一緒《いつしよ》ではないのね。あの…あの……何だったかしら? かぜ、いや、かざ……何とかってヤツ。くそ、ジャパニーズのお前は複雑すぎるぞ』  そう、思えばシェリー=クロムウェルは始めから風斬氷華に興味をそれほど持っていなかったような気がする。 『戦争を起こすんだよ。その火種が欲しいの。だからできるだけ多くの人間に、私がイギリス清教の|手駒《てごま》だって事を知ってもらわないと、ね? ———エリス』  仮にシェリーには|他《ほか》に目的があって、風斬はそのための手段の一つでしかないのだとしたら。 『別に何でも良いのよ、何でも。ぶち殺すのはあのガキである必要なんざねえし」  そして、それは風斬以外の人間でも代用できるのだとしたら。 『うふ。うふふ。うふうふうふふ。禁書目録に、|幻想殺し《イマジンブレイカー》に、虚数学区の|鍵《かぎ》。どれがいいかしら。どれでもいいのかしら。くふふ、迷っちゃう。よりどりみどりで困っちゃうわあ』  シェリー=クロムウェルは逃亡したのではなく。  新たな標的を|狙《ねら》いに行っただけだとしたら。  そして。  彼女の標的は三人。その内、|上条《かみじよう》と|風斬《かざきり》はここで|警備員《アンチスキル》に守られていて。  唯一、今ここにはおらず、|警備員《アンチスキル》にも守られていないのは————。 「くそ……。インデックスか!!」 [#改ページ]    行間 二  暗い地下鉄の構内を、足音が|響《ひび》く。  それは人間に出せるような音ではなかった。コンクリートと線路を丸めて作り上げた四メートルもの高さを誇る化け物・ゴーレム=エリスの足音だ。  シェリー=クロムウェルはエリスの腕に抱かれながら、オイルパステルを操ってエリスの両足を交互に動かす。目的地は分かっている。二体目のエリスを作お前に再度無数の泥の眼球を放ち、標的の居場所を|掴《つか》んでおいた。二体目を作る|邪魔《じやま》になるため、現在はもう目玉も|壊《こわ》してあるが。  |殴《なぐ》られた|頬《ほお》がズキズキと痛む。本来の彼女は長いスカートで隠された足を地に着けず、ほんの数センチほど浮いている事でエリスの|震動《しんどう》から逃れていたのだが、あの少年に殴られた|衝撃《しようげき》を受け流したのを|最期《さいご》に、浮遊の術式は|崩壊《ほうかい》してしまった。おかげで今はエリスに抱かれている。  シェリーは周囲を見回しながら、口の中で|呟《つぶや》く。  |忌《いまいま》々しい、と。  このコンクリートの地下が忌々しい。このすえた|匂《にお》いが忌々しい。この粉っぽいものを含む汚れた空気が忌々しい。こんなものを作り上げた人間が忌々しい。こんなものを作り上げるほどの力がある事が忌々しい。  彼女はこの街が嫌いだった。  この街の水も、この街の風も、この街の土も、この街の火も、何もかもが嫌いだった。地図から消し、歴史から消し、人の|記憶《きおく》から消し、世界から消し去ってしまいたいと願っていた。  超能力者の男に殴られた頬が熱を帯び始めた。  こんな街があるからいけないんだ、とシェリーは口の中で毒づく。 「エリス」  彼女は言う。  エリスとは、元々このゴーレムにつけられた名前ではなかった。  それは、二〇年も前に死んだ、一人の超能力者の名前だった。 [#改ページ]    第四章 終止符 Beast_Body,Human_Heart.      1  |薄暗《うすぐら》い地下とは異なり、地上は真っ白に目が|眩《くら》むほどの炎天下だった。  そんな街中に、インデックスと|御坂美琴《みさかみこと》はぽつんと残されていた。|白井黒子《しらいくろこ》は今も地下に閉じ込められた学生|達《たち》を運び出している。  |上条《かみじよう》達が無事に出てこない以上、帰るのは|薄情《はくじよう》だし、かと言って彼女達の間に共通の話題もない。さんさんと太陽光の降り注ぐ青空の下に、何か妙な|沈黙《ちんもく》が下りていた。 (あーもう。黒子のヤツめ……)  美琴はここにいない後輩に心の中で恨み言を告げる。地下街の隔壁ぐらいなら|超電磁砲《レ ルガン》で|破壊《はかい》する事も可能だが、それをするとテロリストとやらが外へ逃げる危険性もあるので|踏《ふ》み切れないのだ。  暑さに耐えられないとでも言うように、インデックスの腕の中で|三毛猫《みけねこ》が暴れた。  やがて、彼女はポツリと言った。 「……あっついね」 「そうね」美琴も|頷《うなず》いた。「ていうか、アンタのその服は何なのよ? このクソ暑い中にそん な|長袖《ながそで》なんて……。あ、ひょっとして日焼けに弱い肌してる訳? なんか色素が薄いとすぐひりひりするってテレビで言ってたような気がするけど」 「別に気にした事はないかも。この服も今ではすーすーと風通しが良いし」 「あん? ……うわっ、良く見たら布地を安全ピンで留めてるだけじゃない! 何でこんなパンクな格好になっちゃってるのよ?」 「うっ……。色々と古傷があるので、理由は深く言及しないで欲しいかも」  インデックスがそこで流れを遮断してしまったため、またもや会話が止まってしまった。が、一度会話の味を覚えた美琴はすぐに耐えられなくなったという感じで、 「にしても遅いわね、あいつら」 「……うん。どうしよう、なんかあの|魔術師《まじゆつし》はひょうかの事を|狙《ねら》ってたみたいだし。術式もロンドン仕込みみたいな|匂《にお》いがしていたし、本当になんにもなければ良いけど……」 「?」  魔術師やら何やら、|普段《ふだん》あまり聞き慣れない言葉に美琴は首を|傾《かし》げる。  インデックスは白井黒子の手で地上へ連れ出された際、感謝するどころか逆に詰め寄って何で自分を先に逃がした早くあそこに戻してくれと|大騒《おおさわ》ぎしていた。確か、その時も|魔術師《まじゆつし》やら何やら冗談みたいな事を言っていた気がする。  ちょっと考えて、まあ良いかと|美琴《みこと》は切り捨てた。格好から察するに宗教関係者っぽいし、科学知識のない人間から超能力者を見ると魔法のように思えるのかもしれない。 「ひょうか、ってのは|一緒《いつしよ》にいた女の子の事?」 「うん。あ、今回はとうまが引っ張ってきたんじゃないんだよ。私が先に会ったんだから」 「……今回は、ね。ほほう」  美琴は顔を|逸《そ》らして黒い笑みを浮かべたが、無邪気なインデックスは気がついた様子もない。彼女は|三毛猫《みけねこ》を胸に抱いたまま体を左右に揺さぶりつつ、 「うう。心配かも心配かも。あんな所に女の子が置き去りにされているのも心配だけど、|薄暗闇《うすくらやみ》の中でとうまと女の子を二人きりにさせているのも心配かも」 「……、何でかしら。この一点のみアンタとは友達になれそうな気がするわ」美琴は少し|黙《だま》った後、「どうでも良いけど、アイツの身の安全は心配してない訳?」  ピタリと。ほんの|一瞬《いつしゆん》、インデックスの動きが停止した。 「ん、とうま? とうまなら心配ないよ。とうまは何があっても、絶対に帰ってきてくれるんだから」  彼女はそう答えたが、すでに矛盾が生じている。本当に心配していないのなら、こんな炎天下の中でじっと待ち続ける必要などないのだ。 (ま、この状況で心配するなってのが無理な話よね)  美琴は再び会話の流れを断ち切ってしまった事を反省しつつも、一方で、 (しっかし、帰ってきてくれる、ときましたか)  |誰《だれ》の元へ、などいちいち確認するまでもない。銀髪の少女は特別な含みを持たせたつもりはないのだろうが、それがかえってダメージを大きくしている。つまり彼らにとってはそれが日常で、いちいち意識するまでもないほど浸透した共通認識なのだ。  美琴はちょっと前髪をいじった後に、 (だから、何で、そこで、私が、ショックを受けなきゃいけないのよ?)  自分で生み出した感情に対して|眉《まゆ》をひそめたが、  みぎゃあ! と甲高い鳴き声と共に、突然三毛猫がインデックスの腕の中から逃げ出した。 「あっ!」  インデックスが思わず叫ぶ。美琴は自分の内側から外側へ意識を向け直すと、三毛猫がインデックスの腕からするりと抜けて、地面に着地した所だった。もうこれ以上暑苦しいのはうんざりだぜ、という感じで三毛猫は走り去ってしまう。  インデックスはすぐさま小さな逃亡者を追い駆けようとして、その足が止まった。おろおろと、逃げる三毛猫と美琴の顔を交互に見る。どうも、三毛猫を追い駆けたいがこの場を離れるのも気が引けるらしい。 「いいわよ。ここには私が残ってるから、アンタはさっさとネコ捕まえて戻ってきなさい。私はネコに嫌われやすい体質だから追っても|無駄《むだ》だし」 「ごめんね。そうしてもらえるとありがたいかも。……こらーっ! スフィンクス!!」  インデックスはぺこりと頭を下げると、コンビニ裏手の日陰ゾーンへ逃げ込んだ|三毛猫《みけねこ》を追い駆け、その姿を消した。スフィンクスって名前だったのか、と|美琴《みこと》は破滅的なネーミングセンスに絶句していたが、  ふと、足元のマンホールがカタカタと揺れている事に気づいた。 「あれ?」  美琴が不思議そうな声をあげると、今度は歩道|脇《わき》にあるジュースの自販機の取り出し口が小刻みに揺れ始めた。街路樹の葉が、風もないのにカサカサと音を立て始める。  |地震《じしん》、という感じではない。まるでどこか遠くで、|怪獣《かいじゆう》でも歩いているかのような、奇妙な震動だった。  あの三毛猫は動物的な感覚で震動を察知して逃げたのかもしれない、と美琴は思った。      2  |風斬氷華《かざきりひようか》は、|薄暗《うすぐら》い地下街の地面にぺたりと座り込んでいた。  目を焼くほどのライトの光の洪水も、耳を破るほどの銃声の|嵐《あらし》も、もうない。|警備員達《アンチスキルたち》はシェリーが地上へ逃げるのを防ぐため、無線であちこちに指示を飛ばしている。  ふと、彼女は離れた所で|誰《だれ》かが言い争いをしているのに気づいた。そちらへ目を向けると、|上条《かみじよう》が|警備員《アンチスキル》の女性と何かを話し込んでいる。というより、上条の方はほとんど|掴《つか》みかかりそうな勢いだった。 「だから! もうさっきのヤツは地下街にいないんだろ! だったら何で地下街の|封鎖《ふうさ》が解かれないんだよ!?」 「何度も言うように、地下街の管理とウチらとは|管轄《かんかつ》が異なるじゃん。こちらも連絡をつけているけど、命令系統というものもあるし。封鎖を解くにはもう少し時間がかかるじゃんよ」 「くそ!」  そう毒づいて壁を|蹴《け》る上条の様子に風斬はビクッと肩を|震《ふる》わせたが、彼の様子が少しおかしい事に気づいた。直接的な危機であるシェリーはすでにいないのだ。上条は何を慌てているのだろうか。  |上条《かみじよう》と話し込んでいた|警備員《アンチスキル》の無線機に連絡が入ったらしい。彼女は少年の元を離れると専門用語というか、何かを省略した言葉を使ってこちらでも何か口論している。  一人ポツンと残された上条の元へ|風斬《かざきり》は吸い込まれるようにふらふらと近づいた。彼の姿は少し怖かったが、同時に今にも泣き出しそうな子供のように、放っておけない危うさが同居していた。 「……あ、あの……さっきは、ありがとう、ございました」 「ん? 別にお礼を言われるほどの事でもねーと思うけど。それよりお前、体は|大丈夫《だいじようぶ》なのか?」 「あ、はい。……平気、だと思います、けど。えっと……それ。て。何が、あったん……ですか?」  その声に、上条は少し|黙《だま》った。言うべきか|否《いな》か、迷っているようにも見えた。彼はやがてゆっくりと、言葉を選ぶというよりは|溜《た》め込んでいたものを少しずつ吐き出すような感じで、 「シェリー=クロムウェル……あのすすけたゴスロリ女は逃げたんじゃない。次のターグットとして、インデックスを遺い始めただけだ」 「え……?」 「あいつはどうやら|俺《おれ》や風斬を殺すためにここに来たんじゃなくて、特定の条件が合えば|誰《だれ》でも良かったみたいなんだ。で、その一人がインデックスって訳」  風斬は息を|呑《の》んだ。そう言えばあの金髪の女にもそんな|台詞《せりふ》を言われた気がする。風斬や上条は無数の|警備員達《アンチスキルたち》に守られているが、インデックスの方は完全に無防備だろう。どちらでも良いというなら、難易度が易しい方を|狙《ねら》うに決まっている。 「|警備員《アンチスキル》に掛け合ってみたけど、地下街の|封鎖《ふうさ》はまだ解かれないって。ったく、あの分厚いシャッターが上がらないと外へ出られないのに!」 「……で、でも……それなら、あの人達に言えば。地上にも、|警備員《アンチスキル》の人達はいっぱいいるんだから……保護してもらえば良いんじゃ……」 「それはできない」  もっともらしい意見に対し、しかし上条は考えもせずに即答した。 「どう、して?」 「インデックスは、この街の住人じゃない。|警備員《アンチスキル》に見つかれば保護どころか逮捕されるかもしれない。……あくまで、かもしれないだけどな」  上条は声を|潜《ひそ》めて、一応、アイツにも|臨時発行《ゲスト》扱いのIDはあるんだけど、|特別警戒宣言《コードレツド》下なんて非常時じゃ役に立つかどうか分からない。免許証なりクレジットカードなり、|他《ほか》の身分証を見せうって言われても不思議じゃねえんだ」そこで、彼は舌打ちして、「まずいんだよ、それだと。ぶっちゃけた話、アイツには『|書類上の身分《パーソナルデータ》』がないんだ。カード、保険証、住民票、果ては自分の年齢、血液型、誕生日から何まで全部だぞ。インデックスなんて名前も明らかに偽名だしな。『外からやってきた怪しい人物』を捜している連申が、こんな空白だらけの人間を放っておくと思う?」  ここにきて、ようやく|風斬《かざきり》は|上条《かみじよう》が|焦《あせ》っている理由が分かった。風斬|氷華《ひようか》に比べて、イン デックスは圧倒的に味方の数が少ないのだ。街にはこんなにもたくさんの人で|溢《あふ》れているのに。 「で、でも……私だって、実は住人じゃなかったんだし[#「実は住人じゃなかったんだし」に傍点]……」 「お前とインデックスは、ちょっと事情が違うんだ。確かにお前は街のID登録はしてないだろうけど、それだけだろ。確かに正体は普通じゃないかもしれないけど、お前の存在が完全に危ないって決まってる訳じゃない[#「完全に危ないって決まってる訳じゃない」に傍点]。けど、インデックスはちょっと違うんだ。簡単に言っちまえば学園都市とは系統が違う組織に属してる。そして、属してるだけで完全に危ないと判断されちまう[#「属してるだけで完全に危ないと判断されちまう」に傍点]かもしれない」  そこまで言うと、上条は一人で歩き出した。風斬は慌ててその後を追う。  彼が向かったのは、金髪の女が逃走するために床に空けた大穴の縁だった。 「やっぱ、行くならここしかねえか。くそ、すぐそこの隔壁を開けてくれりゃ簡単に先回りできるってのに、何で追走なんて後手に回らなくっちゃならないんだ!」  風斬は大穴を|覗《のぞ》き込んだ。  |灯《あか》りは全くないため|暗闇《くらやみ》に包まれ、底は見えなかった。こんな何メートルあるかも分からない所へ本当に飛び降りても|大丈夫《だいじさつぶ》なんだろうか。着地・受身のタイミングすら測れないような気がする。大体、 「ま、待って……。本当に、……あなた一人で行くんですか?」  多少のリスクを負ってでも、|警備員《アンチスキル》に連絡するべきだと風斬は思った。彼女は知っているのだ、あの金髪の女の怖さを。何度も体を|壊《こわ》されたからこそ。  断言できる。あれは高校生が考えなしに敵対して良い相手ではない。  おそらく上条も知っている。この場を切り抜けられたのは、プロの|警備員《アンチスキル》による数のごり押しのおかげだ。あの石像は、一対一なら戦車と敵対したって負ける事はないだろう。あれはそういう種類の、正真正銘の『化け物』なのだ。  それを知っていて、それでも彼は揺らがない。 『学園都市の敵』という少女を|匿《かくま》っている時点で、理由など問わなーても分かるだろう。きっと上条は、何があってもその少女を守りたいのだ。  風斬にも、その気持ちは良く分かる。彼女にとってもインデックスは初めてできた大切な友達だ。それが失われるなんて、傷つけられるかもしれないなんて思うだけで身の毛がよだつ。  だけど、  だからと言って、目の前の少年が傷つけられて良い理由にはならない。  上条が絶対にインデックスを失いたくないと言うなら、風斬は彼ら二人の|絆《きずな》を失わせてはいけないと強く願う。  あの化け物からインデックスを守らなくてはならない。  あの化け物と|上条当麻《かみじようとうま》を戦わせてはならない。  相反する二つの条件を満たす方法は何か。そう考えた|風斬《かざきり》は、そこで動きを止めた。  方法は、ある。 「……|大丈夫《だいじようぶ》、です。あなたが、行かなくても……助ける方法は、あります」  風斬の声に、上条は|誹《いぶか》しげに|眉《まゆ》をひそめた。  彼女は言う。 「化け物の[#「化け物の」に傍点]、相手は[#「相手は」に傍点]……同じ[#「同じ」に傍点]、化け物がすれば良いんです[#「化け物がすれば良いんです」に傍点]」  息が止まった上条に、風斬はそっと笑いかける。 「私は……あの化け物に、勝てるかどうかは分からないけど、少なくとも、|囮《おとり》ぐらいはできます……、私が|殴《なぐ》られている間に、あの子を逃がす事が……できます。私は、化け物だから。それぐらいしか、できないけど……」  その言葉に、上条は絶句したようだった。  それから、彼の表情が|驚《おどろ》きから怒りへと塗り替えられていく。 「お前、まだそんな事言ってんのか! 良いか、お前がはっきり口にしねえと分かんねえなら、一から一〇まで全部教えてやる。お前は化け物なんかじゃねえんだよ! |俺達《おれたち》が何のために、|誰《だれ》のためにここまで駆けつけたと思ってんだ! それぐらい分かれよ、何で分かろうとしねえんだよ!」  上条当麻の言葉は、|真《ま》っ|直《す》ぐで、一っも|嘘《うそ》など含まれていなかった。自虐的な三口葉にここまで怒ってくれるその様子は、見ていて胸が詰まるような気分になる。 「そんな風にされて|嬉《うれ》しいとでも言うような人間に見えんのか、俺が! あんな化け物にお前が殴られているのを背に逃げるような人間だと思ってたのか、インデックスが! ふざけんな! たとえお前が俺達を見捨てたって、俺達はお前を見殺しにしたりはしねえんだよ! できるはずがねえだろ!!」  だけど、彼は気づいているだろうか。  風斬|氷華《ひようか》を守るために上条と|警備員《アンチスキル》達が立ち向かったモノも、やはり彼女と同じ化け物だった[#「やはり彼女と同じ化け物だった」に傍点]という|事《ヘヘ》に。その化け物は鉄砲で|撃《ロつ》たれて、地面に崩れ落ちて、その破片が辺りに散らばっているという事に。  そして、化け物の|残骸《ざんがい》を見ても。誰も何も気にしていないという事に。  結局、ニンゲンデハナイモノというのは、そういうもの。 「……だけど、それで良いんです。私は、化け物で良い……」  風斬氷華は、目を|逸《そ》らさずに正面から上条の顔を見て告げる。 「私は、化け物だったから……あの石像に何度殴られても、死にませんでした。私が……化け物だからこそ、私はあの石像に立ち向かえます……」  だから、と彼女はそこで一度だけ言葉を区切って、 「私は……私の力で、大切な人を守ります。だから、私は……化け物で、幸せでした」  にっこりと笑って、|風斬氷華《かざきりひようか》はシェリー=クロムウェルの空けた大穴の縁から、飛んだ。|上条《かみじよう》は何かを叫んでとっさに手を伸ばそうとしたが、途中でその手が止まる。考える余裕がなかったため|利《き》き手が反応しただけだろうが、それは右手だった。  触れれば化け物を消し飛ばしてしまう、絶対の手。  やはり彼も、心のどこかでは気づいていたのだ。  風斬の体が重力に捕らえられ、大穴へと落下していく。その途中で彼女はそっと|微笑《ほほえ》んだ。 思わず手を止めてしまった己を責めている上条に、あなたが悪いんじゃないと告げるように。  化け物は|闇《やみ》に落ちる。  世界の果てで、ようやく自分の存在を認めてもらえた居場所から、さらに深い底へと。    3  暗い穴の底へ着地した|瞬間《しゆんかん》、風斬氷華の足首から嫌な音が|響《ひび》いた。  そこは地下鉄の構内だった。予想以上に穴は深く、そして線路によって凹凸があるため、落下の|衝撃《しようげき》を殺すのは容易ではない。事実、風斬が並みの人間だったなら、足首の骨が粉々に砕けてその場でのた打ち回っていた事だろう。  そう、並みの人間ならば。  確かに風斬の足首からは嫌な音が聞こえ、鈍痛が駆け巡った。だが、痛みは五秒もしない内に引いてしまう。彼女は試しに靴の|履《は》き心地を調整するように|爪先《つまきき》でトントンと地面を|叩《たた》いたが、もう何の問題もなかった。何か空回りしていた歯車がようやく|噛《か》み合ったように、全身ヒ異様な力が伝導していく。今まで欠けていた歯車のお前は自分の素性か、正体か。  彼女は暗い構内を走る。  元より人が通るように設計されていないためか、ここは地下街よりもさらに暗く、汚かった。通路の中央に立ち並ぶコンクリートの柱の列が構内を二つに分断し、左右にそれぞれ上下線の線路が走っている。かろうじて点在する、切れかかった蛍光灯の|灯《あか》りを|頼《たよ》りに彼女は先へ先へと進む。目的地はハッキリと分かっていた。コンクリートの地面に、雪を|踏《ふ》んだような無造作な足跡がめり込んでいる。おそらくあの超重量級の石像が走った時についたものだ。  よどんだ空気を|掻《か》き切るように、彼女は駆け抜ける。  |暗闇《くらやみ》の中にポツンポツンと点在する蛍光灯の|灯《あか》りを見るたびに、|風斬《かざきり》の脳裏に切れ切れになった|記憶《きおく》の断片が次々と|溢《あふ》れ出してくる。  彼女は、人間ではない。  一〇年前のある日。  風斬|氷華《ひようか》は、気がつけば『街』の真ん中に立っていた。 『街』と言っても、それは学園都市ではない。しかし、座標的には学園都市とまったく同じ位置に存在する。学園都市に住む二三〇万人もの能力者|達《たち》が放つAIM拡散力場によって作られた、見えざる『|陽炎《かげろう》の街』だ。 『陽炎の街』には影がなく、重さがなく、空気の流れがなく、どこまでも|薄《うす》っぺらで存在感がなかった。時折風に吹かれたロウソクの火のようにビルも街路樹も人間も揺らいで、灰色のノイズを散らす。それは保護色を間違えた昆虫のようにも見えた。  もしもAIM拡散力場を正確に見る事ができる人間がいたら、『陽炎の街』は学園都市にぴったりと重なるように存在しているのが分かるだろう。  AIM拡散力場が作っていたのは風斬氷華一人ではなく、ビルも、道路も、街路樹も、車も、人の流れも、それら様々なものにまで及んでいた。彼女はAIM拡散力場が作り上げた街の中に住む、AIM拡散力場で作られた入間だった。  ———|欠片《かけら》が|剥《は》がれるように、少しずつ記憶が修復されていく。  ———それと同時に、見えざる拘束具が一つずつ外されていくのが分かる。  彼女は|何故《なぜ》、自分が『陽炎の街』に立っていたのか、その理由は今でも分からない。  ある時風斬はまるで白昼夢から覚めたように、気がつけば道の真ん中に立っていた。そして自分の持ち物の中から、ようやく名前や住所や電話番号などの個人情報を見つける事ができたのである。  そうする以外に現状を知る方法はなかった。  彼女のすぐ近くを通り過ぎていく人々は、何も教えてくれなかった。  そもそも彼らはどこか変なのだ。簡単に言えば、その場その場に応じて人の姿が変わるのである。コンビニの店員が窓掃除をしようとした|瞬間《しゆんかん》、店員の姿が作業服を着た清掃員の姿にぐにゃりと変わる。そして|窓拭《まどふ》きが終わると清掃員の姿が子供の姿に変わり、アイスクリームを運んでレジへ持っていくとその姿が子供から財布を取り出す主婦の姿へ変わっていく。  ———自分の存在を『人間』から『化け物』へと認識を改めたせいか。  ———まるでリミッターが外れたように、|否《いな》、自分が本来持っていた力をフルスペックで使用できるようになったかのように、全身に力がみなぎる。  街の人々はみんなそんな感じだった。その場その場の役割に応じて人の姿形から性格・|記憶《きおく》までが適した形に変化していく。実際、|風斬《かざきり》が道行く郵便配達員に話しかけると、その|瞬間《しゆんかん》に彼の姿は街のガイド役たる警察官へと変化する。OLも女子高生も、話しかけるとみんな同じ中年警察官になる。そしてみんな中身のない同じ言葉ばかりを言う。 『風斬|氷華《ひようか》の疑問に答える』という役割を果たすために姿形が変わっていく人|達《たち》。それを見て風斬は怖くなった。自分の行動が、彼らの体や心を塗り|潰《つぶ》しているような気がしたのだ。  ———ズン! と。一歩進むごとに、コンクリートの地面が重く|震動《しんどう》する。  ———それは人間ではありえない重量であり、同時にそれを動かせる筋力もまた、二重の意味で人間のレベルを|凌駕《りさつが》していた。  |何故《なぜ》、自分だけがそうした『変化』に巻き込まれないのか、最初風斬は良く分からなかった。が、少しずつ予想が固まっていく。この街の人々は、『役割』に晦じて姿形を変えて行動する。 つまり、|誰《だれ》かが『役割』を与えない限りは、誰も動かず街の機能が停止してしまう。  風斬はゼンマイだ。例えば彼女がコンビニでジュースを買おうとすると、コンビニの店員が動き、ジュースの配送業者が動き、冷蔵室に電気を通す発電所が動き、ジュースを作る工場が動き、ペットボトルの回収業者が動く。街の住人たる『歯車』達は、風斬という『ゼンマイ』の力に少しずつ少しずつ作用され、それはやがてこの社会全体という巨大なカラクリ細工に命を吹き込んでいく。彼女はシステムの主人ではなく、あくまでゼンマイという一部品なのだ。  風斬氷華は怖かった。  彼らは命のない人形ではなく、れっきとした命を持つ人間なのだから。  自分が前へ進んでも後ろへ進んでも別の誰かの人生を大きく狂わせる事を知ってしまい、風斬は一歩も動けなくなってしまった。彼女に与えられた役割は、あまりにも重すぎたのだ。  ———ゴドン!! と。彼女は勢い余って構内の柱に頭から激突する。  ———だが、彼女の肌には傷一つない。それどころか、コンクリートで作られているはずの柱の方がガラガラと音を立てて崩れていく。  怖かったから、彼女はこんな『|陽炎《かげろう》の街』から逃げ出したかった。  しかし、下手に動けば彼女は|他《ほか》の人々を巻き込んでしまう。だから、|風斬《かざきり》は|幽霊《ゆうれい》のように立ち尽くして、見ている事しかできなかった。同じ座標にあるのに、決して触れ合う事のできないもう一つの街———学園都市という『外』を。  彼女の存在は、学園都市の人々には気づいてもらえない。学園都市の学生|達《たち》の目お前に立っても彼らの視界には映らないらしいし、手を伸ばしても体はすり抜けてしまう。どれだけ人々の笑みが近くにあった所で、風斬は決して彼らの輪に加わる事はできない。  風斬にはそれが分かっていた。それでも、彼女はずっとずっと声をかけていた。同じ座標にある『外』———学園都市へ逃げ込む分には、他の人々へ干渉を及ぼさずに済むと思ったからだ。たとえ無理でも何でも、その場でできる事は何でも試してみたかった。  無視されても。気づいてもらえなくても。  その結果が、自分の心を傷つけると分かっていても。  だからこそ、|驚《おどろ》いたのだ。あの学校で、白いシスターの肩に触れられた時は。  ———空っぽのはずの体の中が、見えざる何かで満たされていく。  ———今ならばこの線路を走る列車だって追い抜けると思う。  彼女の知らない所で何かの偶然が重なって、ようやく皆と笑い合えるようになった。  きっとそれは、自分が化け物だという|記憶《きおく》を封じてでも守りたかった、大切な宝物だった。  だけど風斬|氷華《ひようか》は今、その宝物を自ら手放す事にした。  それ以上に大切な、決して失ってはいけないものを守るために。 「……っ!」  風斬氷華は弾丸のような速度で構内を走る。  おそらく人が見れば驚いて泡を飛ばすような速度で、走り続ける。  もちろん、あんな化け物と戦うのは怖い。、彼女は理屈ではなく、体で覚えている。手足を|千切《ちぎ》られる苦痛、体を|雑巾《ぞうきん》のように絞られる激痛。いっそ死んだ方がマシだと思うのに、死ぬ事すらできずに汚い地面を|這《は》い回る屈辱感。  だけど、それ以上に。  こんな化け物の本性を見られて、友達のインデックスに恐れられる方が、よっぽど怖い。 (それでも……)  その足が止まる事はない。彼女はただ前を見る。  |上条《かみじよう》やインデックスと|一緒《いつしよ》に歩いた、最初で最後の放課後は楽しかった。涙が出るほど幸せだった。できるのなら、そんな世界にずっとずっといたかった。もう二度と彼らと共に歩く事はできないと思うだけで、指先が冷たくなりそうだった。せっかくあの『|陽炎《かげろう》の街』から出てきた所で、それでは何の意味もないような気がした。 (……私は)  けれど、  失うのが怖いと思うからこそ、彼女は自分の大切なものを守りたかった。  もう二度と、その笑顔が向けられる事はないと分かっていても。  |風斬氷華《かざきりひようか》は、彼らの世界を守ってみたかった。 (私、は……っ!)  彼女は人間を捨てて、化け物として|闇《やみ》の中を走り続ける。空っぽの体の中に、見えない何かが満たされていーのが分かる。  行かなくてはならない、と風斬氷華は強く誓う。  大切な、友達を守るために。      4  |三毛猫《みけねこ》が逃げる。インデックスが追う。  コンビニ裏手の日陰に駆け込んだ三毛猫は、そこで鬼のような形相で追い駆けてくるインデックスを見て、慌てて逃げ出した。路上駐車してある車の下へ|潜《もぐ》り込み、金網のフェンスを飛び越えて、路地裏から路地裏へと走り抜け、ついにはどこかの打ち放しのコンクリートでできた|廃櫨《はいきよ》らしき所へ飛び込もうとした所で、 「こらっ!!」  インデックスが三毛猫の首根っこを捕まえた。  ぜーぜーはーはーと荒い息を吐くお怒り少女に対し動物的な本能が働いたのか、三毛猫は腕の中から逃れるためにバタバタと暴れ始める。大体をもって、彼女が大声でわめきながら追い回したりしなければ三毛猫だってここまで逃げ続ける事もなかっただろう。  暑苦しいから勘弁してくれと言わんばかりにみぎゃーと不満そうに鳴く三毛猫を胸に抱いて、インデックスは周囲を見回した。  まさに廃嘘だった。  背の低い雑居ビルに囲まれた裏路地に近い場所だが、周囲のビルはどれも取り|壊《こわ》しが決まっているものらしい。すでに看板は下ろされ、窓ガラスは外され、ドアもなく入口はぽっかりと 口を開けている。そこから|覗《のぞ》く屋内も内装がなく|剥《む》き出しのコンクリートの柱が見える。どうやら辺り一帯のビルを丸ごと壊して、何か大きな施設を作ろうとしているらしい事が|窺《うかが》えた。  三毛猫はしょうこりもなく廃嘘の中へ飛び込もうと短い足をぱたぱたと振って暴れていたが、怒ったインデックスはほっぺたを|膨《ふく》らませて、 「む! あんまり聞き分けない事言ってるとホントにお仕置きしちゃうかも!」  |三毛猫《みけねこ》の耳に向かって息を吹きかけると、ネコは本格的に嫌そうな鳴き声をあげてぶるぶると|震《ふる》え始めた。 |一瞬《いつしゆん》、反射的にその短い前脚からにょきっと|爪《つめ》が伸びかけたが、最低限の優しさはあるのか、再び爪は前脚の中へと戻っていく。 「ほら、短髪と待ち合わせしてる場所に戻るよ。お返事は?」  インデックスが言うと、三毛猫は不承不承という感じで一度だけ鳴く。  と、その時。  ピクン、と三毛猫は顔を上げた。それから、またインデックスの腕から逃れようとするように暴れ出した。ただし、今度は今までにないほど強く、インデックスは慌て始めた。腕に込める力が強すぎるのかも、とあれこれ試してみるが三毛猫は一向に落ち着く様子がない。  ぱらぱら、とインデックスの頭の上に何かが落ちてきた。 「?」  インデックスが頭の上に片手を置くと、コンクリートの粉がついていた。空を見上げると、そびえ立つ廃ビルの壁から粉末が降ってくるのが分かる。  かたかた、と足元のマンホールが震えていた。 「……、足元が、揺れてる?」  インデックスは首を|傾《かし》げかけて、ふと気づいた。ロンドン仕込みらしき|魔術師《まじゆつし》は地下———つまり足元に|潜《ひそ》んでいた、という事に。  彼女の|踏《ふ》んでいる地面が、生き物のように一瞬|糞《うごめ》いたように感じた。 「!?」  インデックスがとっさに後方へ飛んだ瞬間、彼女がついさっき立っていた場所が爆発した。爆心地からは、石を固めて作ったような化け物の腕が、伸びていた。その高さだけで二メートル近くにも及び、|拳《こぶし》は首の長い恐竜が見下ろすように、彼女お前に立ち|塞《ふさ》がっている。  道路の破片が大量に舞い飛ぶ。  インデックスの顔のすぐ横を、彼女の頭部より大きなアスファルトの塊が突き抜けた。彼女が慌てながら三毛猫をお|腹《なか》の辺りで抱えるようにして身を|屈《かが》めると、|蜂《はち》の大群が通り過ぎるように、彼女の頭上すれすれのラインをものすごい数の破片が通り過ぎた。  バチバチと、彼女の背後のビルに破片の豪雨がぶつかる音が不気味に|響《ひび》く。  だが、インデックスは後ろなど振り返らない。彼女はただ前を見る。そこには、まるで墓場から|這《は》い出る亡者のような動きで、ゆっくりと巨大な石像が姿を現していた。術者らしき人間はいない。遠隔操作が可能なのかもしれない。  インデックスの目が、音もなく細まる。  イギリス清教第零聖堂区『|必要悪の教会《ネセサリウス》』禁書目録としての|膨大《ぽうだい》な知識が意識の底から浮上する。一瞬すら待たない内に情報は整理され、彼女は目の前の敵の正体を浮き彫りにしてしまう。 (基礎理論はカバラ、主要用途は防衛・敵性の排除、抽出年代は一六世紀、ゲルショム=ショーレムいわく、その本質は無形と不定形)  ゴーレムと聞くと石や土でできた頭が悪く鈍重な化け物、というイメージがあるかもしれないが、実際には違う、  カバラでは、神様は土から人を作ったとされている。そして、その手法を人間が|真似《まね》た不完全な|代物《しろもの》がゴーレムである。つまりゴーレムとは『出来損ないの複製人間」であり、その本質はどちらかと言うとピノキオに似ているのかもしれない。 (応用性あり、オリジナルにイギリス清教術式を混合、言語系統はヘブライから英語へ変更、入体各部を十字架に照応、人の複製というより天使の組み立てに近い)  ただ、このゴーレムは単なるヒトガタとは異なる。  さらに一つ上の存在———人と良く似た天使を組み立てようとしているらしい。頭部、右手、左手、脚部をそれぞれ十字架の先端に見立て、各部に対応する四大天使の力を配して、より|戦闘《せんとう》に特化した泥と土の天使でも作り上げるつもりだったのだろう。  救いと言えば、元々人間の操る力には限界がある、という所か。人間の手では、|完壁《かんべき》な天使など作れない。水の大天使が丸ごと組み立てられる、といった事はないだろう。  だが、不完全な代物でも十二分に危険な存在である事に変わりはない。  ズン、という地を|震《ふる》わせる石像の足音。 「……ッ!」  インデックスは|三毛猫《みけねこ》を抱えたまま、一歩後ろへ下がる。  正攻法で立ち向かっても勝ち目はない。通常、この手のゴーレムにはシェムと言われる暴走時のための『指先で軽く|拭《ぬぐ》っただけで全機能を停止させる』安全装置がついているのだが、敵もプロだ。そんなものをおいそれと他人が触れられる場所に設置しないだろう。おそらく核たるシェムはその石の|鎧《よろい》に守られた体内に刻み込まれている。  インデックスは|魔術《まじゆつ》も使えなければ超能力も使えない。そういった不思議な力とは一切縁がないし、腕力だって人並み以下だ。|膨大《ぽうだい》な『知識』しか持たない少女に向かって、巨大な石像は容赦なくその腕を振り上げる。  |轟《ごう》!! と、空気どころか空間すら押し|潰《つぶ》そうとする|一撃《いちげき》お前に、少女は小さく息を|呑《の》み、 「|左方へ歪曲せよ《TTTL》」  一言、告げた。  |瞬間《しゆんかん》、ゴーレムが|真《ま》っ|直《す》ぐ放ったはずの|拳《こぶし》が、突然蛇のように左へ|逸《そ》れた。何もない空間を|薙《な》ぎ払う石像を|尻目《しりめ》に、インデックスは一歩だけ進み、ゴーレムの|隣《となり》に立つ。  石像は振り向きざまに|横殴《よこなぐ》りの拳を振るう。 「上方へ変更せよ《CFA》」  だが、その|一撃《いちげき》もやはりぐにゃりと軌道を曲げて、彼女の頭上を通り過ぎる。続けて石像が さらなる|拳《こぶし》を放とうとした所で、 「|左脚を後ろへ《PIOBTLL》」  バランスを無視して石像の足がいきなり後ろへ動いた。拳を振り上げた所で重心を失ったゴーレムはそのまま勢い良く後ろに倒れてしまう。  トントン、とインデックスは二歩、三歩と後ろへ下がる。  彼女の口から放たれる言葉はノタリコン。アルファベットの頭文字のみ発音する事で詠唱の暗号化と高速化の二つを同時にこなす発音方法だ。  インデックスは|膨大《ぽうだい》な|魔術《まじゆつ》の知識を有するが魔力を練る事ができないため、実際に魔術を使う事はできない。しかし、この光景を目にする者がいれば、彼女の姿は本物の魔術師のように見えた事だろう。  石像が立ち上がる。助走をつけるようにインデックスとの距離を詰め、その砲弾のような拳を放つ。少女は口の中で何かを|呟《つぶや》く。それだけでゴーレムの拳が不自然に軌道を変更し、まったく関係のない空を|薙《な》ぎ払う。  まるでインデックスの言葉がゴーレムの動きに割り込んでいるように見えた。術者がゴーレムに放つ命令に|横槍《よこやリ》を入れて、強引に制御を乗っ取っているかのごとく。  |強制詠唱《スペルインターセプト》。  原理は簡単、魔術の命令とは術者の頭の中で組み立てられる。ならば術者の頭を混乱させる事ができれば、その制御の妨害も可能だ。例えば頭の中で一から順に数を数えている人のすぐ耳元でデタラメな数字をささやいてカウントをメチャクチャにしてしまうように。  インデックスに魔術は使えない。  しかし逆に、敵の魔術師を自爆させる事ならできる。  この石像を操る術者はここにはいないが、インデックスは術式の構成から、この、、ゴーレムが自動制御ではなく遠隔操作によるものだという事を|掴《つか》んでいた。つまり、術者はゴーレムの五感を介してインデックスの様子を逐一観察している。それなら、そこに付け入る|隙《すき》がある。 「|右方へ変更《CR》。|両足を交差《BBF》、|首と腰を逆方向へ回転《TTNATWITOD》!」  次々と繰り出される石像の拳に対し、インデックスは矢継ぎ早に叫ぶ。まるで目隠しされた酔っ払いが|闇雲《やみくも》に手を振り回すように、ゴーレムの拳は全く関係ない所へと飛んでいく。 (さばくだけじゃ……足りない!)  インデックスは修道服のスカート部分を留めている安全ピンをまとめて引き抜く。まるでチヤイナドレスのように大きく足が|露出《ろしゆつ》するが気にしている余裕はない。  彼女は安全ピンを手に構えゴーレムを|睨《にら》みつける。  巨大な石像を相手にするには、あまりに貧弱な武器。 (自己修復術式を逆算、その周期はおよそ三秒ごと。逆手に取るなら……今!!)  彼女は迷わず安全ピンをゴーレムの足元に向かって投げ放った。石の装甲どころか人肌すらも傷つけられないほどゆっくりと弧を描くそれは、一度だけゴーレムの足に当たって跳ねると、磁石に吸い寄せられるように石像の体に|呑《の》み込まれた。  |瞬間《しゆんかん》。  ガチン、と関節に|楔《くさび》を打ち込まれたように、ゴーレムの右足首の動きが阻害された。  これも|強制詠唱《スペルインターセプト》と仕組みは似ている。この石像は周囲にあるものを利用して、自動的に体を構成したり修復する機能を持つ。ならば逆に、体の構成に必要のないもの———というより、阻害するものを投げてしまえば自浄・修復機能を逆手に取る事もできる。ちょうど骨折した腕を固定もせずに放置しておくと、変な形で固まってしまうように。  彼女の身の内に眠る一〇万三〇〇〇冊もの|魔道書《まどうしよ》。  しかしそれは単に知識を蓄えているだけでは意味がない。重要なのは、最適な答えを最速の時間で導き出す応用力にこそある。  いけるかも、とインデックスは少しずつ後退しながら考えた。まったく未知の術式である|錬金術師《れんきんじゆつし》の|黄金錬成《アルス=マグナ》や、詠唱よりも道具を重視する|闇咲逢魔《やみさかおうま》の|梓弓《あずさゆみ》など、彼女の|強制詠唱《スペルインターセプト》には一部通用しない例外があるが、このゴーレムには特にそういった問題はない。確実に石像の制御に割り込みをかけているし、安全ピンを上手く使ってダメージを与えてもいる。このまま上手く妨害を続ければ、術式の構成を|破綻《はたん》させてゴーレムを崩す事もできるかもしれないとインデックスは計算を働かせて、  ドン!! と、ゴーレムがその場で地面を|踏《ふ》みつけた。 「きゃあ……!?」  その巨大な|震動《しんどう》に、インデックスは足を引っ掛けられたように転んでしまう。彼女は舌打ちした,いかに相手の|攻撃《こうげき》に割り込みをかけようが、地面全体を揺さぶられては|避《さ》けようがない、 地に伏せるインデックスの正面に、石像は右脚を引きずりながらゆらりと歩み寄る。 「つ! 右方へ———」  彼女は叫ぼうとするが、それより先にゴーレムは己の二つの|拳《こぶし》を強く打ちつけた。  ゴドン!! という|衝撃波《しようげきは》がインデックスの耳を|叩《たた》く。組み立てかけた声は、強制的に打ち切られてしまう。彼女の胸の中の|三毛猫《みけねこ》が、あまりの|轟音《ごうおん》に悲鳴をあげた。  石像は改めて、天上へと拳を振り上げる。  インデックスは三毛猫を抱えたまま地面を転がり、少しでも距離を取ろうとしながら、 「|両足を平行に配置し重心を崩せ《MBFPADCOG》!」  彼女は叫んだが、ゴーレムは一度だけ頭を揺さぶると、パチン、とスイッチが切り替わったかのようにインデックスの命令を受け付けなくなった。 (ま、ずい……かも! 遠隔操作から自動制御に変更され———ッ!!)  インデックスの|強制詠唱《スペルインターセプト》は術者がいなければ効果は発揮できない。彼女の言葉が|騙《だま》すのは人間であって、心のない無機物を騙す事はできないのだ。  ゴーレムの|拳《こぶし》が空を|薙《な》ぎ払う。  インデックスの手ではもはやその|攻撃《こうげき》を止める事はできず、  ぐしやり、と。  生肉をコンクリートに|叩《たた》きつけるような、鈍い音が辺りに|響《ひび》き渡った。      5  |上条《かみじよう》はようやく大穴から地下鉄の構内へと降りていた。  ロープの代わりになるものを探し、それを結びつける場所を見つけるのに随分と時間がかかってしまった。彼は縄の代わりに使った太い消火ホースから手を離すと、暗い道を走り始める。 (くそっ! どいつもこいつもあっちこっちで好き勝手にトラブル起こしやがって。ただでさえ厄介な事態になってんだからテメェからハードル増やしてんじゃねえよ!)  コンクリ…トの地面に点々とエリスの足跡がめり込んでいる。暗い構内の先を見ても、|風斬氷華《かざきりひようか》の姿はもうなかった。足音らしきものも聞こえない。  上条は、最後に見せた彼女の笑みを思い出して、右手を強く握り締めた。  必殺の手。  触れれば|壊《こわ》れてしまう、|儚《はかな》い幻想の少女。 (終わらせてたまるか。こんなつまんねえ結末で、終わらせてたまるかf・)  風斬は、自分は化け物で良いと言っていたが、そんなはずはない。彼女は確かに人間ではないが、化け物なんて呼ばれるような存在ではない。  風斬氷華は人間じゃないから、助けてと声を出す事も許されないのか。  彼女は涙を流す事も禁じられ、ただ|黙《だま》って耐え続けなければならないのか。 (そんなはずが……あってたまるか!!)  彼は歯を食いしばって前へ進む。  地下鉄の構内の中央には等間隔で四角いコンクリートの柱があり、上り線と下り線を隔てている。どこまで走っても一向に変わらない風景に上条の神経はすり減らされていったが、  不意に、すぐ|側《そば》の柱が崩れた。  まるで見えない巨大な手で積み木を崩すような、明らかに不自然な現象だった。 「ちっ……!?」  自分に向かって倒れてくる柱に、|上条《かみじよう》は慌てて横合いへと跳んで|避《さ》ける。ズン、という恐ろしい音と共に、コンクリートの|粉塵《ふんごん》が舞い上がる。 「|流石《さすが》に、簡単には|潰《つぶ》れないわね……」  |闇《やみ》の先から声がかかる。上条は|咳《せ》き込みながら視線を向けると、|薄汚《うすよご》れたドレスを引きずるようにして、シェリー=クロムウェルが立っていた。  |彼我《ひが》の距離はおよそ一〇メートル強。  彼は|眉《まゆ》をひそめる。暴虐の象徴たる、エリスの姿がない、、 「ふ。うふふ。うふふうふ。エリスなら先に追わせているわよ。|今頃《いまころ》もう標的の元に|辿《たど》り着いているかしら。それとももう肉塊に変えちまってるかもなぁ」 「テ、メェ……っ!!」  上条は低く腰を落として|拳《こぶし》を握る。オイルパステルを使わなくてもエリスを操る方法はあったのだ。二元同時中継のように、頭の中の処理は大変になるだろうが。  と、そんな様子を眺めながら、シェリーは満足げに笑って、 「それでいい。ええ、それでいいわ。あなたは私の相手をしていなさい。エリスの元には、決して通してあげない」  そこまで言われて、彼はようやくシェリーの意図を知った。唯一エリスを|一撃《いちげき》で|破壊《はかい》できる上条だけは、何としてもここで足止めするつもりなのだろう。  |風斬氷華《かざきりひようか》もここを通ったはずだが、姿が見えない。  おそらくシェリーはわざと見逃した。本来のターゲットの一人であるはずの風斬を、何の未練もなく。すでに彼女の目的は完全にインデックスへ向けられてしまっている。  そして。  自分の相手は上条一人だと言わんばかりに。余計なものなど相手にしている余裕はないとでも告げるように、|魔術師《まじゆつし》は風斬を切り捨てた。  上条は以前シェリーが告げていた言葉を思い出す。 「戦争を起こすんだよ。その火種が欲しいの。だからできるだけ多くの人間に、私がイギリス清教の|手駒《てごま》だって事を知ってもらわないと、ね?————エリス』  シェリーが学園都市で|騒動《そうどう》を起こしている以上、イギリス清教がどこと戦争を起こそうとしているかなど問い|質《ただ》す必要もない。  しかし、それは本当にイギリス清教全体の考えなのだろうか?  少なくともステイルや|神裂《かんざき》、|土御門《つちみかど》がそんな風に考えているようには見えないのだが。 「……一体何を考えてんだよテメェ。|俺《おれ》には裏方がどうなってんのかなんて分かんねえけどよ、今はまだ科学も魔術もバランスが取れてんだろ。なのに何でわざわざそれを引っ|掻《か》き回そうとするんだ! なんか意味があんのかそれは!?」  上条の問いに、しかしシェリーは口元に含んだ笑みを浮かべるのみ。  にやにやと笑ったまま、彼女は告げる。 「超能力者が|魔術《まじゆつ》を使うと、肉体が|破壊《はかい》されてしまう。聞いた事はないかしら」 「なに?」  全然質問と違う答えに、|上条《かみじよう》は|眉《まゆ》をひそめるが、 「おかしいとは思わなかつたの? 一体どうしてそんな事が分かってるかって[#「一体どうしてそんな事が分かってるかって」に傍点]」  シェリーの言葉は、上条の胸へと少しずつ突き刺さっていく。 「試したんだよ、今からざっと二〇年ぐらお前に。イギリス清教と学園都市が、魔術と科学が手を|繋《つな》こうって動きがウチの一部署で生まれてな。私|達《たち》はお互いの技術や知識を一つの施設に持ち寄って、能力と魔術を組み合わぜた新たな術者を生み出そうとした。その結果が……」  彼女の言葉を最後まで聞かなくても、上条には結末が読めた。  能力者が魔術を使えば体が破裂する。それは『三沢塾』の学生達や|土御門元春《つちみかどもとはる》の例を挙げれば分かるだろう。 「その、施設ってのは……」 「|潰《つぶ》れたというか潰されたというか。科学側と接触していた事が知れたその部署は、同じイギリス清教の者によって狩り出されたわ。互いの技術・知識が流れるのはそれだけで攻め込まれる口実にもなりかねねえからな」  上条は押し|黙《だま》った。  科学者と魔術師が手を結ぼうとしたのも、それを止めようとしたのも、別に|誰《だれ》かを傷つけようと思ったものではない。 「エリスは私の友達だった」  シェリーはポツリと言う。 「エリスはその時、学園都市の一派に連れてこられた超能力者の一入だった」  上条は眉をひそめた。エリス、というのはあのゴーレムにもつけられていた名前だ。だとすると、シェリーはどんな|想《おも》いを込めてその名を呼んでいたのだろうと上条は思う。思った所で、本人以外の人間に理解できるはずもないと分かっていながら。 「私が教えた術式のせいで、エリスは血まみれになった。施設を潰そうとやってきた『|騎上《きし》』達の手から私を逃がしてくれるために、エリスは|棍棒《メイス》で打たれて死んだの」  暗い地下鉄の構内に、教会のような静寂が張り詰める。  シェリーはゆっくりとした口調で、 「私達は住み分けするべきなのよ。互いにいがみ合うばかりでなく、時には分かり合おうという|想《おも》いすら|牙《きば》を|剥《む》く。魔術師は魔術師の、科学者は科学者の、それぞれを領分を定めておかなければ何度でも同じ事が繰り返されちまう」  そのための、戦争。 「クソ、なんか話が|噛《か》み合わねーな。お互いを守るためなら戦争を起こしてどーすんだよ。いや、実際に起こす気はねえよな。テメェの目的を果たすためなら、わざわざ戦争まで発展しなくても、『戦争が起きそうになった』「危険は目の前まで迫っていた』ってだけで十分だからな」 「買いかぶってんじゃないわよクソガキ。ナニ哀れみの目で人を見てやガンだ」  シェリーはそう言うが、|上条《かみじよう》は自分の意見に間違いはないと確信している。|魔術師《まじゆつし》と科学者の決定的な激突を|回避《かいひ》したい、という彼女の矛盾する要求は、お互いがお互いを遠ざけ、相手を理解しようという考えを浮かばせない事でも満たせるのだ。  少なくとも、完全に接点のない相手には好意も憎しみも生まれないのだから。  対立するばかりでなく。  協力しようとした結果、生まれてしまう|摩擦《まさつ》を防ぐために。 「……、」 『魔術師と科学者は距離を置いて住み分けるべきだ』———確かにシェリーの書葉には一理あるかもしれない。それに対する上条の反論材料なんて、本当に個人的で身勝手に聞こえるかもしれない。だけど、上条にはどうしてもシェリーの意見に納得できない理由があった。  インデックスと離れ離れになるかもしれない。  いや、『火種』として使われるなら、彼女は殺されてしまうかもしれない。 |馬鹿馬鹿《ばかばか》しいほど個人的な理由。  だけど、上条にはどうしてもそれを否定させる気にはなれなかった。  絶対に。  シェリー=クロムウェルは|荒《すさ》んだドレスの|袖《そで》から白いオイルパステルを取り出す。上条はその指先の動きに警戒しながらも、内心で首を|傾《かし》げていた。シェリーの話が|全《すべ》て真実ならば、彼女は二体同時にゴーレムを作る事はできないはずである。そしてエリスを封じられた一対一では難なく|殴《なぐ》り飛ばせた所を見ると、エリス以上の切り札を持っている訳でもないらしい。  と、シェリーは乱雑な金髪を揺らすように笑いながら、 「くふ。存外、気がつかないものなのね、辺りが暗いのも一役買ってんだろうけどな」 「なに?」  上条は聞き返した。シェリーの手の中のオイルパステルはゆっくりと揺れている。ゴーレムを作れない今の彼女は、床や壁に文字を書いても|瓦礫《がれき》を崩す事しかできないはずだ。 「おやおや、違和感は覚えなかったの? 私が|何故《なぜ》、わざわざこうして|焙闇《くらやみ》から姿を現してべラベラしゃべってたのか、とか。普通なら闇に紛れ、テメェが通り過ぎようとした所を|攻撃《こうげき》した方がよっぽど効果的じゃねえか」  上条は|講《いぶか》しむ。今のシェリーにできる事は手近な壁を崩す事のみ。一〇メートルも距離が開いているこの状況下では大した事はできないはずだ。 「そう、そしてこの場所。私がここを選んだ理由は? 一本道なのだから待ち。伏せしなくても行き違いになる事はないのに、どうしてわざわざこの一点でじっと待っていたのだと思う?」  だが、そうだとすれば。  今さっき、|上条《かみじよう》のすぐ近くの柱が崩れたのは何だったのか。 「つ・ま・り・は、こういう理屈よ! 目ぇ|剥《む》きやがれ!!」  ヒュン、とシェリーは空を引き裂くようにオイルパステルを横に振るう。  |瞬問《しゆんかん》、地下鉄の構内全体が淡く輝き始めた。 (これは……!?)  上条は|驚愕《きようがく》した。壁や|天井《てんじよう》のあらゆる場所がオイルパステルで描いたとされる紋様でびっしりと埋め尽くされている。上条の後方も、シェリーのその先も、見渡す限りその|全《すべ》てが、だ。|流石《さすが》に地下鉄全線とまではいかないだろうが、少なくとも前後一〇〇メートル以上は落書きで 塗り|潰《つぶ》されている。  床には、まるで天井から水滴が|滴《したた》り落ちるように|魔法陣《まほうじん》が点々と描かれている。 (ま、ず……この魔法陣、もしかしたらエリスの……ッ!?)  上条は|戦傑《せんりつ》する。良く見れば構内を埋め尽くす魔法陣は、全く同じ模様でタイルのように積み重ねて作られていた。  シェリーが言うには、彼女は二体同時にゴーレムを作れないらしい。その話が本当なら、ここで新たなエリスが登場する事はないだろう。  が、シェリーは地下街からこの構内へ逃げ出す時に、一体何をやった?  ゴーレムの魔法陣は失敗すると、床をボロボロに崩してしまうらしい。その魔法陣が構内中に刻み付けてあるという事は、つまり……。 (くそ……まさかトンネル丸ごと潰す気か?)  ビルの爆破工事では、一っの巨大な爆弾を使う訳ではなくビル全体に細かい爆弾をたくさん設置して爆破するらしい。この魔法陣もそういう意味が込められているのだろう。  魔法陣の数はどれだけのものか。一つ直径一メートルの円だったとして、一列に並べただけで一〇〇、さらにそれが壁や天井まで埋め尽くすとなれば何倍になるか。もし仮に、これが一つ一つバラバラの魔術だとすれば、一回二回手で触れた所で全ての魔法陣を消す事はできない。  シェリーがこの場に|留《とど》まっていたのは、この準備のためだったのだ。お前に用意だけ整えておけば、わざわざ上条に近づかなくても命令一つで辺り一帯をまとめて押し潰せる。 「地は私の味方。しからば地に囲われし|闇《やみ》の底は|我《わ》が領域」  歌うように、シェリー=クロムウェルは告げる。  彼女の周囲にも魔法陣は描かれており、このままでは彼女も巻き込まれてしまうはずだが、当然ながらシェリーは何らかの逃げ道を用意しているのだろう。彼女の周りだけは|瓦礫《がれき》が|逸《そ》れ、ドーム状の空間ができるようになっているとか、崩れ方を計算して、地上への出口となる穴ができるようにしてあるとか。 「チィ……ッ!!」  |上条《かみじよう》は舌打ちした。今からシェリーの元へ走ろうが後ろへ逃げようが間に合わないだろう。 元より敵が作った|罠《わな》だ、退路など用意されているはずがない。  シェリーはそんな上条の|焦《あせ》りすらも計算に入れていると言わんばかりの余裕の表情を浮かべて、 「|全《すべ》て崩れろ! 泥の人形のように!!」  絶叫に呼応するように、周囲はより一層の輝きを増した。まるで構内全体が巨大な蛇の腹の中にでもなったかのように、低く不気味に|蠕動《ぜんどう》する。 (くそ、どうする……ッ!?)  |闇雲《やみくも》に走った所でどうにかなる状況ではない。構内を埋め尽くすほどの数の|魔法陣《まほうじん》は右手一つで消し去る事もできない。大体、|天井《てんじよう》の高さを考えれば手が届かないのは明白だ。壁や床の魔法陣を消した所で、一番厄介な天井からの崩落を防げなければ生き埋めにされてしまう。  と、そこまで考えた上条は、ふと自分の体の動きを止めた。  床の魔法陣? 「愚者を|呑《の》み込め! 泥の中へと練り混ぜろ! 私はそれでテメェの体を肉付けしてやる!」  最後のスイッチを入れるように、シェリーは叫ぶ。  壁や天井に|亀裂《きれっ》が走り、まるで風船のように内側から|膨《ふく》らんだ。いや、耐久度を失った天井が、大量の土砂の重みに負けているのだ。 「く————ッ!?」  破裂寸前のシャボン玉のような|天井《てんじよう》の下を、|上条《かみじよう》は|弾《はじ》かれたように駆け抜ける。|狙《ねら》いは一つ、ただ前方へと。術者であるシェリーの立ち位置は、おそらく|瓦礫《がれき》に埋もれない唯一の安全地帯なのだろう。しかし、上条の足ではどう考えても崩お前に彼女の元まで向かうのは不可能だ。 (だから、そこじゃねえ)  上条はその右手を握り、走りながら腰を低くした。地を|舐《な》めるように駆ける彼の狙いはただ一点。シェリー=クロムウェルではなく、もっと手前の床に描かれた|魔法陣《まほうじん》だ。  学校の食堂でインデックスが|喚《わめ》いていた事を上条は思い出す。 『じゃあとうまは分かる? イギリス仕込みの十字架に|天使《テレズ》の|力《マ》を込める偶像作りのための聖堂内における術式を行う時の方角と術者の立ち位置の関係とか! 実際、メインの術式の余波から身を守るための防護の魔法陣を置く場所は厳密に定められていて、そこから少しでも外れるとサブ的な防護はメインの術式に食われて上手く機能しなかったりするんだけど、とうまはそういった黄金比は分かるのかな? ほらほら、こんなの常識だよ!』 (その魔法陣だけが、意味がねえんだ)  そう、壁や天井へ描かれた魔法陣は、この構内を崩して上条を生き埋めにするためのものだろう。それは分かる。だが、それなら床に魔法陣を描く必要はない。床を崩した所で上条は生き埋めになどならないのだから。 (だとすれば、その魔法陣だけは別の意味がある[#「別の意味がある」に傍点]!!)  上条の行く先に気づいたシェリー=クロムウェルの顔が|驚《おどろ》きに染まる。慌ててオイルパステルを振るい、周囲の壁や柱に命令を下すが、もう遅い。上条は崩れ落ちる壁を|避《さ》けて倒れてくる柱の下をくぐり抜け、床に描かれた魔法陣へと右手を振りかざす。  そして迷わず振り下ろす。  魔法陣は、まるで|凍《の》った|水溜《みずたま》りを砕くように消えて散った。  シェリーにとって、この場で必要なもう一つの術式。  それは、彼女自身が崩落から身を守るための安全地帯を作るためのものだとしたら。  安全地帯を失った以上、彼女は|迂闊《うかつ》に崩落を起こす事はできなくなる。 「チィッ!!」  シェリーは慌てたようにオイルパステルを宙で振り回した。今にも|堰《せき》を切って崩れ落ちようとしていた天井がギシギシと|軋《きし》んだ音を立てて再び固定されていく。  バン!! という壮絶な足音。  シェリーが驚いて視線を天井から前方へと戻すと、まるで飛び石のように床を跳ねる上条が、すでに彼女の|懐深《ふところ》くへと|潜《もぐ》り込んでいた。  シェリーはとっさにオイルパステルを振るおうとするが、  それを軽々と追い抜いて、上条の|拳《こぶし》がシェリーの顔面へと突き刺さった。  髪もドレスも振り乱して、シェリーの体が地下鉄の構内を勢い良く転がっていく。彼女は何メートルも吹き飛ばされてからようやく動きを止めた。これだけ大掛かりな準備をした|攻撃《こうげき》を|回避《かりひ》されたせいか、その顔には強烈な|焦《あせ》りと|緊張《きんちよう》の表情が刻み付けられている。 「……くそ、ちくしょう」  シェリーは一歩、二歩とよろめくように後ろへ下がりながら、|忌《いまいま》々しげに|呟《つぶや》いた。その手に購えるオイルパステルも小刻みに|震《ふる》え、ともすれば指の圧力で半ばから折れてしまいそうにも見えた。 「戦争を、『火種』を起こさなくっちゃならねえんだよ。止めるな!今のこの状況が一番危険なんだって事にどうして気づかないの!? 学園都市はどうもガードが|緩《ゆる》くなっている。イギリス清教だってあの禁書目録を|他所《よそ》に預けるだなんて甘えを見せている。まるでエリスの時の状況と同じなのよ。私|達《たち》の時でさえ、あれだけの悲劇が起きた。これが学園都市とイギリス清教全体なんて規模になったら! 不用意に互いの領域に|踏《ふ》み込めば、何が起きるかなんて考えるまでもないのに!」  シェリーの声は暗い地下を何度も|反響《はんきよう》し、|上条《かみじよう》の耳を多角的に揺るがしていく。  彼女の行動原理には、一人の友達の死がある。  そしてシェリーは科学者と|魔術師《まじゆつし》が不用意に距離を縮める事は悲劇を生むと考えている。それはいがみ合うだけでなく、時には仲良くなろうという|想《おも》いすらも裏目に出ると。彼女からすれば科学側と魔術師が争いを起こさないようにするためには、もうお互いの領域をきっちりと決めて住み分けをして、双方のエリアから一人残らず他勢力の入問を締め出すしかないと思っている。  そのための手段として、シェリーは戦争の火種を作ろうとした。  相手を分かろうという気持ちが生まれないようにするために。その大切なはずの気持ちが裏目に出てしまって悲劇を生む事を知ってしまったから。  実際に戦争を起こす気はない。『火種を作った』という事実ができれば目的は達成される。  そこまで考えて、上条はつまらなそうに息を吐いた。 「くっだらねえ。そんな言い分で正当化できると思うな! |風斬《かざきり》が何をした? インデックスがお前に何かやったのか!? 争いたくないなんてご大層な演説してる割に、お前は一体|誰《だれ》を殺そうとしてんだよ!!」  上条は、胸の内にあるものを吐き出すように叫ぶ。  納得できない事があるからこそ、彼は叫ぶ。 「怒るのは良い、|哀《かな》しむのだって止めはしない。けどな、向ける矛先が間違ってんだろうが!そもそも|誰《だれ》に向けるもんでもねえんだよ、その矛先は! もちろんそれは|辛《つら》いに決まってる。|俺《おれ》なんかに理解できるはずもねえってのは分かってる! それでもテメェがその矛先を誰かに向けちまったら、それこそテメェが嫌う争いが起きちまうだろうが!!」  エリスが死んでしまったのは、一部の科学者や|魔術師《まじゆつし》が手を取ろうとしたり、それを危険視したイギリス清教の人間のせいだったらしい。  それを知った|瞬間《しゆんかん》、果たしてシェリーは何を考えただろうか?  自分の大切な友達を殺した人間に対する|復讐《ふくしゆう》か。  それとも、もう二度とこんな悲劇を繰り返させないという誓いか。 「……分かんねえよ」  ギリ、とシェリー=クロムウェルは奥歯を|噛《か》み締める。 「ちくしょう、確かに憎いんだよ! エリスを殺した人間なんてみんな死んでしまえば良いと思ってるわよ! 魔術師も科学者もみんな八つ当たりでぶっ殺したくもなるわよ! だけどそれだけじゃねえんだよ! 本当に魔術師と超能力者を争わせたくないとも思ってんのよ! 頭の中なんて始めっからぐちゃぐちゃなんだよ!」  相反する矛盾した絶叫が、暗い構内に|響《ひび》き渡る。  彼女自身もそれに気づいているのか、余計に自身を引き裂くような声で、 「信念なんか一つじゃねえよ! いろんな考えが納得できるから苦しんでいるのよ! たった一つのルールで生きてんじゃねえよ! ぜんまい仕掛けの人形みたいな生き方なんてできないわよ! 笑いたければ笑い飛ばせ。どうせ私の信念なんか星の数ほどあるんだ! 一つ二つ消えた所で胸も痛まないわよ!!」  対して、|上条当麻《かみじようとうま》は一言で、 「何で気づかねえんだよ、お前」 「……何ですって?」 「確かにお前の言葉は|無茶苦茶《むちやくちや》だ。お前の主張はお前の中でも正反対だし、それはみんなの意見が分かるからだろうし、だからこそ自分の信念なんて簡単に揺らいでしまう……とか何とか思い込んでるみてえだけどさ、そんなの違うだろうが。結局テメェの中にある信念なんて、最初から最後まで一つきりしかねえんだよ」  彼は言う。  彼女自身すら気づいていない、ただ一つの答えを。 「結局、お前は大切な友達を失いたくなかっただけなんじゃねえのか?」  そう。  シェリー=クロムウェルの中にどれだけの数の『信念』があって、それがまったく正反対の矛盾した内容であっても、一番最初の根っこは変わらない。|全《すべ》ての信念は、彼女の友達の一件から始まり、そこから分岐・派生した形にすぎない。  例えば彼女の信念が星の数ほどあったとしても、  その友達に対する|想《おも》いだけは、ずっと変わっていなかった。 「そこを|踏《ふ》まえて考えろ。もう一度でも何度でも考えろ! テメェは泥の『目』を使って|俺達《おれたち》を監視してたよな。テメェの目にはあれがどう映った? 俺とインデックスは、互いの領域を決めて住み分けしなくちゃ争いを起こすような人間に見えたのか!」  |上条当麻《かみじようとうま》は叫ぶ。 「その星の数ほどある信念の共通部分で考えろよ! 俺やインデックスがお前に何かしたのか!? テメェの目には俺が嫌々インデックスに付き合わされているように見えたのかよ。そんなはずねえだろうが! 住み分けなんかしなくても良いんだよ! そんな風にしなくたって俺達はずっと|一緒《いつしよ》にやっていけるんだ!!」  上条とインデックスの関係が、本来シェリーが願っていた姿のはずじゃないのか、とは言わない。ならばこの理想の姿を|壊《こわ》すんじゃないなどと、言えるはずがない。シェリーが望んでいた、そしてもう二度と|叶《かな》うはずのない願いはたった一つのはずだ。それは|他《ほか》のもので代えられるはずがない。上条だって他の|誰《だれ》かを代わりにしろと何者かに言われたら、迷わずそいつの顔を|殴《なぐ》り飛ばすに決まっている。  だからそんな事は言わない。  上条当麻が告げるのは、たった一つ。 「お前の手なんか借りたくない! だから、俺から大切な人を奪わないでくれ!」  シェリー=クロムウェルの肩がビクリと|震《ふる》えた。  彼女の願いはもう|叶《かな》わなくても、それがどれだけ大事な望みだったかは覚えているはずだ。彼女はそれを奪われたからこそ、その痛みがどれほどのものかを知っているはずだ。  シェリーの顔は、苦痛に耐えるように|歪《ゆが》んでいた。  上条の言葉は、単純すぎる|故《ゆえ》に理解するのは難しくない。それがどれだけ幼稚な|台詞《せりふ》であっても、シェリーに届かないはずがない。|何故《なぜ》なら、それはかつて彼女自身が放った事があったはずの叫びだからだ。 「———|我が身の全ては亡き友のために!!《Intimus115》」  しかし、彼女は拒絶するように絶叫した。  放たれるのは|魔法名《まほうめい》。  彼女は、上条の気持ちが痛いほどに良く分かっているのだろう。  その一方で。  シェリー=クロムウェルの信念は一つではない。それが分からない気持ちも理解できるのだろう、いや、上条の気持ちが納得できるからこそ、かもしれない。今はもう自分にないものを持っている人間を、自分の手でどん底まで突き落としたい。無数にある信念の中には、そんなものがあってもおかしくはない。  ビュバン!! と、彼女の手の中にあるオイルパステルが|閃《ひらめ》く。  シェリーのすぐ横の壁に紋様が走った|瞬間《しゆんかん》、それは紙粘土のように崩れ落ちた。巻き上げられる大量の|粉塵《ふんじん》があっという間に二人の視界を遮断してしまう。  |鑑《うごめ》く|霧《きり》のような灰色のカーテンが迫り来るのを見て、|上条《かみじよう》は思わず後ろへ下がろうとする。  と、その瞬間、眼前まで迫った粉塵を突き破るようにシェリーが飛びかかってきた。オイルパステルを手に、弾丸のような勢いで上条の|懐《ふところ》へと|踏《ふ》み込む。  上条はぎょっとした。あのオイルパステルに落書きされたものは、鉄だろうがコンクリートだろうが何でもエリスの材料にしてしまう。何でも、というなら、人の肉だって例外ではないかもしれない。 「死んでしまえ、超能力者!!」  鬼のような|罵声《ばせい》を放つ彼女の顔は、しかし泣き出す寸前の子供のようにも見えた。 (ああ、そうか)  上条は反射的に右の|拳《こぶし》を握り締めながら、ふと思った。  これはおそらく、彼女の切り札ではない。この方法で確実に上条を仕留められるなら、最初から使っていれば良いはずなのだ。|警備員《アンチスキル》にエリスを足止めされたからといって簡単に|殴《なぐ》られるはずがないし、こうして地下鉄構内で|罠《わな》を張る事もない。  シェリー=クロムウェルの信念は星の数ほどあるという。  無数の考えが納得できるからこそ苦しいんだ、と彼女は叫んでいた。  ならば、 「自分を止めて欲しいって気持ちも、理解できる訳か」  ゴン!! と、上条の拳が柔らかいオイルパステルを粉々に砕く。  勢い余った拳はわずかに軌道を|捻《ね》じ曲げ、シェリー=クロムウェルの顔面を殴り飛ばした。  ガンゴン!! という|凄《すさ》まじい音を立てて彼女の体は構内の地面を跳ね回った。  柱に寄りかかるようにして倒れているシェリーに、上条はゆっくりと近づいていく。どうやら彼女は気を失っているらしい。 (エリスの方は……これで、止まったのか?)  上条はいまいち確信が持てなかった。シェリーを|叩《たた》き起こして問い|質《ただ》しても良いが、彼女が正直に答えるとも限らない。答えがイエスだろうがノーだろうが、どちらにしても上条の中の不安が消える事はないだろう。 (ちくしょう。これなら自分の目で確かめた方が早そうだ!)  念のために上条は落ちていた廃棄コードを拾って、それでシェリーの手足を|縛《しば》る事にした。後ろ手に彼女の手首を拘束すると、|上条《かみじよう》は再び構内の奥へと走っていく。  構内を走るにつれて、|暗闇《くらやみ》の奥から、少しずつ、重く低い|震動《しんどう》が地を|這《は》って米る。  エリスの居場所など、聞き出すまでもない。 「……、」  シェリー=クロムウェルはその一〇秒後に、うっすらと両目を開けた。  意識など、最初からあった。  |何故《なぜ》さっさと殺さなかったのだろう、と彼女は思う。殺されても文句は言えない、という気持ちも理解できたからこそ、シェリーは|無謀《むぽう》とも言える特攻を仕掛けたのに。  今は殊勝な事を考えているが、彼女の中には無数の信念があり、この後どれが浮上するか分からない。この|縛《しば》りを解き、再び彼らを殺しに出向きたくなるかもしれない。  なまじ少年の言葉が理解できた以上、彼らを傷つけたくないという感情も芽生えている。しかしその一方で、やはり彼女はまったく正反対の事も考えていた。  シェリーは後ろ手に縛られたまま、体を揺すって衣服の中からオイルパステルを取り出す。 (エ、リス、は……)  地面に転がったオイルパステルを後ろ手で取った所で、ふとシェリーは気づく、エリスは彼女の命令を離れ、自動制御で動いている。それはつまり『|壊《こわ》れろ』という一番簡単な指示すら聞かない状態と言っても良い。後は安全装置たるシェムを|破壊《はかい》するか、エリスの肉体の九〇%以上を二秒以内に吹き飛ばす以外に止める方法はない。  シェリーは階々しげに、手の中に残る最後のオイル。パステルを握り|潰《つぶ》した。  彼女はエリスを二体同時に作り上げるのは不可能だ、現状のエリスが破壊されない限り、シェリーは新たなゴーレムを生み出せず、それはつまり後ろ手に縛られて地面に転がされている、この状態を打破できない事を意味していた。 (エリス)  身動きを封じられたシェリー=クロムウェルは、届かぬ命をエリスへ送る。  果たしてそれは標的の破壊か、それともその中止命令か。  彼女には、その両方の気持ちが理解できる。      6  ゴーレムの頭がパチンと揺れた。  インデックスの『|強制詠唱《スペルインターセプト》』が通じなくなる。  巨大な石像は大きく|拳《こオし》を振りかぶって、  肉を|潰《つぶ》す不気味な音が、|廃嘘《はいきよ》だらけのビルの谷間に|響《ひび》き渡った。  しかし、それはインデックスの体が|潰《つぶ》れる音ではない。|三毛猫《みけねこ》だって傷一つない。かと言って、ゴーレムから発せられる音でもない。そもそも、石でできた化け物からあんな音が聞こえるはずがない。  |風斬氷華《かざきりひようか》。  インデックスの背後からその頭上を跳び越した少女が、石像の腹に飛び|蹴《け》りを|喰《く》らわせていた。並大抵の速度・威力ではない。まるで|陽石《いんせきち》が|直撃《よくげき》したかのような一撃だった。  ゴドン!! という|轟音《ごうおん》。  勢いをつけた鉄球を止まっている鉄球にぶつけたように、ゴーレムの巨体は吹き飛ばされ、空中で縦に三回転もしてからうつ伏せに倒れた。その一撃で、あの巨体が七メートル近くも飛んだ。それと対照的に、風斬の体は|全《すべ》ての運動エネルギーを石像に伝導させて、ふわりと宙で制止していた。  ふわりと羽のように、風斬氷華は地に舞い降りる。  ドッ!! という重たい|震動《しんどう》。  蹴りを放ったのとは逆の足が地に着いた|瞬間《しゆんかん》、巨大なハンマーを打ちつけたように彼女の足を中心に半径ニメートルほどの地面に|亀裂《きれつ》が走った。まるで風斬だけが一〇倍の重力の中で生きているかのような|錯覚《さつかく》すら感じさせる光景だった。 「ひょう、か……?」  インデックスはその後ろ姿に声をかけようとして、息が詰まった。  飛び蹴りを放った風斬の右脚が、|膝《ひざ》の上から|木《こ》っ|端微塵《ぱみじん》に吹き飛んでいた。先ほどの一撃———重量数トンを誇る巨体を|薙《な》ぎ倒すほどの威力だ、そんな攻撃を放てば生身の肉体では反動に耐えられない。  と、そう思っていた。  だが、風斬の足の切断面の奥はただの空洞でしかなかった。傷口も、まるで透明な柱に塗ったペンキが|剥《は》がれるような、不自然なものでしかなかった。 (……な、なんだろう。あれ)  三毛猫を胸に抱いたまま、インデックスは考える。  |跳戸術《ちようしじゅつ》、|死霊術《ネクロマンシー》、|栄光の手《ハンドオブゲロウリー》、ヴェータラ|呪術《じゆじゆつ》、エリクシルなど、彼女の頭の中には死者をも扱う|魔術《まじゆつ》の技術・知識が山ほど詰め込まれている。中にはおぞましくも死人の体に何らかの加工を施して自在に操る術さえも存在する。  しかし。  そんな彼女をもってしても、目の前の光景を説明する事はできない、  人間とは、あそこまで変質してしまってよいものなのだろうか?  ズバン!! と、大きなシーツで空気を|叩《たた》くような音が聞こえた瞬聞、風斬氷華の|壊《こわ》れた足が、|痕跡《こんせき》残らず元に戻った。まるで強力なスプリングの力で切断面から新たな足が飛び出したかのような|凄《すさ》まじい速度だった。 「逃げて」  |風斬氷華《かざきりひようか》は振り返らない。  ただ、彼女の背中は告げる。 「あなたは、早く逃げて。……ここは、まだ……危ないから」  その声はインデックスの良く知る少女のもので、それ|故《ゆえ》に彼女は声をかける事がためらわれた。警戒を解くべきか解かざるべきか、この少女が本物の『風斬氷華』なのか良く似た|偽物《にせもの》なのか、判断に迷ったのである。  その時、うつ伏せに倒れていた石像がギチリと|軋《きし》んだ音を立てた。  ゴーレムは起き上がろうとしているらしいが、風斬の|一撃《いちげき》が石でできた体に構造単位のダメージを与えたのだろう。人間でいうと腰の辺りに何かが引っかかったように、ギチギチと不気味な音を立てて関節を|震《ふる》わせて……。  ボギン、と骨の折れるような音が|響《ひび》いた。  無理に体を動かした結果、作り物の肉休の内側が|破壊《はかい》された音だった。  ギギギギガガガガガ!! と石の化け物が悲鳴をあげた。いや、あのゴーレムには発声器官などない。全身の関節が強引に動かされた事による不協和音だ。石像は立ち上がる事もできず、四つん|這《ば》いになりながら天に向かって|吼《ほ》えるように頭上を仰ぎ見る。  |轟《ごう》!! と風が渦を巻いた。  絶叫するゴーレムを中心として、竜巻のような烈風が吹きすさぶ。この廃ビル区画を丸ごと|呑《の》み込むほど巨大な風の塊だ。それは、そこにあるもの|全《すべ》てを舞い上げ、四方八方へ吹き飛ばす|類《たぐい》の風の暴力ではない[#「ではない」に傍点]。むしろ性質としては近づく船を引き寄せ海底へ沈める渦巻きの方に近い。  風は外側ではなく、内側へ向かって|炸裂《さくれつ》する。  小石が、空き缶が、捨て置かれ允自転車が、ガラスのない窓枠が、片っ端からゴーレムの元へと寄せ集められ、グシャグシャと見えない力で押し|潰《つぶ》されてその体の一部とされていく。 (ま、ず……。さっきの一撃で、ゴーレムの再生機能が暴走しているのかも……ッ!)  ともすれば腕の中から離されそうになる|三毛猫《みけねこ》を必死に抱きながら、インデックスは|戦懐《せんりつ》した、『風斬氷華』の一撃は、おそらく石像に致命的なダメージを与えたのだ。その体内に隠された『核』たる安全装置、シェムに至るまで。そしてもう治らない傷を無理矢理に治そうとした結果、ゴーレムは手当たり次第に何でも集めて自分の体を再構成しようと命令を送り続ける事になった。  何をやっても、決して治るはずのない傷。  |故《ゆえ》に『傷が治るまで体の修復作業を続ける』という命令は永遠に永遠に永遠に繰り返される。石像は本来の目的部位を治せないまま、余計な部品を次々と取り込んで雪だるまのようにその体を|膨《ふく》らませていく。元より四メートル近くあった体が、ものの三〇秒も|経《た》たない内に縦横ともに二倍近く増大していた。四つん|這《ば》いの体勢で、すでにインデックス|達《たち》に|覆《おお》い|被《かぶ》さる屋根のように見える。  周囲のビルがギシギシと音を立て始める。  まるで暴風に揺れる木々のように不気味な音色を放つ巨大建築物に、インデックスの顔は真っ青になった。このままでは彼女達の周りにある建物も崩される。その崩落に巻き込まれればまず助からないだろう。それお前に、竜巻の威力が建物を|壊《こわ》すほどになれば、インデックスがどれだけ歯を食いしばって耐えようとした所で足は地を離れ、石像の体に|呑《の》み込まれてしまう。  逃げなければ、と彼女は思う。  術者いらずの自動制御である以上、あのゴーレムに|強制詠唱《スペルインターセプト》は通じない。再生機能の誤作動と自己|崩壊《ほうかい》を承知で動いている以上、安全ピン程度で動きを封じられる相手でもない。悔しいが、本当に悔しいが、|魔力《まりよく》を精製する力を持たない彼女にはいくら|膨大《ぼうだい》な知識があっても今は何もできない。  インデックスにはあのゴーレムを押さえつけられない。彼女の知る限り、この事態を収拾できるのは唯一絶対の右手を持つあの少年だけだ。 「ひようか、早く逃げよう!」  彼女は叫ぶ。インデックスには目の前の『|風斬氷華《かざきりひようか》』が本当に放課後|一緒《いつしよ》に遊んだあの少女と同一人物なのかどうか、今一つ確信が持てなかったのだが。  その時、廃ビルの外壁が|薄《うす》く|剥離《はくり》した。  竜巻に巻き込まれ、巨神の握るハンマーのような石塊が空を舞う。インデックスは|三毛猫《みけねこ》を抱えながら慌てて地面に|屈《かが》み込んだ。彼女の頭上を通り過ぎたコンクリートの塊がアスファルトに|直撃《ちよくげき》し、ばら|撒《ま》かれた地面の破片もやはり風に乗ってゴーレムへと吸い寄せられる。  逃げるどころか、|迂闊《うかつ》に顔を上げるだけで宙を舞う|瓦礫《がれき》に激突しかねない。  そんな絶望的な状況の中、風斬氷華は何もしないでその場に突っ立っていた。  その顔のすぐ横を、彼女の体より巨大な瓦礫が突き抜けるのに、首をすくめる事すらしない。彼女の姿は、まるで|嵐《あらし》の海を眺める老入のように少しも動じない。  風斬氷華は振り返らずに、ただ静かに語る。 「あなたは……早く逃げて」 「あなたはって、ひょうかはどうするの!?」  風に飛ばされそうになる三毛猫を押さえつけながら、インデックスは問い|質《ただ》すと、 「私は……」少女は、少しだけ考えた後に、「あの化け物を……止めないと」  風斬氷華が告げた|瞬間《しゆんかん》、その声に応じるように、四つん這いだった石像がその右腕を振り上げた。体の重量が増したためか、その動きはゆっくりだった。だが、それは|決壊《けつかい》寸前のダムのように、蓄えた力を全解放する瞬間を待っているようにも見える。  |一度《ひとたび》その|拳《こぶし》が放たれれば、暴虐の|一撃《いちげき》は辺りのビルすら巻き込んで彼女|達《たち》の体を粉々に吹き飛ばすに違いない。どう防御しようが、そもそも人体の限界強度を超えている。 「無理だよ。ひょうか、逃げなきゃダメだよ! あれは人問が真っ向から相手にしちゃいけない敵だし、倒すにしても策を練って裏に回らないとダメなんだから! ひょうかが無理して戦わなきゃいけない理由なんてどこにもないんだよ」  インデックスの言葉に、しかし|風斬《かざきり》は振り返りもしない。  石像の拳が、ピタリと止まる。まるで正確に|狙《ねら》いを定めるように。 「ひょうか、あれは人間じゃないんだから! あんな化け物なんかと戦うなんて思っちゃダメだよ! そんな事したら、ひょうかは絶対に助からないよ!」  彼女の叫びに、風斬|氷華《ひようか》はようやく、ゆっくりと振り返った。  砲弾のような拳に|睨《にら》まれているにも|拘《かかわ》らず、それを視界にも収めずに、振り返った。 「……|大丈夫《だいじようぶ》」  風斬は言う。  彼女の顔は、泣き出しそうな表情のまま、笑っている。 「私も[#「私も」に傍点]、人間じゃないから[#「人間じゃないから」に傍点]」  インデックスは、思わず息を|呑《の》んだ。  そんな少女を見てボロボロの笑みを浮かべながら、風斬氷華は最後に告げる。 「ごめんね。今までずっと|騙《だま》してて」  彼女の背後で、石像の拳が発射された。  |轟《ごう》!! と空気が押し|潰《つぶ》される。ほとんど|限石《いんせき》の|墜落《ついらく》に近い一撃が|襲《おそ》いかかる。インデックスは思わず身を縮め、風斬の名前を叫ぶ。  風斬氷華は、もう答えない。  彼女は後ろのゴーレムへと体ごと振り返る。風斬はその|華奢《きやしや》な両手を左右へ広げ、インデックスを守るための壁になるかのように立ちはだかる。  風斬のお前に石像の拳が迫る。  その巨大な一撃は、銃弾や砲弾というより、壁と呼ぶに|相応《ふさわ》しい。風斬とゴーレムの力関係は、全く|均衡《きんこう》していない。まるで細い小枝を土石流が押し潰すようにも見えて、  ゴガン!! と。  風斬氷華の細い両手が、ゴーレム=エリスの拳を正面から受け止めた。  手が、足が、胸が、腹が、背が、首が。|膨大《ぽうだい》な|衝撃《しようげき》を受け、体中の|繋《つな》ぎ目が外れてしまつたような激痛が|襲《おそ》いかかる。腕の長さが五センチも縮んだ。腕が圧縮された事によって、少女らしい|瑞《みずみず》々しい張りを持つ|風斬《かざきり》の肌に不気味な凹凸が生まれていた。それは|皮膚《ひふ》に浮き出る|肋骨《ろつこつ》のような生々しい質感を伴っていた。 「あ……あ……?」  風斬|氷華《ひようか》の背後から、|呆然《ぱうぜん》としたような少女の声が聞こえてきた。  |大丈夫《だいじようぶ》だよ、と風斬は振り返って笑いかける事もできない。  そのたった一言、一動作さえも許されない。  ぎこぎこがりがりと、まるで歯の表面を鉄のヤスリで削り取っているような激痛が両腕全体を内側から|舐《な》め回すように走り回る。  |拳《こぶし》を受け止める、などという感覚はない。  地滑りを起こした山の斜面を押さえつけているかのような、絶望的な力がギリギリと加わってくる。ガラクタを寄せ集めたゴーレムの|鉄拳《てつけん》を押さえつける指先が切れる。地に着けた足が、地面のアスファルトごとジリジリと後ろへ押されていく。重圧に耐え切れないふくらはぎが、めきめきという不気味な音を交えて雪の重みに負けた木の枝のようにたわんでいく。風斬の体内で激痛が爆発した。スネに思い切り|金槌《かなづち》を振り下ろされたような感覚だった。  石像は力押しで小さな抵抗を|叩《たた》き|潰《つぶ》す気になったのか、さらに|万力《まんりき》を締めるように拳の力を増していく。 「あ、ァああああっ!!」  |風斬《かざきり》が叫んで全身に力を込めると、彼女の手足が勢い良く|膨張《ぽうちよう》した。筋肉に力が入ったのではない。まるで風船に空気を吹き込むように、力によって押し|潰《つぶ》された手足が|膨《ふく》らみ、強引に元の形を取り戻したのだ。  |塞《ふさ》がりかけた傷口を無理矢理開けたような痛みに、風斬の視界が明滅した。  石の化け物の|拳《こぶし》の重圧がさらに増す。  外側から潰そうとする力と内側から戻ろうとする力の間に挟まれた少女の体から、ぎしぎしみしみしと古い床板を|踏《ふ》むような不気味な音が|響《ひび》き渡る。  風斬は激痛に奥歯を|噛《か》み締めながらも、それでもゴーレムの拳から手を離さない。  絶対に、離せるはずがない。  彼女の後ろには、守るべき一人の少女がいる。その白い少女は風斬のような化け物ではない。こんな巨大な拳を受け止められるほどの力はない。  化け物の相手は。  同じ化け物がしなくてはならない。 (だから……)  しかし、どうあがいた所で風斬|氷華《ひようか》に救いはない。  仮にインデックスを救ったとしても、その|代償《だいしよう》に彼女はゴーレムに倒される。体がどこまで|保《も》つかなんて試した事はないし、柱や自転車のように風斬の肉体自体がゴーレムの部品にされてしまった場合[#「風斬の肉体自体がゴーレムの部品にされてしまった場合」に傍点]、カザキリヒョウカはどうなってしまうのか、想像もつかない。また、万が一それを逃れ、何かの奇跡のように全員無事に生還したとしても、インデックスはもう風斬が人間でない事を知ってしまっている。 (だからって……)  あの学校の食堂で出会ったような時間は、  あの放課後の地下街で過ごしたような日々は、  もう二度と、帰ってこない。 (だからって、見捨てられるはずがない……ッ!!)  風斬氷華は全身|全霊《ぜんれい》を振り絞って、両足に力を込める。彼女の手は、足は、腰は、背は、何度も何度も外側から押し潰されては内側からの膨張を繰り返す。体の中身をかき乱す不気味な音は、黒板を|爪《つめ》で引っかくように周囲へ響き渡る。 「ひっ…ぁ……!?」  彼女の背後で、白い少女が息を|呑《の》む音が聞こえた。 「ふぎゃあ! しゃァァあああ!!」  彼女の背後で、|三毛猫《みけねこ》が|威嚇《いかく》の鳴き声をあげるのが分かった。  その白い少女|達《たち》には、カザキリヒョウカはどういう風に映っているのだろうか、と風斬は奥歯を|噛《か》み締める。ほんの一時前まで何気なく|隣《となり》を歩いていた彼女は、どんな風に。  だけど、|風斬《かざきり》はさらに傷口をえぐり出すように、全身に力を込める。  友達だから。  おそらくこんな姿を見た白い少女はもうそんな風には思ってくれないだろうけど、少なくても、風斬|氷華《ひようか》は|最期《さいご》の最期まで、彼女の友達でいたかったから!!  ぎちつ、と。  ゴーレムの体が、|軋《きし》んだ音を立てる。  体を内側から引き裂かれるような痛みの洪水の中、風斬氷華は見た。|業《こう》を煮やしたゴーレムが、もう片方の腕を振り上げているのを。  風斬の両手は、すでにゴーレムの|右拳《みぎこぶし》を押さえる事で|塞《ふさ》がれてしまっている。 (ぐう……ッ!!)  風斬は歯を食いしばる。だったらこの体を盾にしてでも、あの少女が逃げるだけの時間は稼いでみせる、と彼女は最期の決意を固める。  ゴーレムの腕が、|狙《ねら》いを定めるように中空の一点でピタリと静止する。  一秒後に確実に|襲《おそ》いかかる破滅お前に、風斬は思わず目を閉じようとして、 「か、ざ————風斬ィィイイいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!」  聞き慣れた、少年の声が耳に届いた。  その声は彼女の後方から。絶叫に似た声と共に聞こえるのは全力疾走の足音。風斬はこの状況で後ろを振り返るほどの余裕もないが、分かる。見えなくても、分かる。その少年がどんな表情をしているのか、何を思っているのか、どれほど急いでここまで駆けつけてきたのかを。  彼は。  その少年は、こんな怪物の変わり果てた姿を見ても、まだ風斬と呼んでくれた、  化け物ではなく、風斬と。  |呆然《ぽうぜん》とする彼女のすぐ横を、その黒い影は一|瞬《いつしゆん》で投げ|槍《やり》のように追い抜いた。  同時、ゴーレムのもう一つの拳が発射された。  少年はためらわない。戸惑わない。そして|臆《おく》しない。それがただ一つの切り札であるかのごとく、彼は右の拳を岩のように固く握り締めると、  ゴドン!! と。二つの拳が激突した。  少年の拳から、真っ赤な血が噴き出す。  しかしそれはゴーレムの力によるものではない。単にギザギザの岩肌を思い切り|殴《なぐ》ったようなものだ。その砲弾のような|一撃《いちげき》は、少年の|拳《こぶし》に触れた|瞬問《しゆんかん》に|全《すべ》ての威力を失っていた。いや 正確には、ゴーレムの拳の周りを見えない膜のように|覆《おお》う、磁力のようなフィールドに触れた瞬間から、だろうか。  |吊《つ》り|天井《てんじよう》のように|風斬《かざきり》の体を押し|潰《つぶ》そうとしていた圧力が、ふわりと消える。  それと同時に肥大化したゴーレムの全身に|亀裂《きれつ》が走り、そしてガラガラと崩れ去った。いつか地下街で見た時よりも大きく、派手に、灰色の|粉塵《ふんじん》が舞い上がり、皆の視界を奪っていく。 (終わった……)  風斬|氷華《ひようか》は、灰色のカーテンで仕切られた視界の中、一人孤独に笑った。 (これでもう……優しい幻想はおしまい、なんだ……)  たわんだプラスチックが元に戻るような音と共に、重圧に押し潰されていた手足が|膨《ふく》らみ、元へと戻っていく。  心の底から寂しそうに笑ってから、粉塵が晴れお前にここを立ち去ろう、と彼女は決めた。  危機は去った。  ならばもう、風斬に居場所はない。戦争が終わった後の兵器と同じく、こんな力を持った彼女は平和な世界にいるだけで怖がられてしまう。そして風斬が守りたかった白い少女には、そんな顔は似合わない。  視界が遮られていて良かったと、彼女は思った。  今後ろにいるインデックスがどんな顔を浮かべているか、風斬には確かめる度胸もなかったから。      7  |上条《かみじよう》は|廃嵯《はいきよ》だらけの一角に、ポツンと一人立っていた。  灰色の粉塵が晴れると、そこには風斬氷華の姿はなかった。ただ、雨も降っていないのにパタパタと二、三滴の水滴が地面に落ちているだけだった。  |騒《さわ》ぎを聞きつけた|美琴《みこと》や|白井《しらい》はすぐにやってきた。遠からず|警備員《アンチスキル》や|風紀委員《ジヤツジメント》も駆けつけてくるから厄介な事になお前に逃けよう、というのが彼女|達《たち》の弁だった。  そして美琴と白井は上条と共にここに残ろうとするインデックスを引っ張って、|空間移動《テレポート》によってこの場から立ち去った。白井の能力には移動距離に限界があるらしいので、おそらく一〇〇メートルぐらいの間隔でピョンピョンと移動を繰り返しているのだろう。上条だけは例によってカを打ち消してしまうため、自力で逃げるしかなかったのである。  シェリーの方は|警備員《アンチスキル》が何とかしているだろうが、これまでの件を考えると新聞にシェリーの名前が載るような事にはならないと思う。 「あー……色々と面倒臭せえなあ」  |上条《かみじよう》はため息をついた。|警備員《アンチスキル》なり|風紀委員《ジヤツジメント》なりがやってくお前に、済ませておくべき事が まだ残っている。彼は一度だけ頸上を見上げると、何かを確認してからいくつもある廃ビルの一つへと入っていく。  ビルはすでに窓も内装も取り払われ、灰色のコンクリートが|剥《む》き出しにされていた。取り|壊《こわ》す手順でもあるのか、赤いチョークのようなもので壁や床に専門用語による指示みたいな文字が書き込まれている。ガラスのない窓から赤い夕日が|射《さ》し込み、ホコリだらけの空気をレーザーみたいに引き裂いていた。  上条は手すりを取り外された階段を上る。  上って、上って、上って、上って、上って、上って、上って、最上階の先まで上り切る。  屋上に|繋《つな》がるドアはすでに取り外されていた。  朱色に染まる屋上へと彼は足を|踏《ふ》み入れた。そこは元々、空中庭園として使っていた場所らしい。|花壇《かだん》に敷き詰められた土はすっかり乾いてひび割れ、何かの花らしき植物の|残骸《ぎんがい》が茶色く枯れ果てて風に揺られていた。  そんな楽園の墓場の、さらに隅の隅。  |風斬氷華《かざきりひようか》は、金属てできた落下防止用の手すりに背中を預けるようにして座り込んでいた。その顔は|俯《うつむ》いているため、表情は読めない。  すでに押し|潰《つぶ》された手足は元に|膨《ふく》らみ、目立った傷もなさそうに見える。  それでも、彼女はたった一言の喜びの声もあげずに、顔を伏せていた。  上条はわずかに目を細める。  風斬氷華が姿を消したのがインデックスから———もっと広い意味では『人間』から逃げるためだとしたら、彼女はこうするしかなかったのだ。とにかくインデックスの元から離れたくて、かと言ってどこにも逃げ場がないのなら、|廃嘘《はいきよ》の中に|留《とど》まるしかない。  一人ぼっちの少女は、上条が屋上にやってきても何の言葉も交わさない。  ぽたぽた、と。水滴が落ちるような音が聞こえた。  傭いた風斬は、両手で写真シールを握っている。そこに、透明な|雫《しずく》が落ちていた。 「うっ、|嬉《うれ》しいから……ですよ」  上条の視線に気づいた風斬は、やがてゆっくりと顔を上げると、小さく笑った。 「だって……私は、私の持てる力を全部使って……私の大切な友達を、守る事ができたんですよ。|他《ほか》の|誰《だれ》でもない、私の手で……守り抜いたんです。だ、だから、私は……|嬉《うれ》しいんです。嬉しいから、泣いているに……決まっているじゃ、ないですか……」 「……、」 「ど、どうして……そんな顔、するんですか? ……笑って、くださいよ。|褒《ほ》めてくださいよ……それでちょっと、|嫉妬《しつと》してくれれば、スパイスとしては最高です……。。わたっ、私は……あなたがやるべきナイトの役目を、横から奪っちゃったんですから……。あはは、何を言ってるんでしょうね、私」  |風斬氷華《かざきりひようか》は笑っていたが、|上条当麻《かみじようとうま》は笑わなかった。  笑えなかった。  こんなにもボロボロの笑みを浮かべる少女を見て、笑みなど作れるはずがなかった。 「うっく……」  風斬が唇を|噛《か》むと、その笑顔は音もなく消えてしまう。 「初めから……分かっては、いたんですよ」  風斬は、ポツリと言った。 「……だって、当たり前じゃないですか。|誰《だれ》でも……分かるじゃないですか。こんな、化け物が自分の正体を明かせば……どうなるかっていう事ぐらい……。まだ隠していれば……何とかなったかもしれないのに、|馬鹿《ばか》みたいに……自分から明かしちゃったら何が待っているかぐらい、分かるじゃないですか。嫌でしたよ、私だって……。誰も好き好んで、あんな姿を……見せたいだなんて思いませんよ」  そこで、風斬の言葉が詰まった。  ひっく、と少女の|喉《のど》が|鳴咽《おえつ》を漏らした。 「……だけど、仕方がないじゃないですか」  ぶるぶると。|震《ふる》える唇を動かして、|懸命《けんめい》に。 「友達って、生まれて初めて友達って言ってくれた人を……助けたかったんだから、仕方がないじゃないですか……」  おそらく、彼女は始めから覚悟していた。  化け物としての正体をさらしてしまう事で、大切な何かを失ってしまう結末を。そして最悪の光景がありありと浮かぶからこそ、風斬は心のどこかで願っていた。  その予測が、外れるのを。  それがどれだけ低い確率かなんて考えもせず、ただ神様の奇跡にすがるように。  そして、その結果は———。 「何で……失わなくちゃ、いけないんですか?」  彼女はゆっくりと、手すりに預けていた背を離し、よろよろと立ち上がると、 「どうして……怖がられなくちゃ、いけないんですか!?」  涙をこぼしながら、上条の胸へと顔を押し付けた。  笑顔の裏に隠されていた|働契《どうこく》が、ゼロ距離で|炸裂《さくれつ》する。 「わっ、私は……私はっ! ただ大切な友達が……傷つけられるのが耐え切れなかったから、だから立ち上がっただけなのに! ……私の手には、私の大事な人を守るだけのカがあったから……放っておけなかっただけ、なのに! たったそれだけだったのに!」  少女の細く|華奢《きやしや》な手が、上条の胸板を|叩《たた》く。  押し付けられた顔から、くぐもった声が|響《ひび》く。 「つらい、です! 悔しい、です! 痛いんです……ッ! 何で、何でこんな気持ちに……ならなくっちゃ、いけないんですか! 私が何か、悪い事でも……したんですか! 私が|誰《だれ》かを守りたいと思うのは、それだけで悪いんですか……!?」  引き裂かれた心の悲鳴が、|上条《かみじよう》の耳に|叩《たた》き付けられる。  叫んだところで何が変わる訳でもない事を知りながらも、彼女は叫ばずにいられない。 「ずっと、|一緒《いつしよ》にいたかった! もっと友達で……いたかった! きっと仲良くなれるって、思ってた! なのに、これって……何なんですか!? 命を|賭《か》けても……守りたいと思える人に、息を|呑《の》まれた時の気持ちって理解できますか!? ……私は今でも理解できませんよ、自分の気持ちなんて!!」  少女は、自分の心すら整理できないまま叫び続ける。  いや、|黙《だま》っているのが耐えられないほどに、彼女は追い詰められている。 「ばけっ、化け物は、誰かを守っちゃいけないんですか! 私が人間だったら、こんな事には……ならなかったんですか! ……でも、無理に決まっているじゃないですか!怖がられても、嫌われても、見殺しになんて、できるはずがないでしよう……!!」 「……、」  上条は、その言葉をじっと聞いていた。  すぐ|側《そば》で少女は|震《ふる》えて泣いているのに、彼はその頭を|撫《なコ》でる事すらできない。  その幻想はあまりに|惨《はかな》くて、触れれば|壊《こわ》れてしまうから。  |幻想殺し《イマジンブレイカー》。  そう呼ばれる少年は、|風斬氷華《かざきりひようか》を抱き留める事もできずに。  だからこそ、彼は告げる。 「苦しいのか?」 「……、ぅ」 「|哀《かな》しいのか?」 「うう……ッ!」  風斬は上条の胸を叩くのをやめて、子供のように彼のシャツを|掴《つか》んだ。|噛《か》み殺そうとして失敗した|鳴咽《おえつ》が、引き結んだ唇の|隙間《すきま》からこぼれるように、漏れていく。 「そう思えるなら、お前は化け物なんかじゃねえよ。月並みでベッタベタのセリフかもしんねえけどさ、お前は人間だよ。|俺《おれ》が保証してやる」  それからな、と上条は一度そこで言葉を切ってから、 「お前のお話は[#「お前のお話は」に傍点]、まだ終わっちゃいねぇぞ[#「まだ終わっちゃいねぇぞ」に傍点]」  え? と風斬氷華は良く分からない表情を浮かべて顔を上げた。  カツン、という足音が上条の背後から聞こえてくる。  そろそろ来る|頃《ころ》だと思っていた、と彼は笑う。  |御坂美琴《みさかみこと》は言っていた。|警備員《アンチスキル》なり|風紀委員《ジヤツジメント》なりに捕まるのは厄介だから、とりあえずある少女を現場から引き離す、と。そしてある少女は最後までここを離れようとせず、|上条《かみじよう》と|一緒《いつしよ》に残ろうとしていた事も、彼は知っている。  もしも、少女が最初から|風斬氷華《かざきりひようか》の居場所を予測していて、  美琴|達《たち》の手で強引に現場から離されたためにすぐ駆けつけられなかっただけで、  そして最後に、その少女はずっと風斬の身を心配していたというのなら、  インデックスは、必ずここへやってくる。 「あ、れ?」  上条の胸に顔を|埋《うず》めていた風斬氷華は、しかし彼の背後に現れた人物を見て、戸惑ったような声をあげた。  彼はゆっくりと振り返る。  遠く離れた、ドアの取り外された屋上の出入り口に、真っ白な修道服を着た少女は立っていた。スカート部分の安全ピンが取り外されてチャイナドレスのようになっている。彼女の息は荒く、全身は汗だらけで、ここまで少しも休まずに走ってきた様子が|窺《うかが》えた。  その少女は、インデックスは、  視線の先に風斬の姿がある事を認めると、何の迷いもなく走ってきた。恐怖もなく、|嫌悪《けんお》もなく、まるで遊園地で迷子になった子供を見つけた母親のような顔で。  風斬氷華は、|瞬《まばた》きすら忘れてその光景を眺めていた。 「何で、ですか。おかしいじゃ……ないですか」  彼女の体は、寒さに|震《ふる》えるように小刻みに揺らいでいた。 「だって、変ですよ。わたっ、私は、人間じゃ……ないんですよ。化け物だって、いうのに、あの顔は何なんですか? どうして、あの子は、私を見て……あんな友達に向けるような顔が、浮かべられるんですか?」  対して、上条はいかにもつまらなそうにため息をついて、 「確かに、お前は人とはちょっと体の作りが違うかもしれないし、|他《ほか》の人にはできない事ができるのかもしんねえけどさ」  当たり前の事を聞くなと言わんばかりの声で、 「それでも、お前があいつの友達だってのに変わりはないだろ」  その言葉に、風斬氷華は涙をこぼしてヒザから崩れ落ちる。  インデックスはそんな彼女の胸へ飛び込み、勢いに負けて少女|達《たち》は屋上に倒れ込む。  |風斬《かざきり》は、恐る恐るインデックスの背中に手を回して、彼女の体を抱き締めた。  そんな彼女達の姿を見て、|上条当麻《かみじようこうま》は小さく笑った。 [#改ページ]    終 章 表舞台の裏側 「ほら見てくださいよ。今回俺って入院とかしてないじゃないですか。うわすげーな俺、これって一つの成長進化ですよね? そうですよね?」  病院の診察室で|上条《かみじよう》がカエル顔の医者に向かってはしゃいだ声をあげると、両サイドから|月詠小萌《つくよみこもえ》と|姫神秋沙《ひめがみあいさ》が同時に彼の頭を引っ|叩《ぱた》いた。 「上条ちゃん! あなたという人は本当に本当に本当に人様に迷惑をかけたのはノー眼中なのですか!? まったく|警備員《アンチスキル》さんのお世話になるだなんて……ぶつぶつ。もう! 後できっちりお話聞かせてもらってお説教ですからねーっ!」 「だから『|風斬氷華《かざきりひようか》』には警戒せよと。あれほど注意しておいたのに。女と知ると見境がなくなるその人格は。一度|徹底的《てつていてき》に|矯正《きようせい》した方が良いのかもしれない」 「……、あの。なんか後ろの二人が怖いのでやっぱり入院とかダメですか? もう絶対安静面会謝絶とかで、とにかくこの凸凹コンビの温度が下がるまでのシェルターが欲しいのですが」  上条がカエル顔の医者に要望を出すと、彼女|達《たち》は高速で彼の頭を|叩《たた》き始める。  今はもう日も暮れて、診察時問もとっくに終わっていた。見た目はピンピンしているものの、一応上条は救急患者である。|銃撃戦《じゅうげきせん》に巻き込まれたり地下の崩落に|襲《おそ》われかけたりすれば、傷がなくても精密検査をしていけという意見はそれほどおかしなものではない。  ちなみにインデックスと風斬は待合室に、|白井黒子《しらいくろこ》は何やら事件の後始末に追われて今日は眠れないらしい。  カエル顔の医者は時間外労働に|辟易《へきえき》した表情を浮かべつつ、 「しかしこの状況下で笑ってられる気持ちは私には理解できないね? それとも君はあまりの疲労にランナーズハイ状態になっているのかな。とにかく私に言えるのはだね、一歩間違えれば君の|拳《こぶし》は複雑骨折していたかもしれないという可能性があったぐらいかな?」 「……、はい?」 「目が点になっているね? でもこれは決して不自然な事ではないよ。人間の拳は精密な動きを可能とする分、関節も多くつまり|衝撃《しようげき》に弱いんだね? 単なる打撃なら額を佼った頭突きの方がまだマシという訳さ」  そういえばなんか右手がズキズキ痛むと思っていた上条は、その一言にゾッとした。医者の言う事は|破壊力《はかいりよく》が違う。  カエル顔の医者は微妙に患者を|脅《おど》して大人しくした後に、手っ取り早く上条の手を包帯でぐるぐる巻きにしていく。  |上条《かみじよう》が|黙《だま》ると、|小萌《こもえ》先生や|姫神《ひめがみ》の態度も沈静化していく。  小萌先生は包帯だらけの上条の右手を見ながら、やがてポツリポツリと言葉を発した。 「分からない事がいくつかあるのです」 「分からない事?」 「はいー。分からない事は考えても分からないので口に出す必要はないはずなんですけど、やっぱり胸に抱えたままでは気分が悪いので言ってしまいますねー」  小萌先生は|曖味《あいまい》に笑いながら、人差し指を立て、 「まず一つ目。|件《くだん》のカザキリヒョウカさんは、どうして上条ちゃんの近くに『出現』したのでしょうか? AIM拡散力場は学園都市中に満たされているはずですのでー、街の中ならどこに「出現』してもおかしくないはずなのです。にも|拘《かか》わらず、|何故《なぜ》『上条ちゃんの近く』に現れ続けたのでしょうか? まあ、偶然と言われてしまえば反論できない部分ではありますけどねー」  続いて、中指も立てて、 「次に二つ目。姫神ちゃんの言う『カザキリヒョウカは虚数学区・五行機関の|鍵《かぎ》を握る』というのは結局どういう意味だったのでしょうか? これもあくまで|霧《きりが》ヶ|丘《おか》の先生の話であって、それが根も葉もないデマだったと言われるとそれまでなんですけどねー」  さらに、薬指を立てて、 「最後に三つ目。何故テロリストさんは今日『出現』したばかりのカザキリヒョウカさんを正確に|狙《ねら》ってこれたのでしょうか。その存在は同じ学園都市にいる私|達《たち》でも気づけなかったはずなので、情報源は学園都市内のかなり深い所にいると思いますー。と言っても、やはりこれも因果のない偶然と断じられれば議論は終わってしまうのですけど」  言って、小萌先生は五本の指|全《すべ》てを開いて、パン、と顔の前で手を合わせると、 「しかして実際、こんなにも偶然が重なるってあるんですかねー、というのが一番不自然な所なんですよね」  診察室に|沈黙《ちんもく》が下りる。  答えを求めるためには、判断するための材料が少なすぎる。  ふと、カエル顔の医者は彼らから視線を外し、窓の外を見た。  ここからでは見えないが、その方角には、窓のないビルが建っている。 「これで満足か?」  ドアも窓も廊下も階段もエレベーターも通風孔すら存在しないビルの=至で、|土御門元春《つちみかどもとはる》は空中に浮かぶ映像から目を離して吐き捨てるように|呟《つぶや》いた。  巨大なガラスの円筒の中で逆さに浮かぶアレイスターは、うっすらと笑っている。  返事はない、その嫌な静寂に、かえって土御門はせっつかれるように言葉を絞り出す。 「かくして人間は|駒《こま》のように操られ、また一つ虚数学区・五行機関を掌握するための|鍵《かぎ》の完成に近づいた、という訳だ。正直、オレにはお前が化け物に見えるぞ」  虚数学区・五行機関。 「まさかその正体がAIM拡散力場そのもの[#「そのもの」に傍点]だなんて|誰《へもミへいこし》も思わぬだろう。学園都市に住む二三〇万人もの学生の周囲に自然に発生する力が虚数学区を作っているなどと」  AIM拡散力場によって作られる五行機関は、街に能力者がいる限り必ず作られてしまうものだ。  五行機関は有害か無害か、それすらも分かっていない。  それは原子力のような巨大な力の塊ではない。そんなものが街に|溢《あふ》れていれば、誰だって異常に気がつくだろう。五行機関の正体はあくまでAIM拡散力場であり、機械を使って計測しなければ分からない程度のものなのだ。  ただし、五行機関は減圧下に諮ける〇度の水のように不安定な存在でもある。  減圧下、つまり気圧の低い状態では、凝固点が下がるため水は〇度になっても凍らない。しかし、その水を棒や何かでかき回すと、減圧下の水は途端に凍り付いてしまう。  五行機関も同じ。|普段《ふだん》は機械で計測しないと分からない程度の力だが、一定の|衝撃《しようげき》を加える事でその力は爆発的に増してしまう。今回の|風斬氷華《かざきりひようか》が最後に見せたあの力も、ゴーレムによる攻撃か、あるいは別の要因による『衝撃』が示した力の|片鱗《へんりん》だろう。  そこで問題なのは、その『一定の衝撃』がどの程度のものなのかが分からないという点だ。|迂闊《うかつ》に指で突いただけで大爆発を起こすかもしれないし、案外気にするほどのものでもないのかもしれない、  また、『爆発的にカが増してしまう』とは言っているものの、それもあくまで『予想』にすぎない。どういう種類でいかなる規模のものかも分からないのだ、学園都市が地図から消えるかもしれないし、実は|怯《おび》えるほどのものでもないのかもしれない。  どこまで|踏《ふ》み込んで良いのかも判別できず、何が起こるかも分からない。従って、学園都市は不用意に五行機関を|叩《たた》く事もできないのだ。  ならばこそ、滅ぼさずに制御するという方法が考えられた。  そのための、鍵こそが———。 「風斬氷華、という訳か。まったく、あくまで虚数学区の一部分とはいえ、あんなものへ人為的に自我を植えつけて実体化の手助けをするなど、正気の|沙汰《さだ》とは思えない」  |幻想殺し《イマジンブレイカー》、という右手を持つ少年がいる。  その存在は、虚数学区にとって唯一の脅威とも言える。  そして、その脅威は自我を生む。  食欲や睡眠欲のように、生命体の本能が生み出す欲求は『生きるための』『死を遠ざけるための』シグナルとして生み出される。つまり、生死を知らない者には最初から本能や自我といったものは芽生えない。  ならば、逆に。  |幻想殺し《イマジンブレイカー》という死を教え込めば、心を持たの幻想は自我を持つようになる。  と、それまで|黙《だま》っていたアレイスターの口が開いた。 「これも虚数学区を|御《ぎよ》するための方策だ。『何をするか分からない』無自我状態よりも、|敢《あ》えて思考能力を与えた方が行動を予測できるし、上手く立ち回れば交渉や脅迫なども行える」 「生み出される心がお前の予測範囲内の善人ならば問題ないがな。それがとんでもない悪人になったらどうするつもりだったんだ」 「善人よりも悪人の方が御しやすい。両者の間にある違いなど、取り引きに使うカードの種類が異なる程度のものだろう」  くそったれが、と|土御門《つちみかど》はロの中で毒づいた。そもそも、アレイスターの人間に関する取り扱いは常人のそれとは大きく異なる。 「そこまでして、虚数学区を掌握する事に意味があるのか」土御門は、やがて問い|質《ただ》した。 「確かに虚数学区は学園都市の脅威だ。だが、脅威とは内側だけにあるものではないそ。今回、お前が黙認した一件によって、世界は|緩《ゆる》やかに狂い始めた。理由はどうあれ、イギリス清教の正規メンバーを|警備員《アンチスキル》の手を借りて|撃退《げきたい》したのだ。|聖《セント》ジョージ大聖堂の面々はこれを黙って見過ごすとは思えない。まさか、お前はこの街一つで世界中の|魔術師達《まじゆつしたち》に勝てるなどとは思っていないだろうな」  土御門の脅迫めいた声に、しかしアレイスターは笑みを崩さない。 「魔術師どもなど、あれさえ掌握できれば取るに足らん相手だよ」 「あれ、だと?」  アレイスターの言葉に、土御門は|眉《まゆ》をひそめる。  虚数学区・五行機関は確かに学園都市の中ではどこが安全で何が危険かも分からないほどの不気味な存在だ。だが、それは逆に言えば学園都市内部限定という事だ。AIM拡散力場は、能力者の周囲にしか展開できないのだから。  そこまで考えて、ふと土御門は背筋に嫌な感覚が走り抜けた。 (待て、よ……)  もう一度、彼はAIM拡散力場の集合体、虚数学区・五行機関について考える。  それは赤外線や高周波のように、そこにいるのに見る事も聞く事もできず、  人間とは別位相に存在する、ある種の力の集合体によって構成される生命体。  土御門|元春《もとはる》は知っている。  その存在を、魔術用語で述べるとどんな言葉になるのかを。 (まさか、天使)  いや、虚数学区の住人———例えば|風斬氷華《かざきりひようか》が『天使』と表現されるなら、彼女達が住んでいるとされる『街』とは、つまり……。 「アレイスター……お前はまさか、人工的に天界を作り上げるつもりか!?」 「さてね」  対して、アレイスターはつまらなそうに=言答えるのみ。  人工的に天界を作り上げる……いや、あくまで科学的な力のみで作られるなら、それは天界や|魔界《まかい》などいう既存の言葉では呼べない。カバラにも仏教にも十字教にも神道にもヒンドゥーにも表記されていない、まったく新しい『界』を生み出す事となる。  そして『界』の完成は、あらゆる魔術の破滅を意味している。  例えば地球上の浮力や揚力の基準値が大きく変化したとする。  この状態で|幼稚園児《しろうと》が画用紙に描いた設計図通りに飛行機を作ったとしても、それは最初から飛ばないだろう。が、キチンとした|專門家《まじゆつし》が描いた設計図に従って飛行機を作っても、それはやはり飛ばない。しかも、なまじ滑走路の上は走ってしまうから、いざ離陸しようとした所で姿勢を崩して爆破してしまう。  新たな『界』の出現による魔術環境の激変は、それを意味している。魔術師が魔術を使おうとすれば体が爆発し、魔術によって支えられている神殿や聖堂などは柱を失って自ら崩れていくだろう。  これはどんな宗教にも当てはまる。  考えてみれば良い。あらゆる宗教・魔術は一定のルールに従って実行される。もちろん、ルールは一つではない。仏教には仏教のルールが、十字教には十字教のルールがある。世界はたくさんの|色彩《ルール》が重なり合って描かれる巨大なキャンバスのようなものなのだ。  あ。らゆる宗教は何らかのルールに従っている事だけは変わりない。  そこへ、すでにルールが固まっている所へ、新たに『界』を突っ込んだらどうなるか。これまで安定していたルールはかき乱され、何をやっても魔術師は自分の暴発に巻き込まれる。  どんなに素晴らしいヴァイオリンの演奏家でも、楽器そのものの調律がメチャクチャならまともな演奏など。てきっこない。ルールをかき乱すとは、そういう意味だ。  今の所は虚数学区の|鍵《かぎ》は未完成のようだが、それが完成すればあらゆる魔術師は学園都市の中で魔術を使う事ができなくなるだろう。  学園都市は世界の縮図。  能力開発を世界規模に発展させ、あらゆる人々が能力に目覚めた時、世界はAIM拡散力場で|覆《おお》われる。街の中限定で展開されていた虚数学区は、そのまま全世界を埋め尽くす。  いや。  準備は、とうの昔に完成している。  |上条《かみじよう》の手によって救われた一万弱もの人工能力者|達《たち》『|妹達《シスターズ》』は、|治療《ちりよう》日的で世界中に点在 する学園都市の協力機関に送られている。|何故《なぜ》わざわざ『外』で体の調整を行う必要性があったのか|土御門《つちみかど》には疑問だったが、その答えはここにあったのだ。  |一方通行《アクセラレータ》を使ったあの|馬鹿《ばか》げた『実験」の真意は、|絶対能力進化《レベル6シフト》計画などではない。世界中 に配置すべき人造能力者の量産にこそあったのだ。いかにも自然に街の『外』へ送るために、|敢《あ》えて一度|量産能力者《レデイオノイズ》計画を|潰《つぶ》し、さらには隠れ|蓑《みの》であるはずの|絶対能力進化《レペル6シフト》計画を潰して二重の偽装を得て|妹達《シスターズ》は全世界へ蔓延した。  その|目論見《もくろみ》は成功と見て良いだろう。現にイギリス清教を始めとする教会諸勢力は|妹達《シスターズ》が『外』へ配布された事に気づいていない。いや、気づいていたとしてもその重大性までには至っていない。せいぜいが、学園都市の内輪の問題の後始末ぐらいにしか考えていないはずだ。  世界全土を囲うように、虚数学区のアンテナたる能力者は配備された。  あとは未完成の虚数学区を完全に制御し、新たな『界』として起動すれば。 『界』の出現によって、|全《すべ》ての|魔術師《まじゆつし》は己の力の暴走によって自滅し、  そして能力者にとっては、AIM拡散力場は何の妨害にもならない。  そうなれば、科学世界と魔術世界の戦争の結果など目に見えている。いや、それはそもそも戦争にもならない。両手を挙げた敵|達《たち》の頭を一人ずつ順番に|撃《う》ち抜いていくようなものだ。 (いや……)  土御門はそこまで考えて、首を横に振った。  本当にこれが、アレイスターの最終的な目的なのか? そうかもしれないし、そうではないのかもしれない。この人間ならこの程度はほんの下準備だと笑うような気もするし、存外何も考えていないという可能性もある。  分からない。  男にも女にも、大入にも子供にも、聖人にも囚人にも見えるアレイスターは、人間としてのあらゆる可能性を内包している。それ|故《ゆえ》に、アレイスターの考えなど予測もつかない。人類が考えうる限り全ての意見を持っていると言っても過言ではなさそうだ。  土御門は|戦標《せんりつ》しながらも、なかば負け犬が|吼《ほ》えるように吐き捨てる。 「ふん。これがイギリス清教に知れれば即座に開戦だな。今にして少し思う、オレはシェリー=クロムウェルに同情すると。お前の言動を吟味する限り、ヤツのポジションは単なる悪役ではない。れっきとした、自分の世界を守るために立ち上がったもう一人の主役だろうさ」 「馬鹿馬鹿しい妄想を|膨《ふく》らませるな。私は別に教会世界を敵に回すつもりは毛頭ない。そもそも君の考えにある人造天界を作るには、まずオリジナルの天国を知らねばならない。それはオカルトの領分だろう。科学にいる私には専門外だ」 「ぬかせ。お前以上に詳しい人間がこの星にいるか。そうだろう?」  土御門は、唇の端を|歪《ゆが》めて、 「魔術師[#「魔術師」に傍点]・アレイスター[#「アレイスター」に傍点]=クロウリー[#「クロウリー」に傍点]」  かつて、二〇世紀には歴史上最大の|魔術師《まじゆつし》が存在した。  彼は世界で最も優秀な魔術師であると同時、世界で最も魔術を|侮辱《ぷじよく》した魔術師であるとも呼ばれていた。  その彼が、長い歴史の中でどの魔術師も行わなかった魔術に対する世界最大の|侮蔑《ぷべつ》とは、  極めた魔術を|全《すべ》て捨てて、 一から科学を極めようとした事だった。  魔術師として頂点に立っていたアレイスターが、何を思って全てを捨てたのかは|誰《ぜれ》にも分からない。だがそれは魔術世界にとって最大の屈辱だった。名実共に世界一の魔術師が、魔術を捨てて科学に|頼《たよ》ろうとしたのだ。それはつまり、勝手にアレイスターが魔術文化代表を名乗って誰の許可も取らずに科学文化へ白旗を挙げてしまったようなものだ。  |故《ゆえ》に、アレイスター=クロウリーは全世界の魔術師を敵に回した。それは魔女狩り専門のイギリス清教のみならず、少しでも魔術を知った者なら例外なく、という意味だ。  ステイルがアレイスターと顔を合わせていてもその正体を看破できなかったのには訳がある。 イギリス清教は長年かけて集めてきた『アレイスター=クロウリー』の情報を元に追跡を続けている訳だが、この情報は全てアレイスターが意図的に|掴《つか》ませた誤情報なのである。元の情報が狂っている以上、それと照らし合わせてアレイスターを魔術的、あるいは科学的に調べた所で一致する点などあるはずもない。結果として彼は同姓同名の別人もしくは偽名という事になっていた。  そこまでやる技量と度胸に|土御門《つちみかど》は舌を巻く。土御門ならたとえ可能であってもそんな危険な橋を渡ろうとは思えないだろう。それが端的に両者の力量差を示していると言っても良い。 「丸っきり負け惜しみになるがな、お前に一つだけ忠告してやる。アレイスター」 「ふむ。聞こうか」 「お前はハードラックという言葉の意味を知っているか」 「『不幸』だろう?」 「『地獄のような不幸に何度遭遇しても、それを常に乗り越えていく強運』という裏返しの意味も持つ」土御門は、わずかに笑って、「オレにはお前が考えている事など分からないし、おそらく説明を受けても理解できないだろう。だが、あの幻想殺しを利用するというなら覚悟しろ。生半可な信念ぐらいで立ち向かえば、あの右手はお前の|世界《げんそう》を食い殺すぞ」  彼が告げると、ちょうどタイミングを計ったように空間移動能力者が部屋に入ってきた。  三〇センチ以上も背の低い少女にエスコートされ、土御門はビルから出て行く。  誰もいなくなった部屋の中、逆さに浮かぶ男は一人|呟《つぶや》いた。 「ふむ。私の信じる世界など、とうの昔に|壊《こわ》れているさ」  インデックスと|風斬氷華《かざきりひようか》は病院の待合室のソファに並んで座っていた。  病院は基本的に動物の持ち込みは禁止されているため、|三毛猫《みけねこ》は現在学生寮でお留守番だ。いつも三毛猫と|一緒《いつしよ》にいるためか、白いシスターは何となく座りが悪い感じで両手をぶらぶらと動かしていた。  そんなインデックスに、|風斬《かざきり》は引っ込み思案な声で、 「あ、あの……。そのスカート、直さないの?」  うん? とインデックスは自分の足の辺りを見た。ゴーレムとの|戦闘《せんとう》で安全ピンを引き抜い たせいで、スカート部分がチャイナドレスのように大きく開いていた。 「それ……す、すごく大胆っていうか、何か無防備だよ。危うい感じがするよ……」 「でも色々ゴタゴタしていたし、後回しでも良いかなって思ってるんだけど。ひょうか、この格好ってそんなに変かな?」 「へ、変かも。……すごく変かも。ただでさえ、怪しいのに……さらに怪しいかも」 「ただでさえ?」  インデックスは半目になる。何となく、この少女が自分に抱いていた感想を知る。  と、不意におかしな事が起こった。  |曖昧《あいまい》な顔で苦笑している風斬|氷華《ひようか》の輪郭が、まるで風で|霧《きり》が揺らぐようにプレたのだ。気を抜くと彼女の体が|霧散《むさん》して空気の中へと溶け込んでしまうような|錯覚《さつかく》すら感じる。  びっくりしたインデックスの前で、風斬の輪郭の揺れは大きくなったり小さくなったりした。ただし、その揺れが収まる事は一秒さえ存在しなかった。 「ひょ、ひょうか。それ……」 「う、ん。ちょっと、色々あったから……」風斬は、笑っている。「私の体は、言ってしまえば……超能力の塊みたいなもの、だから。……どうやった所で、自分が不安定な存在である事には、変わりはないの。私の存在だって、決して永遠ではないから……」  風斬はそう告げたが、インデックスは別の可能性を考えていた。  |幻想殺し《イマジンブレイカー》。  それは力の善悪を問わず、あらゆる異能の力を打ち消してしまう、必殺の手。 「ううん。それは、違うよ」風斬は、インデックスの顔色から何かを察したように、「あの人の力を、私は受けていない……。もし仮に、受けていたとしたら……私はその|瞬間《しゆんかん》に跡形もなく消えているはずだもの。だから、彼は悪くないの……」  風斬氷華は優しく告げたが、その声色は高低に揺らぐ。 「……|大丈夫《だいじようぶ》、消滅と言ってもそんなに早くは、起きないから。私の体は……二三〇万人分の力で、できているんだよ。……寿命と言っても、あなた|達《たち》の何十倍も後の話なんだから……」  風斬氷華は笑っている。  彼女の言葉と、自分の知識を統合すれば大丈夫だと思うはずなのに。  |何故《なぜ》だか、インデックスの胸には重たい不安がのしかかってきた。  全く音を立てず、|風斬《かざきり》の輪郭が不自然に揺らぎ続ける。心なしか、少しずつ揺れ幅が大きくなっていくような気がした。まるで、濃い|霧《きり》が少しずつ|薄《うす》らいでいくように。 「ああ、……そうそう。……これは、あなたにとって……重要な事か、どうかは分からないんだけど……」 「なに?」 「あの人の、力について。……私も、詳しくは……分からないんだけどね」  風斬|氷華《ひようか》は、そこで一拍置いてから、告げる。  |上条当麻《かみじようとうま》の右手は、超能力では説明できないという事を。  え? とインデックスの動きがピタリと止まった。 「待って。ちょっと待って、ひょうか。そんなのないよ。だって、だって|魔術《まじゆつ》にはあんな右手は存在しないもん! 私の頭の中には一〇万三〇〇〇冊分の知識があるけど、あそこまでデタラメな力の事なんて知らない! だったらあれは超能力じゃないと、説明がつかない!」 「ま、じゅつ? ……それが何なのか、分からないけど」風斬は小さく笑って、「少なくても、|能力《スキル》、じゃないよ……。大体、私の体は学園都市に住む……|全《すべ》ての能力者の力で成り立っている。もし、あの人が能力者ならば……その微弱な力が私の中に侵入して、私の体は|一瞬《いつしゆん》で分解されているはずだもの……」  そう言えば、とインデックスは思い出す。あの少年の力は学園都市で作られたものではないらしい、という事を。それは人工物ではなく、生まれた時から備わっていた天然物なのだと。  だとしたら、だとしたらあの力は何なのだろう、とインデックスは思う。  魔術でもなければ能力でもない、まったく別次元の力。 「さて、と。私はもう、帰らないと……」  言って、風斬はソファから立ち上がった。  インデックスは頭の中に巡らせていた考えを吹き飛ばし、|弾《はじ》かれたように顔を上げた。急に不安になった。帰るとは、どこに帰るという意味なのだろう[#「どこに帰るという意味なのだろう」に傍点]? 普通に考えれば時間も遅くなったから家に帰るという意味だろうが、インデックスは根拠もないのに何気ない一言に含みがあるような気がしてならなかった。  まるで置いてきぼりにされた子供のようなインデックスに、風斬は優しく笑いかけて、 「心配、しなくても……|大丈夫《だいじようぶ》。仮に私の体が消えたって、私が死ぬ訳、じゃないの。ただ、姿が見えなくなるだけ……。触れられなくなるだけ。たとえ……あなたには分からなくても、私はずっとあなたの|側《そば》にいるから……」  何で、こんなタイミングでそんな事を言うんだろう、とインデックスは思う。  それではまるで、もう二度と会えないような気がする。  何の根拠もないのに。 |風斬氷華《かざきりひようか》は明確な別れなど、一言も告げていないのに。 「ひょうか!!」  立ち去ろうとする風斬の後ろ姿に向かって、インデックスは思わず叫んでいた。  風斬はゆっくりと振り返ると、 「なに?」 「明日も……明日も、|一緒《いつしよ》に遊んでくれるよね?」  インデックスはほとんど泣き出しそうな顔で言う。  風斬氷華は笑う。  笑って答える。 「もちろん[#「もちろん」に傍点]」 [#改ページ]    あとがき  一気に六冊って我ながら冒険したなあという|貴方《あなた》は初めまして。  一冊ずつ購入していただいている貴方はこんにちは。  |鎌池和馬《かまちかずま》です。  さて、六巻です。主人公、ヒロイン、敵キャラ、結末、舞台裏など、今回は色々な部分をこれまでのシリーズとは微妙にずらして描写しています。どこがどういう風に変化球なのかは、本文を読んでのお楽しみ、という訳で。  今回のオカルトキーワードはゴーレムです。  スライムなどと共にゲームの中では割とポピュラー、それ|故《ゆえ》にラスボスの器ではないイメージがありますが、何か実際にあった(とされる)ゴーレムというのはとんでもない|代物《しろもの》っぽいです。何でも神様が人間を作った時の秘法を元にした|魔術《まじゆつ》で、それを使えるのはカバラを完全に極めた者のみだとか。  言ってしまえば|錬金術《れんきんじゆつ》における賢者の石と同じく、『これが作れたらナンバーワン』という証明書みたいなものらしいです。こうして作られたゴーレムにはキチンと安全装置がつけられていて、|壊《こわ》したくなったら簡単操作で土の塊に戻す事もできるとか。巨大ロボットにありがちな自爆ボタンのルーツここに見たり、という感じですね。  イラストの|灰村《はいむら》さんと担当の|三木《みき》さんには多大な感謝を。お二方とも、超多忙な中に鎌池の作品を見捨てず付き合っていただきありがとうございました。  そして本書を手に取っていただいた読者の皆様、本当にありがとうございます。鎌池が白いご飯を食べられるのは間違いなく貴方|達《たち》のおかげです。  それでは、本書が皆様の手に届いた事に感謝しつつ、  本書が皆様の手から離れない事をこっそり願って、  本日は、この辺りで筆を置かせていただきます。  ———結局、幻想殺しは少女の幻想を守れたのか[#地付き]鎌池和馬 [#改ページ] とある魔術の禁書目録6 鎌池和馬 発 行 2005年7月25日 初版発行 著 者 鎌池和馬 発行者 久木敏行 発行所 株式会礼メディアワークス 平成十九年一月三日 入力・校正 にゃ?